花燭の彩雲-1-

「教官、何を見ているんですか?」
「ん?いや、な」

そっと問われたそれに対してすぐには答えを返さずに、マリクは手持ち無沙汰に立ち尽くす。答えが無いことにほんの少しだけむっとした表情を作って、彼が視線をやっている先へ、シェリアもそっと視線をやった。視界に入ったのはラントの広場で走り回るソフィに付き合うアスベル。それから傍らでそれを見守るヒューバートと、二人へにこやかに応援の言葉を投げかけるパスカルの四人だ。

思わず中央の彼へ目が行ってしまいそうになるのをぐっと堪えて、シェリアは「またやってるんですか」と呆れ顔を作って笑う。執拗にアスベルを追い回すソフィにたじたじなアスベルではあるけれど、その様子は総じてとても和やかだった。

身体を動かすことが好きなソフィだから、アスベルは日頃から暇さえあれば今のように彼女の遊びに付き合わされている。こういうの、教官もやっぱり微笑ましく思って見ているのかしら。そうぼんやりと思い描いたシェリアは、同時に明日の食事のメニューについてを考えていた。

今晩はラントに留まるから夕食の心配をする必要はないけれど、明日の夜はおそらくどこかで野宿になるだろう。カレーはこの間作ったばかりだし、そろそろソフィの好きなカニ玉かしら。「シェリア、カニ玉?」と、いつものように瞳をらんらんと輝かせながら自分を見つめるソフィを思い描いたシェリアは心の中で微笑んで、ひとりでにそっと頷いた。

「……あら?」
「どうした?」
「……教官、あれ」

ふと飛躍した明日の予定から現実にかえってみれば、何やらアスベル達の傍らが随分と大人しい。相変わらずアスベルを追い回すソフィの光景は先ほどと変わらないのだけれど、彼らにしても、それでも先ほどと比べれば随分姿が遠くに見える。何が沈黙の原因かしらと見回せば、鬼ごっこという名の嵐が過ぎ去り夕刻に差し迫った陽の下で、応援する人をなくしたパスカルがとても眠たそうにうつらうつらとまどろんでいた。

「……寝てますね」
「ああ、見事にな」

元来がとてもマイペースな人だから、久しぶりに街に入って気が抜ければ無理もないだろうけれど。そう苦笑しつつ様子を見に出て行こうかと機会を窺うシェリアに対して、傍らのマリクはそこから少しも動こうとはしなかった。それはおそらく次に起こるであろう光景に対しての自己防衛でもあったし、今後展開されるであろう出来事に対する彼なりの一種の好奇心でもあるのだろう。

「あの、教官。様子……見に行かなくても大丈夫でしょうか?」
「大丈夫だ。……というより、行かないほうがいいかもしれんぞ」
「え?」
「放っておいた方が面白いものが見られるからな」

「まあ、おそらくだが」と付け加えて、マリクはなおも何の行動も起こさず遠方から腕組みを続ける。彼の言葉の意図をはかりかねて困惑した様子のシェリアは「面白いもの?」と不思議そうに呟いて、足を止めたまま視線を移した。


「……アスベル、速くなった」
「そりゃ、七年も経てば少しはな。今ならお前との競争だって負けないさ」

追いつ追われつを繰り返しながら随分と走り続け、ヒューバートとパスカルをはるか遠方に置いたまま訪れた疲労感にようやく腰を落ち着けたアスベルは、ソフィの言葉にふと七年前のあの日を思い描いていた。

街道の小屋の前で、どちらがどちらを守るかを賭けて走ったあの頃はまるで彼女に歯が立たなかったアスベルも、いま七年の時を経て随分と大人になった。今でも追いかけ合えばソフィに捕まってしまうことは多々あるけれど、あの頃に比べれば、逃げ切れることだってずっとずっと多い。

長い時が経ち、望まずとも変わってしまったものもその手の中にはたくさんあった。けれど、この実に単純で大きな変化だけは、彼女を守るために長年心を砕いた証なのだと今は素直に誇ることが出来る。

