そしてやさしく雨は降る

あのままそこに留まってしばらく。

雨脚がゆるみ、アニスがすっかり落ち着きを取り戻した頃、慣れた音が駆けて来るのが耳に入った。

「アニス?お待たせ。ちょっと買おうと思ったらおばさん、いろいろくれちゃって……」
「ちょっと、それで全部受け取ってきちゃったわけ?荷物になるよ?」
「う……分かってはいたんだけど、断れなくて」
「ほーんと、フローリアンってお人よしだよね。アニス感心しちゃう」
「茶化さないでよ……」

がっくりとうなだれるフローリアンに、アニスはくるくると表情を動かしながら、努めて楽しそうに笑ってみせる。空元気であることは承知していても、やっぱり本来笑顔であるべき人が笑顔であると安心する。

傷つけているのが自分だと分かっていてなお、フローリアンはアニスから離れることが出来ないでいた。目の前に居れば彼女は思い出に傷つくけれど、かと言って姿を消せば、きっと彼女は壊れてしまうから。

正直にそれを告げることは、この後もきっとないのだろう。心の中でフローリアンはひとりごちた。どのみち自分の存在が枷にしかならないのなら、苦しみを与えようとも僕は支えていく道を選ぼう。目の前で笑ってくれる人の張り裂けるような嗚咽を、叶うなら二度と無くしてしまえるように。

「……あ、アニス。イチゴが入ってた」
「きゃわーん!フローリアンやるぅ!」
「明日の船でゆっくり食べよう。さ、今日は宿に戻ろう?」
「はいはーい!」

いつもより赤い瞳と上ずった声には気付かなかったふりをして、フローリアンは商店街で仕入れた食材の袋から上質のイチゴの包みをアニスに差し出す。彼女の好物は多少なりと心を浮かれさせるのに貢献したようで、先ほどよりよっぽどアニスらしい笑顔が見て取れた。

つられて少し笑ったフローリアンはもう一度それを仕舞い込んで、二人は歩いて宿へと帰る。先ほどは走って来たせいもあって気付けなかったけれど、どうやらダアトにも本格的に春が訪れようとしているようだ。とはいえ時期としてはまだ初春といったところで、あたたかな陽気が訪れるにはもう少し時間が掛かりそうではある。

「桜、咲くのかな。……今年も」

ぽつり、と呟いたアニスに「うん、きっとね」とフローリアンは呟き返す。吸い込まれそうなほどに美しいあの花は、いつ見ても胸を締め付けるような切なさと心地よい安らぎを与えてくれる。そう思ったフローリアンの隣でもう一言彼女は何事かを呟いたけれど、それが彼の耳に届くことはなかったようだ。



翌朝、予定より少々遅くダアトを出発した二人は、案外とのんびりした歩みを進めていた。正確には二人とも危機を自覚しているのだけれど、最終手段が無いことはないと半ば諦めた風で肩を並べて歩いている。

「フローリアン、おばさんから貰ったイチゴは?」
「心配しなくてもちゃんと持ってるから大丈夫だよ。お砂糖とミルクも」
「さっすがフローリアン!頼りになるよねー」

17、8そこそこになってもなお食料ごときで簡単にご機嫌を取られてしまうあたり、彼女は本当に昔と変わりが無い。もちろんこれはアニスが心を許した人間の前でだけ見せる弱さでもあるからして、トリトハイムを含む古株を除く教団内部の人間は、例の無い出世の速さとそれに対して妬みのひとつも聞こえて来ないアニスを一種のカリスマに見立て、多くが憧れの眼差しを送っているのだという。

確かに彼女が他人の数倍も仕事が出来ることに違いはない。実力が伴っているからこそ前例の無い若さでの出世に至ったのは事実だ。ただ、それにしたって。冷静に分析するフローリアンは、内心で静かに溜め息を落とす。

「本当はそんな、強い子じゃないのに……」
「え、何か言った?」
「ううん、なんでもない。急ごうか。定期船がそろそろだし」

上手く理由をつけて誤魔化せば、アニスは「うそ?」と驚いたように時計を見やり、再び真っ直ぐ港へ急ぐ。正規の任務であるバチカルへは教団のチャーター便が出るのだが、今回のこのグランコクマへの船はトリトハイムによって急遽命じられた旅であることも手伝って、教団の所有する便がどうしても手配が間に合わないというのだ。

