Cryolite-9-

「……あのね。ゼロスに、聞きたいことがあったの」
 意を決したようにコレットは言って、寂しげな視線をゼロスに向ける。以前から、ずっと気になっていることがあった。たった二人だけに示される、ありきたりなようで特別な行動の意図。――あの時あんなことをしたその理由を。今まで聞けずに過ごして来てしまったけれど、知りたかった。
「……どうした?」
「うん。……ゼロスは、どうしてあの時私を守ってくれたの?」
 暗殺者に狙われそうになったあの瞬間、ゼロスは躊躇いも無くコレットのことを庇おうとした。あの時はそのことにひどく驚いてしまって、何が起きたのか一瞬判断が追いつかなかった。結果、ゼロスが自分の身代わりに毒に侵された事実と相まって、罪悪感と疑問とがせめぎ合った挙句、コレットに途方も無い激情をもたらしたのだ。
「何だってそんなこと……そんなの当たり前だろ?」
 言って、ゼロスは不可解そうにコレットを見やる。仮に口にしていない事情を差し引いてしまったとしても、コレットは仲間だ。彼女にとって、仲間が自分を庇うことがそれほどに疑問の対象になるとは思えない。多少の罪悪感を抱きはすれど、いかにも疑問げにこんな質問をしたりはしないだろう。
 思って、ゼロスはコレットの返答を待つ。少し迷ったふうを見せてから、コレットは切なげに笑ってこう言った。
「当たり前じゃ、ないよ」
「ん……?」
「そうじゃない。……だって、ゼロスは誰かを庇ったりなんて、いつもは絶対にしないから……」
 あ、あのね。それを責めたいわけじゃないの。そうじゃなくて――。少し焦ったようにそう言ってから、コレットは思う。――ゼロスが誰かを庇うのは、記憶によればあの時が二度目だ。一度目の時と合わせて、たった二人。その枠に自分が入っていたことが、コレットとしては嬉しくもあり、ただ、ひどく複雑でもあった。だって、その理由はたぶん、「仲間だから」だなんて単純なものではない。もう一方が純粋な衝動から来るものなのだとすれば、おそらくこちらは強制的な反動にも似ているのだろう。
 コレット自身もことゼロスにだけは、差し迫った危機が訪れたとき、見て見ぬふりが出来ないだろうことを感じていた。それと同じだ。他の誰かを大切に思っていないわけでもなくて、ただ、大切に思い過ぎているものがあるだけ。お互い、そう思わされているだけ。――それでも自分の意思で守りたいと願っているのだ、と。そう思いたい、だけ。
「……ゼロスが、困ってる人を放っとけないのは知ってるよ。……だけど、ゼロスがそうまでしたことってね?今までにもほとんど、ないから……」
 包み隠さず皆まで言えば、ゼロスはばつが悪そうに押し黙って、それから僅かに戸惑ったような表情を浮かべてみせた。
 ――今この瞬間それを指摘されるまで、まるで意識したことが無かった。危機に瀕している人間を見殺しにして来たつもりはさらさら無いし、体裁を保つ為とはいえ、おそらく人並みに人助けもしているだろう。裏側でそれ以上の人間を傷つけていることを差し置いても、ゼロスにとって、コレットの言葉は唐突に過ぎるものだった。
 傍らのコレットは答えを急かすでもなく、どこか上の空なふうで次の言葉を待っている。――ゼロスのそれは、いつだって本当に些細なところで示される。見た目には、別に何てことない風景なのだ。もしも仲間の誰かが襲われたことに気付けば必死になって助けに行くし、誰かが囚われようとしていれば、間違いなく救い出そうとするだろう。そんなゼロスのことを、取り立てて薄情だと言いたいわけでもない。
 ――けれど、とコレットは思う。ゼロスは、他人に対して咄嗟の行動は本当に取らない。誰かを庇ったり、自分以外に向けられる敵意を反射的に振り払ったり、そういうことが一切無いのだ。もちろん、それは意図して誰かを見捨ててしまうような、道徳的に重大なものではない。すぐさま助けに行けなかったからといって、「間に合わなかった」の一言で済まされてしまうほど、それは一瞬の違和感だった。
「……それ、答えた方がいいか?」
「え……?」
「理由。答えまで知っていながら首突っ込んで、……わざわざ言葉にされたら、余計傷つくだけだろ」
 神妙な様子でゼロスはそうとだけ言って、コレットの出方を窺う。――他の誰一人を庇おうとはしないのに、コレットを庇ってしまう理由。それはあらゆる意味を言い含めれば、たったひとつしか存在し得なかった。たとえその意味が機械的なものからは少々逸脱しているとしても、きっかけが変わらない以上、きっとコレットはこの答えを受け入れようとするだろう。