「ねぇアスベル、わたし、嬉しかったのかな。あの時アスベルに勝って」
「え?」
「……わたしね、アスベルを守らなきゃいけないと思った。でも、違ったのかもしれない」

そうじゃなくて、守りたかったのかもしれない。続けてそっと呟かれた言葉に、アスベルはあの時身を呈して自分を守ったソフィの記憶を反芻させる。

まだ子どもだったあの頃から今まで、気の遠くなるくらいに色々なことがあった。七年前、ラントの裏山で出逢った記憶を失った少女に、彼らはいずれ風花となる紫の花の名を借りてソフィと名付けた。きっと、それがただすべての始まりだった。

原素に満ちるあの場所で昏々と眠った少女は、眠りから目覚めたそのとき何ひとつを覚えていなかった。自分が何者で、どこから来て、何のためにあの場所で長きを眠っていたのかすらも。

それからラントに帰った二人は時が経ってリチャードと出逢い、約束のあの裏山で三人、永きに続けとその友情を誓い合った。あれはまだとても幼い頃の約束だったけれど、それでもたしかにこの契りは一生の約束にも成り得るだろうと、あの頃からアスベルの中には淡い確信めいたものがあった。

しばらくしてリチャードが国へ戻り、ヒューバートが父であるアストンとバロニアへ発ってから、アスベルはソフィと二人、バロニアへと旅をした。そのときだ。いつかソフィの記憶を取り戻すためにみんなで一緒に旅をしよう、と誓ったのは。

年端もいかない子ども心に、それでも守ってやりたいと強く願った。自分のことを何も知らない、儚くて、笑顔を忘れた少女のことを。

「……お前は昔から俺たちのことを守ってくれてたよな。あの時もそうだけど、あの時だけじゃない」
「でも、わたしを守ったのもアスベルたちだよ。消えないでいられたの、みんなのおかげだから」

アスベルが語る「あの時」、彼にとって初めての対峙となったラムダにソフィは果敢に立ち向かった。彼女が元々エフィネアに送り込まれたラムダ殲滅のためのプロトス1と呼ばれる兵器だったということは、そこから七年経ったこの旅の中で知ったことだ。

彼らは突きつけられた現実に確かに戸惑いはしたけれど、それでも、それで彼らの中のソフィの存在が揺らぐことは少しも無かった。アスベルや皆にとって、すべての行動の元になった少女がどのような存在だろうと、そのこと自体に別段大きな意味など無い。今更何がどう揺れ動いたところで、彼らにとっての大切な仲間はプロトス1という存在ではなくて、「ソフィ」そのものであったから。

「みんなお前を守ったし、お前もみんなを守った、か。……そうだよな。仲間だから……当然だ」
「……うん」

呟かれたアスベルの言葉に少し嬉しそうに笑うソフィは、七年前のあの頃に比べてとても感情豊かになった。今ではただラムダを殲滅するための機械として存在するのではなく、彼女は確かに心を持って想いを語る。たとえそれが本来彼女が造られた目的とは外れてしまっていたとしても、アスベルにとってそれは単純に喜ばしい変化であったし、常に新しきを知ろうと瞳を輝かせる様子に安堵もした。

だからこそ、彼は心の中で新たに誓う。彼女を守りたい思いは今もひとつも変わらない。まだ心を知ったばかりの彼女に、自己犠牲を図らせるような真似を決してさせたりはしない、と。

「……おっと、そろそろ戻るか?ヒューバート達、思いっきり置いてきちゃったしな」

急速にあたりが暮れ始めたのを確認して、話を一段落させたアスベルは少し急いたように呟いた。暮れかけた空には快い風が吹いて、心地良い疲労がじわりと襲う。

「戻るのはだめ。アスベル、このまま帰ろう?」
「え?だって、みんな心配するんじゃ……」
「じー……」
「な、何だよ?」
「アスベル、わかってない」

屈託のない笑顔で何の思慮もなく弟たちのもとへ戻ろうと提案するさまを見て、ほんの少しだけ焦り気味にアスベルを止めたソフィは、同時にほんの少しだけ得意げにアスベルの鈍感さを咎めて見せる。

アスベルといえば、仲間の誰もが呆れるほどにその手の話題には疎い。いつも教官が呆れる気持ち、わたしにもちょっとだけ分かった気がする。心の中でそう呟きながら、まったく意味がわからないといった様子のアスベルの腕を強引に引っ張って、ソフィはもう一度「行こう?」と呟いた。

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