花燭の彩雲-3-

相変わらず終えた会話など気にも留めないパスカルは、一度どこかぼんやりと空を眺めて、再び視線を彼へと戻す。

「そだ、弟くんに聞こうと思ってたことがあるんだけどさ」
「……ぼくにですか?」
「そりゃ、今質問するなら弟くんしかいないでしょ?」
「まあ、そうなんですが。答えられることであれば、どうぞ」

ふと思い出したように少しだけ真剣な面持ちになったパスカルへ、ヒューバートも負けじと真摯な眼差しを返す。どこまでも純粋で子どものような彼女は、だからこそ、時々核心を突いてひどく鈍い痛みをもたらすことがあった。

何も映していないようでたくさんのものを映している瞳は、いつだって直視するのに随分な勇気をヒューバートに必要とさせる。まるで己を映す鏡のような、邪な部分の一切ない無邪気な彼女は一緒に居れば安らぐようで、時に言いようのない畏怖のようなものをも感じさせた。

「……あのさ。弟くんはアスベルをラントから追い出したとき、どう思ってそうしたの?」
「……え?」
「あ、別に非難したいわけじゃないんだけどさ。ごめん」

でも、ずっと聞いてみたかったんだ。そう言って先ほどよりゆるやかに笑うパスカルに、ヒューバートはすぐに返答することが出来ずに口ごもる。だけれど「どうしてそんなことを知りたいのか」などと、あえて野暮なことを問う気にもなれなかった。

たぶん彼女はすでに自分の中に彼女なりの仮説を持っていて、それを「やっぱりね」とあたたかく笑い飛ばしたいだけなのだろう。アスベルたちがパスカルと出逢った頃は、ちょうどアスベルが自分に意味を求めていた頃だった。それを間近で目にしていたパスカルだから、嫌味のない、ある種の興味が湧いたとしてもおかしくはない。

「……ストラタ軍が積極的に政策へ介入する以上、ラント領主が居ることに利点はありませんから」

ストラタの支配下に置かれることが決まったラントに形だけの権力者が居たとして、所詮は執政の妨げとなるだけの存在に過ぎない。元より領民を犠牲にするような恐怖政治などするつもりは無かったし、それならば、領主を人質に取ったかのような体制はまるで適切とは言えない。

「なるほど、まぁ確かにそうなるよねー。執政者の成り代わる土地の元トップ残したって、ラントに良いことなんにも無いもん。そのままにしてたらアスベルにだって良くないし。……ま、それを実際にアスベルがどう取ったかは別として、ね」

ヒューバートが告げた言葉に賛同と少しの皮肉めいた響きを覆い被せて、パスカルはなおも虚空を仰ぐ。遠く高い、この空は記憶の中の景色と少しだって変わりはしない。

「……兄さんがどう受け取ろうと、あの時選ぶことの出来る選択肢の中であれが最善だったのは事実です。打つ手など、他には……」
「……でもさ、ヒューバートは悲しかったでしょ?」
「な、ぼくは別に……!」

そうして冷静を貫かんとしてふいに挟まれた言葉に、ヒューバートは自身がひどく動揺する感覚を覚える。そのまま反射的に拒絶を口にしたヒューバートを優しい眼差しで追ったあと、パスカルは続けた。

「……でも、あたしが最初に会った弟くんはすごく辛そうに見えたな。違う?」

問い掛けながら、ほとんど確信であるかのように語るパスカルへ返す言葉もなく、ヒューバートは静かに拳を握り締める。本当によく見ているのだ、この人は。何も見えていないようで、周囲の機微に対して本人が逃れようの無いほどよく気づく。

気まぐれな彼女がそれを言葉にすることは日頃ほとんど無いのだろうけれど、言葉にすればひとたび鋭い刃に変わる。どれほど隠し通そうとしていても、その決意ごと貫いてしまう何かが彼女にはあった。

「……そうですね。悲しいというより、虚しい気持ちが無かったと言えば嘘になります」
「虚しい?」
「七年ぶりに再会した兄さんは、ラントを賭けたぼくとの争いにいとも簡単に敗北を許した。いつまでも超えるべき目標であったはずの兄が、今となってはその程度の決意しか持たない甘い人間に成り下がってしまったのだと。そう理解して、ぼくは確かに言い知れない虚しさを覚えました」

迷いのある剣は甘さだと教えられて育ってきたあの頃のヒューバートにとって、情で剣を振るえなくなることはすなわち甘さと同列だった。

ただ、一見して冷徹なばかりのそれも、環境を考えれば仕方のない考え方ではある。信念のためにはたとえ身内であろうと切り捨てて生きろと、そう語った傲慢な養父の言葉を常識であると受け入れることでしか、まだ幼かった彼があの家で生きていく術はきっと無かったのだろうから。

「弟くんさ、前に養子に出されてラント家を恨んだ、って言ってたよね。それって、アスベルに対しても同じだったの?」
「兄さん、ですか?」
「うん、そう。アスベル個人としても憎かった?」
「……いいえ。何度も恨んで楽になろうとはしましたが、結局、あの人だけは恨むことは出来ませんでした。……その証拠に、ぼくはあのお守りを七年経っても捨てることが出来なかった」

輝石の代わりに胡椒が詰められた、あのお守りと称されたひどく簡素で脆いものを、それでも手放すことは出来なかった。何度捨ててしまおうと思っても、日に日に薄れてしまいそうな記憶の中の兄の笑顔が弱い決意を殊更に阻んだのだ。

「……それじゃあさ。やっぱりヒューバートはアスベルが好きだったから、悲しかっただけなんだね」
「……え?」
「アスベルに勝って、アスベルを目標にしていた自分が虚しくなっちゃったんでしょ?あたしも分かるからさ、そういうの」
「パスカルさん?」