ダアト港の定期船第一便は、たしか午前9時の出港だ。これを逃せば優に1時間は待ちぼうけを喰らうことになるだろう。

「この間のグランコクマもこんなだったよぉー。トリトハイム様のひとでなしー」
「トリトハイム様はいつも突然だからね。って、アニス……」
「だって、急がなきゃヤバヤバな感じなんでしょ?フローリアンも乗りなよ、トクナガに急がせるから」

やっぱり出たか、とでも言いたげに苦笑するフローリアンに、トクナガの上から「港で待つなんてもう絶対やだかんね!と」声が降る。彼女の口調がいやに切迫しているのはたぶん、前回のグランコクマ行きの任務で船を逃して散々な目に遭っているからだろう。あの時のどこまでも退屈そうなアニスを思い返して、フローリアンは苦笑を重ねて頷いた。

「……うん、わかったよ」

勢いを付けて、フローリアンはトクナガによじ登る。一見してひ弱そうな彼の運動神経は案外と良く、その上なかなかに頭が切れるので呑み込みも早い。

正直なところアニスの操縦では安全性は高いとは言えないが、それでも出港まではあと5分を切った。絶対に間に合わせるという前提のもとに行動するのであれば、「危ないから徒歩で行こう」などと悠長なことを訴えている場合ではない。

「いっくよー!」

誰に聞かせるでもなく気合いを入れたアニスは、音素を爆発させるかのごとく勢いよくトクナガを走らせる。元は一人用のトクナガに二人。明らかに積載量を超えた人形に振り落とされそうになりながら懸命にしがみつくフローリアンは、それでもいつもの勢いを取り戻したアニスに人知れず安堵した。



「ふー、間に合ったぁー……」

力を使い果たして息も絶え絶えなアニスはひとつ大きな息をついて、船室中央の机に突っ伏している。さらに重大な症状を呈している様子のフローリアンは言葉を発することすらなく、椅子に掛けたまま凍ってしまったかのように固まっていた。

「……フローリアン、大丈夫?」
「アニス、も、ちょっと……安全、運転……で」
「うー、ごめん。つい一人で乗ってるような感覚で……」

しばらく白旗を上げたまま音沙汰の無かったフローリアンも、落ち着いたのか少ししてから徐々に身動きを取り戻し、こちらも大きく息づいた。ふらついた視界はようやく元の船室をとらえ、アニスの言葉どおり、9時の出港に無事に間に合ったらしいことを確認する。

瞬く間に息を整え元の状態に戻った彼女は、「そういえば」と前置きしてトリトハイムから預かった書類を取り出した。外見はノートがもう少し形式ばって豪華になったようなもので、表面にはフォニック文字で「データ」とだけ記されている。

「それを、ジェイドに届けるんだよね?」
「うん。中身なんだろ。大佐へのお届け物で私たちに預けるってことは、けっこー重要なものってこと?」
「うん、そうだよね……」

トリトハイムに渡されるとき、「中身は見ても構いません」と言われていたことを思い出して、アニスは「ちょっと見てみよっか」と好奇心混じりに提案する。条件はたしか他の誰にも内容を知られないこと、それ1点だけだったはずだから、船室ならば問題はないのだろう。

「えーっと……んー、ダアトのレプリカデータ……?」
「レプリカデータ?……それじゃあジェイドの研究に関係あるのかもしれないね」

いざ、と勢いづけて開いたすぐそこに記されていたのは、門外不出の個人情報であるダアト住まいのレプリカデータ。便宜上はフローリアンも登録しているけれど、彼は自分がレプリカであることに対してそれほど劣等感があるわけではないから、特に顔色を変えることもなくそれをしげしげと眺めていた。

彼が劣等感や罪悪感を抱く理由は、自分がレプリカだからではない。そうではなくて、ただ。



「なになに?ダアトに……自主的に集まるレプリカ、は……同位数値が同桁に偏り、易く……」
「アニス……大丈夫?」
「あーもう、何これ!訳わかんない!大佐ってばいつもこーんな小難しい研究してるの?」

