花燭の彩雲-2-

「……パスカルさん」

同じ頃、まさに諦め半分といった調子で声を掛けるヒューバートの声音には怒りが少しも含まれず、遠目に見るシェリアには幼なじみの対応がいたく不思議に映っていた。

その後僅かな死角に入ってしまった二人の一部始終を彼女が見届けることは叶わなかったけれど、先ほどのマリクの言葉の意味するところを理解してシェリアはひとり「なるほどね」とゆったり笑う。

「んー……」
「ほら、そろそろ冷えますよ。風邪でも引いたらどうするんですか」
「……あ、弟くん……おはよ」

緊張感のまるで無い様子に呆れ顔のヒューバートへ笑顔で目覚めの挨拶を送ったパスカルは、ぐいと一度伸びをして、改めて彼の方へと向き直って見せた。寝起きにぼんやりしていた視界が風に澄んで、そのままやれやれといった様子のヒューバートを鮮明に視界にとらえてみる。

やがて盛大に溜息を吐いたヒューバートと視線がかち合えば、どうしてだか少し嬉しくなった、気がした。

「まったく、どうすればこんなところで眠れるんですか。……相変わらずですね、あなたは」
「いやー、それほどでも……」
「誉めているわけではありません。……さあ、今日はもう帰りましょう?」
「はれ、ソフィたちは?」
「兄さん達ならあなたが眠っている間に随分向こうへ行ってしまいましたよ。おそらくあのまま家まで戻るつもりなのでしょう」

てきぱきとした説明を試みるヒューバートの言葉に「なーんだ、そっか」と納得したような表情を見せたパスカルは、いつも身に付けているマフラーを正しく巻きなおして立ち上がる。手に入れてから随分経つ今でもきちんと状態を気に掛けているあたり、現在愛用している薄紫色のこのマジカルマフラーを、彼女はそれなりに気に入っているようだ。

「……意外でした。自分のことは驚くほど省みないあなたも、それについては随分と気に掛けるんですね」
「ん?あー、これ?まあ一応、最近の中では結構気に入ってるしねー」

ま、別にいい思い出ばっかでもないんだけどさ。そう呟いたパスカルの言葉は届かぬままで、ヒューバートは感心したように「そうですか」と一言返す。聞き届けたあとで、何を思ったのか一度巻き終えたそれをすっかり解いてしまったパスカルは、次の数秒で先ほどよりもう少し、抱えたマフラーを首元に強く結んだ。

「よーし、こんなもんかな、っと」
「済みましたか?それではそろそろ……」
「うっわー、ねぇちょっとあれ見て弟くん!キレーだねー!」

支度を済ませたらしいパスカルに帰宅の同意を得んとしたのもつかの間、ひょい、と立ち上がったばかりの彼女が続けて上げた感嘆の声に、ヒューバートもつられたように空を見上げる。そこで眼前に広がった光景に、子どものようにはしゃぐ彼女を隣に置いたまま、ヒューバートは少しの笑みを口元に湛えた。

橙色と濃紺色の混ざり合う風景と、吹き付ける風に澄んだ空気が今日は殊更心地良い。そういえば夕暮れから夜に空が姿を変える時刻になると、このラントの空はいつも言い表せぬほど美しく幻想的な彩りを見せていた。昔、まだラントの家の人間としてこの街で暮らしていた頃、ヒューバートはこの地の景色をたいそう好んでいたことを思い出す。

ここラントには、この地を離れても色褪せることのない印象深い場所が数多くあった。その中でも特に強く記憶に残っているのは三つ。一つは初めてラントの裏山に行った日――ソフィに出逢ったあの日に見た色とりどりの花畑。二つ目にはいつの日か受けた守護風伯の上にさざめく風と、目の覚めるような蒼天。それから最後がこの夕暮れ時に見える、彩りの境界が曖昧な、それでいてひどく美しい空だった。

風がよく通るこの地は咲いた花をもよく運ぶ。いつかソフィが見たいと口にしていたクロソフィの風花も、このラントであればたぶん、難なく光を飛ばすのだろう。

「……ねぇ、弟くん」
「なんですか?」
「あたしさ、里にいたときは気づかなかったんだけど……世界って綺麗だよねぇ」
「どうしたんです、突然?」
「えー、なんとなく?フェンデルみたいに雪ばっかのとこから来たあたしみたいなのはさ、ちょっと色がたくさんあるとびっくりするんだよねー。世界にはまだこんなにいろんな色があったのか、ってさ」

