そしてやさしく雨は降る

「バチカルでの任務の前にグランコクマに行ってくださいませんか。カーティス大佐に渡していただきたい物があるのです」
「ええーっ……私がですかぁ?」

トリトハイムの要請に気が抜けたような返事を返すアニス・タトリンは、どこか魂の抜けたような様相でがっくりと肩を落としている。そのすぐ後ろに付いている彼女つきの護衛は苦笑しながら「仕方ないんじゃない?」と言葉を投げた。

「でもフローリアン、バチカルとグランコクマって遠いよ?船だよ?何日もかかっちゃうよ?」
「私としても申し訳ないとは思っているのですが、カーティス大佐と面識のあるあなたにお任せしたいのです。幸いバチカルへは急がずともいい旅でしょうし」
「うー……分かりましたよぅ。大佐に渡せばいいんですね?」
「はい。では、頼みましたよ。アニス・タトリン詠師」
「はーい……」



エルドラントでの戦いから数年。教団としては異例のスピードで神託の騎士の詠師となったアニスは、任務任務にてんてこ舞いの毎日を送っていた。ただでさえ詠師の仕事が忙しいというのに、良いか悪いか彼女は各国要人を友人に持つ、ここダアトの重要人物としてすっかり重宝されているというわけだ。

前々回はグランコクマ、前回はユリアシティ、今回はバチカルのはずがまたグランコクマ。いずれ手にせんとする地位のためには悪くないかもしれないが、その前に身体を壊しては元も子もない。フローリアンにしてみればアニスの日々の過密スケジュールっぷりは気が気ではなかったが、外交問題となればそう易々と休むことも憚られるのだ。

それに、本人が文句を言っても結局彼女は仲間に会うのが楽しみなのだろう。「仕方がないな」という言葉とは裏腹に口元が綻んでいるところを、フローリアンは幾度だって目撃していた。

一番最近グランコクマへ行った時は、たしか珍しく誰にも会えずに帰国していたはずだ。ユリアシティへ行った時もティアがちょうど市内におらず、アニスが至極残念そうにしていたのを彼はよく覚えていた。

「ガイのやつ、ついでだから会ったらからかってやろーっと」
「そんなことしたらまた驚いちゃうんじゃ……」
「いいの!ガイにはちゃんと挨拶してやんなくちゃ。それに、女嫌いもだーいぶ良くなったって言ってたじゃん」

元気よく言い放つアニスに「まあ、そうだけどね」とフローリアンは一言、微笑ましくもあり、ガイを哀れに思う気持ちもあり、曖昧な笑みを浮かべてみせる。彼女のスキンシップは少々過剰なのだ。男性のみならず女性に対しても、どこまでも控えめと言う言葉を知らない。ただ、今更彼女が行動を正したりすれば、旧知の彼らが心配するだろうこともまた確かだけれど。

「あーあ、大佐に会うのやーだなー。『おや、アニス。聞きましたよ。まさかあなたが詠師になるとは……とうとう私の耳にも限界が来たかと思いました』とか何とか言っちゃって、絶対イヤミ言われるよー」
「あはは、まあまあ。大佐は今もピオニー陛下のところで働いてるの?」
「うん。でもフォミクリーの研究も再開したんだって」

あの日、ケセドニアの酒場でジェイドが呟いた言葉を彼女は静かに思い出す。あれほど頑なに封印を願っていたフォミクリー研究を、この戦いが終わった暁には再開したいと彼はアニスに告げたのだ。

もちろん、それがあの頃のように帰らぬ命を呼び戻すためのものでないことはアニスも十分承知していた。レプリカが――自分が元で生み出された命が、もっと生きやすい世界を作りたいのだと、珍しいほど優しい眼差しで、ジェイドは確かにそう言った。

「……約束、守ったんだ」
「え?」
「ううん。何でもない。それより行こ?」

独り言を完結させて強引にフローリアンの手を引いたアニスは、ダアトの教団本部を出てふとその足を止める。惹かれるように見上げた空は、一面の青がすべて奪われる曇天だった。途端にどうしようもなく不安が過ぎって、気のせいだと曖昧にその不安を振り払う。

雨の日はいつもこうだ。いけない、いけないと笑顔を作って、フローリアンをアニスは振り向く。

「雨、降りそうだねー」

まあ預言が無いから分かんないんだけどさ。そのまま至って何でもない風に言い放ったアニスは、努めて元気いっぱいに教団前の階段を駆け下りた。

「……あんまり急ぐと転んじゃうよ、アニス」

呆れに少しの痛みを滲ませながら、フローリアンは複雑に笑う。気付かないふりをしたって、気付かないわけがないのだ。毎日毎日行動を共にしている彼女の空元気など筒抜けもいいところ。

たぶん、今日は雨が降る。彼女にとって何より痛みをもたらす、それも一際冷たい雨が。



「……出発は明日にしようか、アニス」
「フローリアン?」
「グランコクマもバチカルも、急ぎの用事じゃないんでしょ。買い物もあるし……アニス、全然休んでないし」
「でも……」