自身の持っていた結論をヒューバートへと告げて、思い返すようにパスカルは軽く瞳を閉じた。優秀という立場は、時に約束されているはずの絆ごと打ち壊してしまうことがある。それを彼らが痛いほど思い知らされたのも、長い長いこの旅だった。一瞬の間が空いて、パスカルは続ける。

「あたしさ、小さい頃からお姉ちゃんが憧れで、お姉ちゃんみたいになりたくて、暇さえあればお姉ちゃんの真似ばかりしてたって前に話したことあったでしょ?」
「ええ。研究を始めたのもフーリエさんの影響だったと以前話していましたね」
「……初めはほんとにそれだけだったんだよね。元々片手間だったし、その頃はまだ、何でも出来るお姉ちゃんはずっとあたしの憧れのままだった。……でも研究すること自体が趣味になってから、あたし、そのうちお姉ちゃんを追い越しちゃうばっかりになってさ」
「近づきたい気持ちがかえって仇になった、というわけですか」
「そりゃ、自分の研究が成功することは嬉しかったよ。けど弟くんも知ってる通り、軽々と難題を飛び越えて行くあたしを見たお姉ちゃんは、だんだんあたしを避けるようになっちゃったから」

今はそんなことないけどね。でも、すごく悲しかったんだ。そう安堵と寂しさを織り交ぜてゆるりと笑うパスカルに、ヒューバートはあの日の自分をそっと重ねる。再会した日に突き付けた言葉に兄はひどく悲しそうな顔をしたけれど、実際のところ、ヒューバートが努めて心無く放った言葉の中にはごく小さな戸惑いがあった。

「……功績を上げるより追いかけていたかった、ですか。その気持ちは……少しは分かる気がします」
「自分にとって絶対だった人を追い越すのって、悲しいよ。その人のことをもっと分かりたくて追っかけてたはずなのに、追いついたことに気づいた頃にはもう、そのままでは居られなくなっちゃうんだもん」

たとえばそれが親に対してだったなら、誰しもいつかその時が来ると知っている。けれど、兄や姉となれば話は別だ。いつまでも守ってくれるような気がしていた近しき強き存在が、実はひとりの人間でしかないことに気づかされるその日が訪れるのが、彼らにはきっと少し早すぎたのだろう。

「……でもまあ、あたしたちはちゃんと仲直り出来て良かったね?弟くん」
「……ええ、そうですね」

一度はどんなに道を踏み違えてしまっても、言葉さえ交わすことが出来るのならば、彼らはまだたくさんのこれからを作り上げていくことが出来る。相容れなかった過去を背負って、それでもまだ守りたい絆があると願うなら、どんなわだかまりもいずれは解けていくだろう。

ただ背中を追うばかりのあの頃とは彼らの立場も随分と違ったものにはなってしまったけれど、今もその繋がりだけは変わらない。姉と妹と、兄と弟。今となってはそれだけではなくて、たとえ血など繋がらなくとも命を賭してさえ守りたいと願う、大切な仲間たちが彼らの傍にはいつも居る。

「……さて、いい加減に日も暮れていますし、そろそろ戻りましょうか?」
「ありゃ、ほんとだ。全然気づかなかった」
「随分長居してしまいましたからね。無理もないでしょう」

さあ、先に戻った皆さんも心配するでしょうし、もう行きますよ。穏やかにパスカルへ声を掛けたヒューバートは、ふと自身が何かあたたかいものに満ちていく感覚に満たされていた。

まったく、あれほど情にだけは流されまいと心に決めていたというのに、結局快活な女性ひとりに目まぐるしく流されてしまうだなんて。

「……あ、そうそう。さっき言おうと思ってたんだけどね。あたしのラントお気に入りスポット、もうひとつはあそこの上ね」

長く留まっていた時間をようやく動かし歩いているうち、重々しくなってしまった空気を切り裂くように、ふいにパスカルが話の続きを明るく振った。身振りの大きい彼女は遠目にも何を語っているのか推し量ることが可能なようで、ようやく死角から抜け出したらしいシェリアとマリクが遠目から愉快そうにくつくつと笑っている。

「……もしかして、守護風伯のことを言っているのですか?」
「うん、そうだけど。それがどうかした?」
「いえ、そういうわけではありませんが……」

駄目押しに「ちなみに三つ目が今日の夕陽ね!」とパスカルの声が響いて、ヒューバートは内心ささやかな動揺に襲われる。今までラントの風景についてなど彼女とは一度たりとも話したことがないはずなのに、見事に目をつける箇所が揃い踏みしているではないか。

喜んで良いのか何なのか、複雑な思いを抱えたままでヒューバートはもう一度空を見上げる。気がつけば曖昧に混じり合っていた境界線は過ぎ去って、既にほとんどの橙色が姿を消してしまっていた。

「……そうですね、あなたにはそのうち話してみることにしましょうか」
「ん?なになに、もしかして弟くんの昔話?」
「……まあ、そんなところです」
「ほんと?じゃあ、あたし楽しみにしちゃおうっと」

あたし、弟くんの話聞くの結構好きだしさ。最後にもう一度元気よく笑って、パスカルはヒューバートの前方を機嫌良く跳ねる。「置いてっちゃうよ、弟くん!」と声を張り上げる彼女に、ヒューバートはこの日何度目かの苦笑を贈る。

「……まったく、待っていたのはぼくの方でしょう」

まあ、ぼくが勝手に待ったとも言いますが。溜め息混じりにそう呟いて、声に応えてヒューバートは足を速める。

すっかり夜に姿を変えたラントの空には、落ちそうなほどの白光が煌めいていた。