そう語るパスカルは、相変わらず興味津々といった表情で飛んでは跳ねて、ひたすらぐるりとラントの広い空を眺め回している。夕食時とあって街に一切人気が無いことがせめてもの救いだが、奔放な行動もそれはそれで彼女らしくて悪くはないと今となっては思えてしまう。

いい加減こんな自分にも呆れが募るばかりだと、ヒューバートは気づかれないように溜息を吐いた。

「うん。世界広し!って言うけど、世界中を回ったあたしとしてもラントの景色はトップクラスだね」
「ふむ……それはこの街の元住人として光栄ですね」

年中を雪に覆われたフェンデルの、さらに奥へと位置する彼女が暮らすアンマルチアの里は、そこに暮らす人間には活気も技術もあるけれど、やはり環境としての閉塞感が否めない地だ。

ましてや今彼の隣ではつらつとして語るパスカルのように、自ら世界を見て回ろうとする人間などおそらくほとんど存在しないのだろうから、自由であることを第一にしてきた彼女にしてみれば生きにくいことも多々あっただろう。

底抜けの明るさと天然性がそれを微塵も感じさせないけれど、反面、実際はパスカルなりに思うところもあるのだろうと、最近になってヒューバートは考えるようになっていた。

「よしっ、ここもあたしのラントお気に入りスポットに加えちゃおっと」
「ここも、と言うと……他にもあるんですか?」
「ん?なになに、もしかして弟くん、あたしのとっておきのラント名所が気になる?」
「なっ、別にそのような意味では……」
「そっかー、やっぱ自分の故郷が他の人にどう見られてるかって気になるよねー。うんうん。そういうことなら弟くんにはあたしが調査したラントの穴場を特別に教えてあげちゃおう!」

ヒューバートの反射的な否定を遮って、パスカルは嬉しそうに「まずひとつはね」とにこりと笑う。不思議な雪色をしている彼女の髪は曖昧な空の色を見事に映して、白色との調和がさらりと風に揺れていた。

「……そだね、ひとつはやっぱり裏山の花畑かな。ヒューバートたちとソフィが初めて会った場所ならさ、あたしにとってもあそこは大切な場所ってことじゃない?」
「……あの花畑、ですか」
「うん。だって、ソフィが居なかったら今頃あたしはみんなにも会えなかったし、お姉ちゃんを止めることだって出来なかったかもしれないでしょ。そう考えたらあの場所は外せないわけよ」

まあ、お花も綺麗なんだけどね。そう一言付け加えて、パスカルはなおも嬉しそうな声色で語る。屋敷に足が向くこともなく、ただ暮れ行く空を前に立ち止まったまま、お互いの言葉に耳を傾ける時間はどことなく心地良いものに思えていた。

アスベルとヒューバートがあの日出逢ったソフィの存在は、今でこそ当たり前のように顔を合わせる仲間たちすべてを運命のように繋いでくれた。もしも彼女が居なければ、きっとたくさんのものが壊れたまま、彼らにとってのこの世界はもう少し色あせたものに見えていたことだろう。

「……ねえ、あの花畑さ、みんなの色があるって知ってた?」
「色?」
「うん。ソフィの紫にシェリアの桃色、アスベルは赤茶で、教官は黄褐色でしょ。それからヒューバートはまっさらな青!」
「……なるほど、花の色ですか。それでは、あなたは何色なんですか?」
「え、あたし?あたしは……うーん、そういえばあたしの分はなんにも考えてないや。てなわけで弟くん、ここはまかせた!」
「またあなたはそう無茶振りを……」
「いーじゃんいーじゃん。で、あたしの色は?」

期待の眼差しで迫るパスカルに早々の観念を決め、ヒューバートは一瞬のうちに質問の内容を整理する。底抜けに明るく、小さなことは気にせず、ただ好きなことには情熱を傾ける。だけれど実はあたたかく、仲間思いなところのある彼女の色は。

「……橙色、でどうですか?あなたにはよく合っていると思いますが」
「橙色?……うん、いーかも。それにしても弟くんがセンスある台詞を叩き出すなんて、これはちょっとした衝撃だね」
「……まったく、あなたはぼくを何だと思っているんですか」

肯定されたことに安堵しながらも、どこか呆れたような調子でこの日何度目かの嘆息をしたヒューバートは、悪びれる様子のないパスカルにやれやれと気づかれぬように両手を振った。

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