そしてやさしく雨は降る

「ええ、と……?」
「戸惑いますか。まあ、当然の反応でしょうね」

ある種事務的な口調のまま、ジェイドは少し瞳を揺らす。いかにも「消えはしないが、何もないことはない」とでも言いたげな様子だ。フローリアンは黙り込んで、ジェイドに事の説明を促す。

その空気に耐えられなくなったのか、やがて「乱雑な表現もありますが」と前置きして、彼は言葉を紡ぎ始めた。

「……オリジナルイオンと比較した場合、あなたは譜力が皆無に等しい。それは分かりますね?」
「はい。僕はほとんど譜術を使えませんから……」
「では、まずは大前提としてお話しておきましょう。……導師に代わるレプリカを選考する際、あなたが真っ先に廃棄を定められたのはその為です」

あのときフローリアンが真っ先に棄てられようとしていた理由は、ヴァンやオリジナルイオンがローレライ教団の導師にふさわしいと考える固体が、まず第一に「譜力を十分に有している固体」だったからではないかとジェイドは語る。

体力など二の次で、預言を扱う世界の中で人心を掌握しておく為には預言を扱える人間が導師を務めることこそ最善。だからこそ、譜力の資質が皆無であったフローリアンなど彼らにとっては価値のない傀儡と同様であった、と。

「傀儡……」

つまりは物言わぬ従順な人形。不要になれば廃棄に至る、ひどく使い勝手の良い単なる「物質」の名前。

告げられた単語を追うように呟いて、フローリアンは少しだけ痛ましげな表情を見せた。流れるようにして彼から視線を外したジェイドは自身が持ち込んだ資料と、新たに届けられた資料のページをそれぞれに開いていく。

前者にはオリジナルイオンとそのレプリカたち――特に入れ替わりで導師となったアニスのよく知るイオンと、かつて六神将に属した烈風のシンクのデータが詳細に記されていた。後者は船の中で彼自身も目を通しているが、こちらにはダアトで登録されたフローリアンのレプリカデータが克明に記されている。

「同列生成に拠り生み出されたレプリカが音素乖離を免れる為には、いくつかの条件が存在します」
「……条件?」
「無条件でリスク回避が可能なレプリカは、当然ながら同列生成ではないレプリカです。しかしこれはあなたがたにとって現実的ではありませんし、本題とは矛盾しているのでここでは無視します。長くなりますが、資料を踏まえて一気にお伝えしてしまいましょう」

そう言って、ジェイドは研究の最終結果に基づく理論をかいつまんで話し始めた。

非消滅の条件はまずひとつ、同列生成により誕生したレプリカではないこと。これは条件として独立しており、それだけで完全同位体を除く大多数のレプリカが音素乖離を起こす確率は著しく低下する。

それに比べ、同列生成されたレプリカが音素乖離による消滅を免れるにはいかなる場合においても複数の条件が揃っていなければならない。その条件というのが誕生時の体力が一定数値以上であること、オリジナルに対してのレプリカの同位数値が+-0.0002以内であること、それに加えて後天的に極端に譜力を消費して衰弱していないこと、の3点なのだそうだ。

オリジナルに代わって導師となったイオンは同位数値の基準を満たしていたが、ダアト式譜術の複数回使用による譜力磨耗が無くとも初期体力の数値が低く、まず5年は持たなかった。レプリカの体機能低下は先天的なものなので、あとから体力をつければどうにかなるというものではなく、そもそも体力を付けること自体が難しい。

シンクはオリジナルに対して体力に引けを取ることは無かったが、見目の差異が出ない範囲ながらも同位数値が同ラインの固体の中では基準を超えてオリジナルと離れており、彼が戦わずに生きていたとしても音素乖離は必至だった、ともジェイドは語る。

結局、戦うこともなく一度惑星預言を読まされかけただけのフローリアンは基礎体力もオリジナルにそれほど劣らず、同位数値もかなり近いため、現段階において乖離の可能性は極端に低い。譜力の基礎値が著しく低いため、何らかの理由で負担の大きい譜力の磨耗があれば簡単に乖離する可能性はあるが、普通の生活をしている分には特に問題無いだろう、とのこと。

「……ざっとご説明させていただきましたが、ご理解いただけましたか?」
「あ、ええと……はい……」

問われ、戸惑いを交えてフローリアンは頷く。世界が誇る天才達が計算しつくしているのだから理論は完璧に思えるし、理屈としてもよく分かる。だけど。

「あの。もしもの話を……しても良いですか」
「……ええ、どうぞ」

あまり仮定の話を好まないジェイドを前にしても、フローリアンは湧き出る言葉を呑み込むことが出来そうになかった。意を汲んだジェイドもそれを邪険に扱うことなく、彼の次の言葉を穏やかに待つ。

「僕の他に……導師になった、アニスが護衛していたイオンと……それから、シンクが居たことは、知っています。他の4体のレプリカが僕と……シンクと同じように火山に廃棄されたことも」
「……ええ」
「それじゃあ、生き残れなかった4体のレプリカがもし生きていたら……その中には、僕のように生き残れた者も?」