「……ゼロスは、優しいね。……うん。そうなのかもしれない。でも、それでも、聞きたいって思うの」
 だいじょぶだよ、悲しんだりはしないから。言って、コレットはなおも問いを止めない。これ以上の制止は無駄なのだろう。そう判断して、ゼロスは言葉を選んでこう告げた。
「……神子だから、だろうな。……たぶん」
 互いの世界のために蹴落とし合う宿命を背負う二人は、それなのに一方を救わんとしてしまう。あくまでも個々がクルシスにとって有益であるように、最善の選択をするよう仕向けられているのだろう。意識する、しないの問題ではない。おそらく神子に生まれた時点でそう遺伝子に強く刻み付けられているこれは、決して抗えるようなものではないのだ。
「……どうして、だろうね。シルヴァラントが滅びれば、テセアラは栄える。……テセアラが滅びれば、シルヴァラントは栄える。そうやって、決められてるはずなのに……」
 それなのに、どうして私たちは助け合おうとするんだろう。それを決めた神様は、何を考えてそんなことをするんだろう。言って、コレットは言い難い表情で視線を落とした。
 コレットが抱いていた「神様」が「クルシス」という名前であることを知ってしまった今でも、コレットは彼らなりの道理を探していたかった。だって、彼らを拒絶してしまったら、これまで自分が信じてきた神様はいよいよ偽りのものになってしまう。諦めなければならないことを分かっていても、捨て去ることは怖かった。――それだけのために全てを捧げて生きてきた。自分の拠り所とも言える「神様」が、「神様」でなくなることは恐ろしかった。
「ねえ、ゼロス?」
 視線は落としたまま、決意したようにコレットは言って、震えそうな手のひらをそっと握った。神子だから、そう創られているから、手を差し伸べあうのだとゼロスは言った。だとすれば、そうでなかったならどうなるのだろう。それを尋ねてしまうことは、コレットにひどく勇気を必要とさせた。
「……もし私が神子じゃなかったら、ゼロスは私を助けなかった?」
 言えば、ゼロスは苦々しげに押し黙って、居住まいが悪そうに視線を逸らす。
「……たぶんな。絶対に助ける、とは言えないだろ」
「うん。そうだね……」
 ゼロスの予想通りの返答に、それきり少しの静寂。座り込んだ二人は顔を上げることも無く、各々の思考に身を委ねる。
 ――確かに根本的な理由はそれだ。ゼロスは思いつつ、煮え切らない内心にもどかしさを覚える。おそらくこの身が無意識にコレットを庇い立てしようとしてしまうのは、コレットが神子であるからに他ならない。他者の誰にすら反応しないと証言までされてしまえば、それは理由として限りなく正しいのだろう。
 けれど、ただコレットが神子だからというだけで、仮にもまた神子である自分の身を危険に晒したりはしない。元より一方が一方を助けるのは、そのどちらもが生きるためだ。庇った挙句、片方が命を落とすのでは本末転倒。――そこに答えがあるのだろうということにも、ゼロスは気付いていた。いい加減、見ぬふりをするにも限界だ。今となってはどうしようもなく、コレットの存在を特別視してしまっている。別に、縺れてしまいそうな浮ついた恋愛感情の類ではない。どうしようもなくコレットに惹かれてしまうのは、彼女がただ、自分と同じ感覚を共有する唯一の存在だからなのだろう。コレットにとっての自分もまたおそらく同じ立ち位置に在るのだろうことにも、ゼロスは本質的に気付いていた。
「……でも、私にとって、ゼロスは特別だよ。……他の誰とも違って……」
「それはそれは……光栄の至りで」
「だけどね、それはきっと……、……ううん。やっぱり、なんでもない」
 言いかけて、コレットは小さく首を振る。利害を超えてお互いのことが大切なのは、それでもやっぱりお互いが神子だからでしかない、と。そんなこと、わざわざ口にしなくたって、ゼロスはきっと気付いているんだろう。思って、コレットは盗み見るようにちらりとゼロスへ視線をやった。憂いを帯びたその瞳は、いつだって、たくさんのものを受け入れようとせずに放り出してしまう。きっと、たったひとつだけ追い求めてみたいものを持っているのに、それさえも不器用に振り払ってしまいそうな危うい感覚。「助けて」と上手く言えないところは、きっと同じなのだろうと。孤独な横顔を見るたびに、そう思えてならなかった。