下町に出てしばらく。突然のフローリアンの提案に戸惑いを見せるアニスは、どうすべきかを思案しているように言葉を濁す。確かに急ぎの旅ではないし、ここのところ休暇が無かったのは本当だから、素直に休むのも選択肢としては有りかもしれないけれど。

「出発、今日じゃないと困る?」

迷うアニスに、フローリアンはとどめの一言を突きつける。我ながら珍しく意地悪だ、とフローリアンは自分を嘲るように内心笑った。彼は周囲からよく善良だ、無害だと言われるけれど、彼自身は自分をそうと当てはめてはいなかった。だって、大切な人を苦しめているのが自分だと分かっていながら、それに心を痛めもするけれど、離れようとすることがどうしても出来ない。

けれど離れようとすれば、それはそれでアニスを苦しめることも知っている。最初から八方ふさがりでしかない自分の存在を善良だと呼ぶ周りの声を、底抜けに優しい彼は素直に受け入れることが出来ないでいるのだ。

「……そだね。わかった、明日にする」

押し負けて諦めたようにゆるりと笑ったアニスは、やっぱり不安そうに一瞬だけダアトの広い空を見上げた。開けるどころか黒く染まるばかりの雲たちは、そう遠くない雨の訪れを容易に予感させている。

見て見ないふりをするばかり。なんて無力なんだろうと、フローリアンはひどく静かに瞳を逸らした。



下町の宿屋で、アニスは窓から外を眺めている。教団の部屋に帰るよりは朝になって身動きが取りやすいからと、明日のことを考えて、今日はこのままここへ留まることになったのだ。

身じろぎひとつせずに、アニスはただ窓の向こうを見つめ続けている。しばらく時が経って、明日の準備に気を取られていたフローリアンがふと顔を上げた。あの頃彼女が誰より扱いに戸惑い、誰より気を割いた彼が「アニス?」と心配そうに声を掛けても、アニスが窓から視線を逸らすことは、そこからひとときとして無かった。

「……雨だ」

誰へとも問わずこぼされた言葉にフローリアンが外を見やれば、空からは、雨がしたたかに流れ落ちていた。屋内へと徐々に人がはけていく様子が見えて、その光景が無性に寂しさを感じさせる。一旦動き出せば速いもので、どんなに悪天候であろうとも店を畳まない商店街の商売人以外、瞬く間にあたりに人影は無くなってしまった。

「……アニス」

フローリアンの呼びかけにも気付かぬままで、アニスはひとり考えていた。

あの日。そう、あの日も、確か景色は雨だった。熱くて身動きも取れなくなってしまいそうな身体は一瞬で温度以外のものにまで冷やされて、言葉を忘れてしまったような気さえしたことを、彼女は今でも鮮明に覚えている。

終わりのときにさえ優しく笑ったその人は、今も彼女の心の中に居た。いや、苛んでいる、と言った方が正しいのだろうか。自分の罪をまざまざと見せつけられるこの景色に、いつも浮かぶのは幸せそうに微笑む、記憶の中のひどく無垢なあの瞳なのだ。

「イオン、さま……」

小さく零されたその声に事を察したフローリアンは、ひどく悲しそうな顔をして彼女の後ろのベッドへ言葉無く留まる。いつも彼女が親しい人間の前でだけ見せる、弱くて苦しげなこの表情。一度こうなってしまったら、口を出すことが出来るのは限られた一握りの人間でしかない。

アニスの中には昔の旅の仲間と自分とに対するぼんやりとした境界線があることに、フローリアンは薄々ながらも気が付いていた。別段拒絶されているわけではない。とても大事に思ってくれていることも分かるし、彼自身もそう思ってはいる。けれどそれでも、どうしてたって狭間には取り払えない壁があるのだ。

理由など求めるまでもなく至極単純。彼自身の存在が、アニスに咎を背負い続けろと強いているのと同じことだからだろう。

「……ん、なさい」

俯いたままごめんなさい、と小さく、それでも確かに呟いたアニスの声はかなしく震えて、側にいるばかりのフローリアンにもひどく痛みを感じさせる。何年か前、彼がまだ言葉もろくに扱えなかった頃から彼女は何も変わらない。見た目は随分と大人びて、今では軽々と幾人もの部下を従えるまでにはなったけれど、それでも雨が降るとしゃがみこんで罪悪感に涙する、根本的なところは何も変わってはいないのだ。

人目があるうちは彼女は泣かない。彼女の本質を知らない誰一人の前で、彼女は泣かない。弱さを見せたくないからと以前、苦しそうに笑って言ったのを今もまだ、自分への誓いのように頑なに守ってい続けている。

あの火山であった話を、フローリアンが彼女の口から直接聞いたことはなかった。知っていることと言えば、せいぜい彼が言葉を覚え、自分を覚えた頃、彼女の旅の仲間に自分と同じ存在の話を聞かせてもらったくらいのものだ。