しどろもどろに文字を追っていくアニスをフローリアンが窘めようとする間もなく、アニスは一文読んだきり、さっぱり意味が分からないとさじを投げてしまう。そのまま近くのベッドに勢いよく飛び込んだ彼女は、ごろりと一回転して二段ベッドの二階を見上げた。

「同位、数値……」

そう小さく口にしたのは、アニスの中でこの言葉に覚えがあったからだった。

万物においてこの世界には同位数値がまったく同じものは存在せず、するとしたら、それは人工的に作り出すことでしか存在し得ない。フォミクリー技術を駆使しても完全同位体を作るのは困難で、大抵は姿かたちが限りなくよく似た、科学的にも別人が生まれる、と。

たしか、これはこの技術を生み出した本人がバチカル行きの船の中で言っていたことだ。後から聞いた話では、世界で初めて生まれた人間の完全同位体がルーク・フォン・ファブレのレプリカ――つまり現在ルークと名乗っている、彼女らと旅を共にしたオリジナルルークのレプリカなのだという。

そのあとで生み出されたレプリカも、完全同位体の発生率は現在に至るまでそれほど高まってはいないらしい。良くて十体に一体程度。彼女が守った導師イオンや今同室にいるフローリアン、それからエルドラントに散ったシンクもすべて、オリジナルイオンとは同位数値が微妙に異なるらしいといつだったか聞かされていた。

「そんなこと、言われても……」

フローリアンが真剣にデータ内容に向き合っているさなか、アニスはなおも思考を続ける。オリジナルイオンの特性なのか、彼のレプリカたちはみな、一度自分の世界に入るとなかなか周囲の声が耳に入らない。

通常、オリジナルとレプリカたちの性格が似通うことはあまり無いらしい。と言うのもこれは育つ環境に大きく依存するためで、現にオリジナルイオンとレプリカイオンは性格があまりにも違ったし、レプリカイオンとシンクも、それはそれで激しい性格の相違があった。

フローリアンはフローリアンで、二人とはまた違った性格に育っていった。レプリカの精神的な成長というのは恐ろしいほど速く、子ども時代がほとんど無いのも特徴だそうだ。

それでも、いくら違う人間だといわれても、顔も声も見た目に違いなんて分からない。何より彼らには導師の跡を継ぐという目的があったから、多少の刷り込みが為されていたのも確かだろう。似ているところがあるのはそのせいだろうと説明されても、似ているでは済まされないほどその面影は今も色濃く残っている。

「……私、ちょっと外歩いてくるね」

返事はないと知りながら、一応とばかりに断りの言葉を掛ける。音も立てずに閉まる扉は、物悲しさばかりを殊更に際立てていた。



少しして、アニスが部屋を出ていたことに気が付いたフローリアンは目の前のノートを静かに閉じる。探しに行こうかとも思ったけれど、一人になりたいのだろうとあえて追いかけることはしなかった。

それに今彼女と顔を付き合わせれば、自分がどういう笑い方をすれば良いのか分からなかったのだ。

『同位体数値の差異によるレプリカへの先天的な身体的負担が軽微であっても、二次的に起こる事象の観察を常に怠ってはならない』

ここまでは、フローリアンもダアトでずっと言い聞かされてきたことだった。実際、いつ何が起こるか分からないからと、レプリカへの身体検査は定期的に勧告される。問題はそのあとだった。

『音素乖離を抑制する遺伝子がレプリカには総じて少なく、特に複数が同時に生成された場合に限り、通常五年以内に約90パーセントの固体に対して音素乖離が発生する』

これまで近年レプリカに頻発している音素乖離現象は、正式な理由や発症の共通点が分からないとされていた。それがようやく正確になったからと、今回のジェイドへの報告に至ったのだろう。複数固体の同時生成。それが鍵になるのだとしたら、僕は。

泣きたいような、心にぽっかり穴が開いてしまったような、複雑な気持ちに襲われる。ああ、少ししたら、だけどこの気持ちも仕舞い込まなければ。アニスが、彼女がここに戻って来る前に。

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