「なんとなくね、わかるよ。ゼロスの考えてることとか、……苦しいことも、悲しいことも……」
 こうして隣に居るだけで、伝わってくるものがある。望むと望まざるとにかかわらず、お互いにとって、お互いは半身だった。世界で唯一立場を同じくする存在。全ての苦しみを理解し、全ての悲しみに頷くことを許される、ただひとりの人間。
 同じ痛みを共有する奇妙なこの関係は、双子のそれによく似ていた。違う形を保っていながら、誰よりもお互いの感情を気取り、触れ合うことを良しとする。――それが所詮傷の舐めあいに過ぎないことを分かっていても、否定することすら出来はしない。否定しなければいけないことを認識していてさえも、それをすればきっとお互いを壊してしまう。そこに何ひとつを生み出さない、まるで泡沫のような間柄。
 呟かれたコレットの言葉に返答せずに、ゼロスは口元だけで自嘲めいた笑みを浮かべた。ゼロスとてコレットの痛みを理解できないはずもない。――同じ神子だからといって、あらゆる点で同じであることは叶わない。コレットと居れば彼女の純粋さに己の卑怯さを痛感するばかりなのに、彼女を失うことは到底、考えられないことだった。傷つけながら救われる。ぎりぎりのところで均衡を保っているだけの、この脆く頼りない絆を、手離せないことをもう、どうしようもないほどに知っていた。
「つっても、分かるだけ、……だろ。損な性格してんのな、ホントに」
 どうせ何もしてやれないのなら、初めから気付けなければどんなに楽か。思って、ゼロスはコレットを見やる。
「でも、私は……ゼロスが苦しい思いをしてること、知れて良かったって、思うよ……」
「けど、それだって案外どうしようもない悩みかもしれないぜ?……他人の感情背負い込んだって、何も良いことないだろ」
「そうかもしれない。……そうかもしれない、けど……」
「……そう割り切れるもんでもない、ってか?……ほーんと、……どうしようもない貧乏くじだよな、俺さまたちって」
 ゼロスが呟けば、コレットが静かに瞳を閉じる。「やっぱり普通では、居られないのかな……?」そんなことをぽつりとこぼしたコレットに、ゼロスは返答せずにほんの小さく息を吐いた。
「……ずるい、よね」
 犠牲になることを諦めて、普通で居られる方法を探しながら、まだこんなことを言うなんて。思って、コレットは目を伏せる。神子の義務を棄てながら、神子であることから抜け出せない自分は、いったい何者なのだろう。それを思うと、ひどく心が歪む心地がした。



 コレットの体調を確認し、二人は立ち上がって奥へと進む。先ほどの蝶は何だったのだろうと思いはすれど、明確な答えは何ひとつとして浮かばなかった。ただ、心なしか空間の広がりが大きくなっているような気がしなくもない。これまでひたすらに一本道だった小部屋にもたびたび岐路が出現し、先ほどと比べても、明らかに迷宮らしさが増している。
「……あまり考えたくはないところだが、そもそも出口はあんのか?この空間」
「幻覚は維持も大変だし、意外と脆いものだって、前にリフィル先生に聞いたことがあるの。だから、きっとどこかに……」
 言いつつ、コレットは複雑そうな表情でゼロスの方をちらりと見やった。――さっき、伝えそびれたことがある。ゼロスが庇ったもう一人。自分以外の――おそらく何のしがらみもなく、より純粋に無事を願った人のこと。コレットにとっても、誰よりも――ともすれば世界を救いたいと願う理由の一端にすらなるほど大切な、真っ直ぐで、優しくて、迷いを振り切ってくれるその人のことを。
「あのね、ゼロス……」
「ん?どした、コレットちゃん」
「……ううん。やっぱり、なんでもない」
 言いかけて、コレットは言葉を留める。どうしてだか、それを上手く伝えることは出来そうになかった。たぶん、ゼロスはロイドに対して、自分と同じ類の感情を抱いているのだろう。それを分かっているからこそ、不用意にその名前を口にすることは憚られた。一度考え出せば、どうしようもない罪悪感と、それでも抑え切れない感情の板ばさみになって、まるで身動きが取れなくなってしまう。きっとそんなところすら、二人は同じなのだろうと思えたから。
「とにかく、このまま出られなきゃ、外の救援待ちなわけだが……」