自分もレプリカでありながら、悩むルークに優しく答えを促したこと。消えたくないと気が付きながら、それでも命をかけてティアを瘴気から救ったこと。そして何より、裏切られたと知ってさえ、アニスを大切に想っていたことを。

「……ねぇアニス、ちょっと外へ出よう?」

悲しみに打ち震えて、ただ泣くことすら出来ないアニスの腕をやさしく、出来るだけやさしくフローリアンは引いて走り出す。ぼんやりと不思議そうにそれを見やったアニスは「どうしたの、フローリアン」と弱々しく投げかけて、黙ってその後をなぞるように歩みを進めた。

雨脚はまだ緩まない。ところどころ舗装が行き届かずにぬかるんだ地面が顔を出して、路傍には白い花が強く強く咲き誇っている。孤独に戦う姿はたしかに美しいけれど、その実ひどく脆弱だ。弱さを隠すために強くあることが、本当は自分を傷つけることになるのだと気付いていない。きっとあの花も、アニスも。

ただ虚勢を張って耐えているばかりの心など、いつか簡単に崩れてしまう。フローリアンにそれを教えてくれたのは他の誰でもないアニスだというのに。一瞬弾けるように強い音がして、白の花びらがひとひら散った。ああ、あの場所に行ったところで僕にはどうしてあげることも出来ないけれど。漠然とした思いで、フローリアンは商店街の裏通りを静かに行った。

未だ雨が止むことは無い。「どうしたの、いきなり」と、涙声で放ったアニスに、フローリアンは「ごめん、買い物に行っておいたほうがいいと思って」とやさしく微笑む。たとえ分かりきった嘘でも、今の彼女を連れ出すには十分だ。

どれほど震えて無理に笑えど、彼女の瞳に涙だけは浮かばない。かつて彼女が仕えた人と同じ瞳に目の前で無垢に笑まれては、意地にかけても涙を流すことなど出来ないのだろう。フローリアンはいやと言うほどそれを知っていた。だって、雨の降るその日、彼女が泣いているところを彼は知らない。

「……雨、すごいね。出発する前に食材を分けてもらわなくちゃと思ったんだけど……ここから出たら濡れちゃうし、アニスはここで待ってて。僕が行ってくる」
「あ、フローリアンっ、ちょっと……」

どうせ後から行かなくちゃいけないから大丈夫。すごい量じゃないしさ。気遣いが見え隠れする一文とともに、フローリアンはなんでもない風を繕って「じゃ、あとでね!」ともう一度だけ笑う。彼女にとってこの笑みが痛みそのものであると知りながら、ただ、それでも懸命に。



「行っちゃったし……」

強引に振り切られて正真正銘ひとりきりになったアニスは、彼と離れることで途端に心が軽くなっていく心地に痛烈なほどの罪悪感を覚える。フローリアンはイオンではない。そんなことはアニスにだって分かっていたし、元よりフローリアンとイオンのことは、常に別人として接してきたつもりでもあった。

それなのに、同じ顔と同じ声は否が応でもあの日の記憶を呼び起こさせる。イオンに比べて随分幼い精神を持ったフローリアンはそれでも根底にイオンを宿し、あの日彼を見殺しにした自身の罪や、言えなかった言葉が風化する恐怖を無意識に、けれど確実に彼女の目の前へと突き付ける。

「んなの、私の、わがまま、だよ……」

忘れられないのはフローリアンのせいではない。思い出すのがイオンのせいでもない。ただただあのとき、今まで自分のしてきた報いが跳ね返って来ただけに過ぎないのだ。それを分かっているから、分かってしまうからこそ、こうしてひとり、もどかしく抱えて生きていくしかないのだろうか。

たぶん、ここに連れて来てくれたのはフローリアンなりの気遣いなのだろうとアニスは思う。いつだったか、この場所のことをアニスは彼に話したことがあったから。

『イオン様、この木になる実を取ろうとしてひっくり返りそうになってね、ほんと大変だったんだから』

何にでも興味を持つ、好奇心旺盛な主人の話。まだアニスが導師となったイオンに出逢ったばかりの頃――今思えばレプリカとして生まれてそう経たない頃の彼は、暇さえあればアニスに目に見えるものの数々について尋ねていた。

そのときは木の名前、実の名前、鳥の名前、季節は春で――。

ふいに、思う。たしか、その日も雨だった。どうしていつもいつも、記憶に残る出来事には雨が付いて回るのだろう。

『僕は……雨が好きですよ。心が洗われるような気がします』

何の屈託も無い優しげな笑みを浮かべて、導師イオンはそう言った。穏やかに降る春の雨の中で、雲に陰る空をものともせずに、それこそが絶対の真実であるかのように。

「イオンさ、ま……っ……わたし……」

ごめんなさい、イオン様。ごめんなさい。私は。

かつて笑いあったなつかしい木の下で、雨に隠れて泣き叫ぶ。もう誰も笑いかけてはくれないことを知りながら。「大丈夫ですよ、アニス」と。あのときのような、すべてを許してくれる笑顔が、ただここに無いことを知りながら。

→Next