そしてやさしく雨は降る

二人がマルクト軍基地の会議室へと足を踏み入れた瞬間、よく覚えのある怒号が割れんばかりに響き渡った。

「ムキー!だから私はそうだと言っているんです!少しは美しく華麗なこの私の助言を聞き入れたらどうなんですか!」
「げ……ディスト?なんでアンタがここにいるの?」
「おや、アニスとフローリアンではありませんか。いやー、申し訳ありませんねぇ。見ての通り騒がしい来客が押し掛けて来てしまっているところです」

涼しく応対していたジェイドが新たな来客に気が付き、フローリアンたちを振り返って相変わらずの人の悪い笑みを浮かべれば、その後ろでディストはさらに激しく吼える。呆れたアニスと呆気に取られるフローリアンを見比べて、ふと思い当たったようにジェイドは頷いた。

「あなたたちがいらしたと言うことは、用件はアレですか。これは丁度良かった。これでこちらの死神さんともお別れすることが出来そうです」

合点がいったような面持ちで、詳細を濁しつつも「事前にトリトハイム様から聞いていましたよ」と語るジェイドは、後ろから聞こえる声にはまるで気付かぬふりをしてフローリアンへと歩み寄る。そのままフローリアンが差し出したデータを表面、裏面とさらりと見回し、彼はそれを「確かにいただきました」と微笑み受け取った。

重責から解放されて安堵したのか、フローリアンはにこりと笑んだ。その裏に少しの陰りがあることを見逃さなかったジェイドではあったけれど、まずはこの場を収めんとディストの方へ向き直る。

「……さ、突然ですが証拠はこれです。どうぞ」
「これは?」
「ダアトのレプリカデータ一覧です。詳細も記してありますが……ああ、あなたが騒ぐと機密事項がしっかり外に漏れ聞こえるので、くれぐれも黙って読むようにお願いしますよ?」
「そんなことはあなたに指図されなくても心得ています。どれどれ、早速天才ディスト様が確認して差し上げましょう」

嫌味を一蹴してジェイドから手渡されたデータを得意げに参照し始めたディストは、次第に調子の良さを失い、やがて引き込まれるようにその記述内容に目を奪われていく。

彼のプライドの問題なのだろうか、ディストがジェイドの言いつけを守り、一言も発さないことを確信したフローリアンは人知れずに安堵した。もし安易に口を開かれでもしたなら、内容の都合上、ひどく残酷なことを武防備なままアニスに伝えてしまうことになる。それだけはどうにも想像したくない事態だ。


一方事情を知らぬまま気味の悪いものを見るような面持ちでディストをちらりと見やったアニスは、続いてジェイドの方にも手持ち無沙汰に視線を送る。当時35歳を自称していた彼は、今見てもあの時からまるで老けていないように見えるではないか。

いや、そもそも35歳の時点で外見と年齢がまるで釣り合ってはいなかったと言えばそれまでではあるけれど。それにしてもこの外見、どう見ても詐欺としか言いようがない。内心で呟いたアニスは、最後に小さく溜め息を吐いた。昨日から憂鬱だ。とても、とても。元気な風を振舞ってはいても、心のうちに重くつかえた鉛が消えてはくれない。

フローリアンも大佐も、大丈夫と強がって苦しさを隠し切れるような相手でないことは分かってる。だけど、強がらずにはいられない。頼りたくないとか、そういうことじゃなくて、自分から強くあることを止めてしまえばそれ以上、真っ直ぐには立っていられなくなる気がするから。

「……ジェイド、悔しいですがあなたの理論は認めましょう。内容はコピーさせていただきますよ。私は研究室に帰ってその先を検証します」
「ええ、是非そうしてください」

そうこうしている間に資料へひとしきり目を通し終わったらしいディストは、ふざけた調子を微塵も見せずに事務的なやり取りを繰り返す。コピーし終えたそれを漏れが無いよう神経質に何度も調べ、そのままあっという間に会議室から出て行った。

「……何だったの?アイツ」
「なあに、私の理論があまりにも鮮やかに打ち勝ってしまったものですから、次の検証では上を行く結果を捻り出そうと意気込んでいるだけですよ」
「うさんくさー……大体なんでディストがここに居たんですか?アイツ、捕まってたはずじゃ……」
「……出所させたんですよ。もちろん、条件付きではありますがね」

ジェイドの話すところによると、捕らえられたその後、ディストは獄中でいくつもの実験協力や知識の提供を強制させられたそうだ。元々頭脳は天才とうたわれるこのジェイド・バルフォアに並ぶほど明晰であるからしてそれ自体は必然ではあるのだが、こだわりの強いディストに自分の研究室ではない、設備の揃わない研究室を与えてもさっぱり良い結果が返ってこなかった。

あまりに多くの問題を抱えるこの世界がこれからを生きていくためには、多少難があろうと二人の天才の存在は不可欠だ。そこで散々議論が重ねられた挙句、「本来の刑期中に逃亡した場合は無条件で最重罰を課す」という、いわば逃げ道の無い執行猶予を与えてディストは釈放されたというわけだ。