 一瞬訝しげな表情をしたゼロスも追求することはせず、現在の状況について思案する。そもそも未だにこの空間が外と同じ時間軸を保っているのか、そんなことすら定かではなかった。仮に元居た場所と同じ時間が流れているというのなら、誰かしらが外から幻覚を打ち破ってくれることも期待出来る。しかしそうではなかった場合、どうにかして根本の原因を断ち切らねばならないのだ。それもこの広い世界の中を、たった二人で。
 気丈に振舞ってはいるけれど、コレットだって限界が近いのだろう。あれほど次々と負の感情に苛まれ続ければ、いつ潰れてしまってもおかしくはない。――そう思うゼロスの横で、コレットもまたゼロスのことを思いやる。たぶん、見せられた過去も、降り積もる痛みも、自分なんかよりずっとずっと重いのに。それなのに、いつもこうして何事も無かったかのように、すぐに冷静なふうを装ってしまうから。一度壁を作られてしまったら、それを乗り越えてまで突き詰めることはひどく難しい。
 ――そこまで考えて、コレットの思考はふいに中断される。ぐう、と、間の抜けたような音が辺りに響いた。
「……あ、あの……今のは、えっと……」
 咄嗟に言い訳を試みるけれど、ちょうど良い言い訳が見つかるはずもない。早々に諦めて、コレットは遠慮がちに小さく言った。
「その……ちょっと、おなかすいたね……?」
 恥ずかしさに照れながら、コレットは同意を求めるようにゼロスを見やる。あまりにも突然で、あまりにも場違いなその出来事に、真剣な表情をしていたゼロスもほんの少しだけ頬が緩む。
 そもそも振り返ってみれば、元々は森で野営の準備をしていたのだ。夕食はそれが済み次第ということだったから、昼から一切何も食べていないことになる。ましてや今日は一日歩き通しなのだ。慣れない森を進み、突然放り出された暗闇を彷徨い、やっと光を見つけたかと思えば突き落とされるかのような過去の連続。元より小食気味のコレットが空腹に陥ってしまうのも、冷静に考えて致し方ないように思えた。
「言われてみるとそういや……つっても、何も持ってないしな」
 食料全般を統括するリフィルは、基本的に食材を無断で持ち出すことを許さない。曰く、「小腹がすいたから」とか「何となく食べたい気分だから」とか、そういった理由で貴重な物資が目減りするのは我慢ならないのだそうだ。ゼロスにしてみれば、それを語っている彼女が料理を手掛けることの方が余程食材を無駄にしているのではないかと思えてならないのだが、それを実際に口にしてしまえば、待ち受けているものは火を見るより明らかだ。
「こういうことが無いとも限らないんだし、リフィル様も遠出の時くらい非常食許可してくれたっていいのにな〜」
「前はリフィル先生もあんなに厳しくなかったんだよ?こうなっちゃったのは、ロイドとジーニアスが、前に言いつけを破って取っておいたお菓子を勝手に食べちゃったからで……」
 思い返して、コレットは苦笑する。今後一切の食材の持ち出しを禁止します、と。そう宣言したリフィルは、件の遺跡モードにも差し迫るほどの気迫を放っていた。
 どうやら被害に遭ったそれはリフィルの好物であるレモンケーキだったようだ、と。後からしいなにそんなことを教えられて、妙に納得した記憶がコレットにはあった。
「なるほどねぇ。そのせいで、俺さまたちは切ない空腹にただ涙するしかない、と……。ちっ、今度ばかりはあいつらを恨むぜ……」
 がっくりと肩を落として、ゼロスは力無く息を吐いた。一旦空腹であることを認識してしまうと、それ以降は忘れようとしても付き纏う。いっそ気付かなければまだましだったのにと、未だ遠い夕食へと想いを馳せた。
「……そういや、今日の料理当番は誰だ?」
 これほど散々な目に遭って、無事に帰り着くことが出来た先に待っているものが、たとえば料理の形をした毒物だったなら。ふとゼロスの脳裏を過ぎった最悪の展開を、傍らのコレットも察したのだろう。語頭に「だいじょぶだよ」と付けかけて、慌ててそれを思い直す。「今日の当番は、ロイドだよ」と。何とか必要最小限の言葉に留めて伝えれば、目に見えてゼロスは安堵の息を吐いた。
「今日はハニーの番か。……助かった。それなら普通以上の食事が期待出来そうだな」
「ロイドの料理、おいしいもんね。私、ロイドの作る料理は好きだよ」