データは揃っているんですよね。それなら、もしかして僕のようなレプリカも、たくさん。そうして切れ切れに、言葉を選んで問いかけるフローリアンへ、ジェイドは心の中でやり切れずに息をつく。

問いを受け取る前から予想は付いていたけれど、あえて彼からそれを問うことはしなかった。聡明なこの子はたぶん、ジェイドに訊くまでもなく、答えをその身に持っている。今はただ、それを確信に変えることで己に対して理由を与えてやろうとしているのだろう。

存在することに理由など必要無いと知りながら、それでも負い目を感じて罪悪感を静かに抱く。この子どももまた、優しすぎるのだ。

幾度も使いたくないと願う言葉が今、残酷にもジェイドの脳裏を過ぎる。

ああ、「作り物」はやはり「似ている」のだ、と。

「居ました……と、返されるのが分かっていながら聞きますか」
「……すみません」
「構いませんよ。それであなたの気が済むのでしたらね」

現実に永らえたのはイオンとシンクでしたが、7体のレプリカに対して何の人為的な横槍も入らなかったと仮定すれば、長い目で見ると、4体のうち1体は音素の乖離を起こさず生きることが出来たでしょうね。

包み隠さず語るジェイドに真摯な眼差しを向けたまま、フローリアンは「そうですか」と一見無感情に頷きを返した。運命を語ることをとうに棄ててしまったこの世界で、今更運命に向かい合う苦痛は如何ほどのものなのだろう。運命に負けまいと強い瞳をしたこの子は、けれど運命によって生かされた。過去に縛られて生まれ、未来だけが燦然と開けているこの不可思議な状況は、まるでこの世界の歪みの過程を象徴しているかのようだ。

「……教えてくださってありがとうございました。なら僕は、簡単には消えられませんね……」
「おや、消える気があるようにも思えませんが?」
「ええ。……そうですね。消えるつもりはありません」

そう何度もアニスに悲しい思いをさせるわけにはいきませんから。フローリアンが言葉にせずに微笑んだその意図は、たぶんジェイドに伝わったのだろう。

ひとつ間を置いたあと、「それがいいでしょう」と彼は小さく呟いた。


「フローリアン。落ち着かれたようですので、あなたに少々お願いがあります」
「……願い?」
「このことは、折を見てあなたの口からアニスに告げてください。……いずれ音素乖離に関する情報は、ダアトを中心に広がっていくでしょうから」

ジェイドの言葉に最初は理解の及ばぬ様子を浮かべていたフローリアンも、最後の一文を耳にして途端に表情が険しくなる。何故そうする必要があるか、察しが良いフローリアンにはその理由もいやと言うほど理解は出来た。

生き残ることの出来るレプリカにとってこの理論は安心を得る情報でしかないけれど、アニスにとっては必ずしもそうではない。この研究結果を突き付けてしまったら、たとえあの旅で失わなかったとしても、彼女の守ったイオンとの別れも、敵として戦ったシンクとの別れさえも、予め定められていたのだと知らしめることになるのだから。

「先ほどあなたにお話した事例はオリジナルイオンの同列レプリカのものですが、他のレプリカすべてに対してもこの理論は応用が可能です。この話が広がれば混乱に陥ることは必至でしょうが、回避の術は今のところありません」

残酷かもしれませんが、上の人間は真実は伝えるべきであると判断している現状をご理解下さい。そう呟いたジェイドは冷酷なふりをしながらひどく惑って、フローリアンの出方を平静を装い窺っている。

生まれた間をすぐには埋めず、フローリアンは束の間の思考に飲まれていた。このまま何も言わずにいれば、情報が伝播したそのとき、アニスは嫌でもこのことを知ってしまうだろう。

そうして人づてに聞くことほど残酷なことはない。アニスはこのデータがジェイドに渡るためにあったことも知っているし、船でフローリアンが読んでいたことも知っているのだ。真実を知ったそのとき、裏切られたような気持ちにだってなるだろう。

何よりどんなに守り続けてもイオンとの別れが避けられなかったと知ることは、少なからずショックを与える真実だ。彼女が両方を受け止めきれるほど強くはないことなど分かりきっている。今までそうして何度もひとりで傷付いてきたことだって、フローリアンはよく知っていた。

「……伝えます、必ず」
「頼みましたよ。親心ではないですが、そうですね……せめてもの私の償いとして」

私が直接伝えても、きっとアニスは取り合わないでしょう。こうしてあなたに荷を押し付けるのは卑怯かもしれません。それでもこれ以上、彼女が無知に傷付く必要は無いと思ってしまうのです。

そうジェイドの落とした言葉は響きこそ冷静であったけれど、彼に似合わずの言い知れぬ切迫感をありありと湛えていた。退室間際、二人寂しげに微笑を交わす。「ありがとうございました」と一言だけが残されて、フローリアンはグランコクマの広い青へ歩みを進めた。

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