「へえー。でもでも大佐も大変ですよねー、ディストと共同研究だなんて」
「ええ、全くです」
「はは……否定しないんですね……」

言い切るジェイドへ苦笑を送るフローリアンに、二人は「それは当然」と言わんばかりににこりと笑う。平和を迎えた今となっては、何だかんだと言いながら、結局みな仲は良いのだろう。

フローリアンはジェイドがフォミクリーの生みの親であることも知っていたけれど、それは彼にとってあまりに当たり前すぎたから、別段なにか特別な感情を呼び起こさせることはなかった。だからこそ、信頼を寄せ合うアニス達を素直に微笑ましいとも思ったし、少し、羨ましいとも思った。

「……さて、お二人はこのあと急ぎではありませんね?」

ふいに話を急旋回させて、ジェイドはなお軽い調子のまま続ける。

「へ?あ、はい。バチカルに向かうんですけど、今日は泊まるし……」
「そうですか。ではフローリアン、少しお付き合い願えますか?」
「え……僕、ですか?」
「ええ。個人的にちょっとお話しておきたいことがありますので」

ジェイドの突然の提案に、フローリアンは察しよくその意図を理解する。

たぶん僕があのデータの中身を見たことを、この人は既に知っているのだ。

「……わかりました」
「いやー、申し訳ないですねぇ。せっかくダアトから偉大な詠師様がいらしたと言うのにお相手のひとつもして差し上げられなくて。しかし貴方に関してその必要性を微塵も感じられないとは、私も遠慮と言うものが無くていけません。いやまったく、困ったものです」
「ちょっと大佐、それどーいう意味ですか!」
「いえいえ、私は私の不遜を嘆いているだけですよ。あなたがお怒りになる必要はございません、アニス様」
「むー、大佐の意地悪!」
「あはは。アニスは先にガイに会っておいでよ。僕は話が終わったらそのまま宿に戻るからさ」
「うー……わかった、そうする。大佐ぁ、覚えててくださいよ!」

捨て台詞を残してむくれたまま、アニスは早足で会議室をあとにする。バタン、と戸が閉まる音に賑やかなやり取りが途切れると、室内には異様なほどの静けさが張り詰めていた。

「……変わりませんねぇ。もう少し冗談というものに乗ってもらっても良いと思うのですが」
「初めて会った時から、やっぱり変わりませんか?」
「ええ。それはもう、全くと言っても良いでしょう」

呆れたように、それでも親しみを込めて笑うジェイドは、ごく軽快な調子でフローリアンに言葉を掛ける。ジェイドとアニスが初めて会ったのは、彼女が導師守護役になった頃――つまり、導師イオンがレプリカと入れ替わって間もない頃のことなのだそうだ。

子どもでもない、かと言って大人とも言えない立場に置かれたアニスはあの頃既にあの性格に落ち着いていた。明るく笑むことで何事をもやり過ごそうとする、それはまるで子どもの姿をした弱い大人のようだったと、彼は少し皮肉を装い、その実とても痛々しげに語って見せた。

「誰より子どもで大人なのですよ、彼女は」

そして、それは時に私さえも超える。言葉にせず呟いた一言は、重みを持ってジェイドの内に跳ね返る。レプリカの生きる毎日に巻き込まれたアニスは、レプリカの運命に振り回され底知れぬほど傷ついた。根本の原因が自らにある事実を、決して捨て去ることは出来ない。

「さて、与太話はこのあたりで良いでしょう。……遠まわしに聞いても仕方がありません。単刀直入にお聞きしますが、あなた、あのデータをご覧になりましたね?」
「……はい」

一度は緩みかけた場の調子がいま、再び締め付けられるように冷えていくのが分かる。フローリアンの肯定に「やはりそうでしたか」と呟いたジェイドは、部屋の奥のテーブルから別の研究データらしきものを取り上げた。

「持ち出し厳禁」と書かれたそれは紛れもないジェイドの文字であるから、単に本人が他所から持ち込んだものなのだろう。今日届けた研究データとその装丁はよく似ていて、内容に共通点があることは間違いなさそうだ。

「あれをご覧になったということは、貴方の中にはおそらく、既に自分に今後起き得る危機についての認識もあるのでしょうね」

レプリカイオンは総じて聡いですから。受け取り様によってはひどく残酷なその一言は呑み込んで、ジェイドはその瞳をじっと見据える。哀れに思うでもなく、軽蔑するでもなく、向けるのはただ真摯な眼差し。その奥に何を背負っているかを読み取ることまでは叶わなかったが、真実だけを述べるべく「はい」とだけフローリアンは答えた。

「……そうですか。ならば話は早い」
「どういうこと、ですか?」
「……こちらも簡潔に申し上げます。おそらくあなたは消えません」

まもなく死の宣告を受ける覚悟に胸を軋ませたはずのフローリアンは、次の瞬間、ジェイドが口にした言葉に困惑を隠せなかった。恐怖よりも驚嘆よりも、ただ、予想と正反対のその言葉がいったい何を意味するのか、咄嗟には理解出来なかったのだ。

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