 ジーニアスのように誰が食べても絶賛するようなものではないけれど、リーガルのようにこだわりがあるわけでもないけれど、ロイドの作る料理は、二人とはまた違う良さがあるようにコレットには思えていた。良い意味で庶民的、とでも言えば良いのだろうか。懐かしいようで、目新しい。一見ありがちなのに、ロイドにしか作れないような、それは不思議な感慨をもたらすものだった。
「ま、ハニーは器用だからな。レシピの作り方丸ごと知らなくたって、一回やりゃ覚えるんだから大したもんだわ」
 あんだけ記憶力良けりゃ、勉強だって出来そうなもんだけどな。言ってから、ゼロスは内心で今の言葉を取り消した。――そもそも記憶力が良いとか、悪いとか、あれはそういう問題ではないのだろう。たぶん、根本的にじっとしていることが性に合わないだけだ。ほとんどが無意識の行動であるとはいえ、おそらく頭の回転の速さに関しては、ロイドは他の誰にも負けてはいない。
「でも、ロイドに任せた日はトマトの入った料理だけは絶対に作らないよ?」
 昔から、トマトだけは食べなかったから。少し笑ってコレットが言えば、「何であんなに毛嫌いするかねぇ……」と不服そうにゼロスが小さく息を吐く。
「どんだけカッコつけてるつもりになったって、そーいうとこがお子様じゃな〜」
 言いつつ、ゼロスは先日の出来事を思い出す。ほんの悪戯心で差し出したトマトを予想以上に全力で拒絶され、あの時は随分と面食らった。こちらが申し訳なさを覚えるほどの勢いには、心底苦手なのだろうと妙な説得力さえ感じたものだ。
「そういえば、ゼロスも結構料理、上手だよね?」
 コレットは言って、どことなく不思議そうにゼロスを見やった。ゼロスくらいの環境なら、料理なんて少しもしたことがなくても何らおかしいことはない。むしろこうして持ち回りの当番もこなしてしまえるくらいの腕を持っていることに、最初の頃は随分驚かされていた。
「ま、そこそこにはな。上手いかどうかは置いといて、少なくとも食えるもんは出してるつもりだぜ?」
 趣味ではないから取り立てて凝ったものを用意出来るわけではないが、口にして不快にならない程度の技量はあるつもりだ。ゼロスは思ってから、この状況に収まらざるを得なかった事実をも思う。
 何故不自由の無い家に生まれて、誰もが羨むこの存在が、妙なところで家庭的な面を発揮しだすのか。――答えは簡単だ。ただそうして流れ行かなければ、命を落としかねなかったから。誰ひとりに頼らず、身ひとつで逃げおおせるには、自分自身の面倒を見られなければならなかったからだ。
「そう言うコレットちゃんも、お菓子用意させたら敵ナシじゃないの。あのしいなだってフルーツケーキじゃ絶対にコレットには敵わない、とかなんとか言ってたぜ?」
「あぅ……そう言われると、恥ずかしいけど……。昔からね、お菓子を作るのは好きだったの。お休みの日に家でクッキーを焼いて、ロイドやジーニアスに持って行ったり……」
 二人が美味しそうに食べてくれるのを見てるのが、すごく好きで。そう少し懐かしそうに言ったコレットは、イセリアで無邪気に笑い合った日々を思い出す。
 あんなに幼い頃から、ロイドは結局変わらない。ロイドが自分の信じたものを信じ抜こうとしてくれたからこそ、イセリアでの毎日を、コレットは孤独にならずに過ごすことが出来た。どれほど周囲の人間がコレットを忌避しようと、彼女に扱いにくい人間のレッテルを貼ろうと、ロイドはそれを気にも留めずに彼女を遊びに連れ出した。時に言いつけを破り、人並みに叱られてしまうような明るい毎日を過ごせたのは、紛れもなくロイドの功績だ。
「……今より幼いロイドくんって、とんでもない悪ガキのイメージしか浮かんで来ないんだけど」
「やんちゃな方だったとは思うけど……でも、優しかったよ。今と、あんまり変わらないかな……」
 今よりもう少し思慮が浅くて、本当に直感で快と不快を読み取るだけの、俗に言う「鋭い子供」。前向きで、誰に対しても平等であるがゆえに、相対的に外れ者にされてしまってもろくに構いやしないような、真っ直ぐすぎるほどに真っ直ぐな、子供。
 思えば昔から、曲がったことが大嫌いなほうだった。コレットは思い返して、微笑ましくも切なげな、曖昧な笑みを浮かべてみせる。理不尽なことを許せないロイドは、焦りに囚われて変わっていくイセリアの人々をどう思っていたのだろう。――あの村を追われたことを、どう思っているのだろう。
 人は自分の身が一番可愛いものだ、とはよく言うけれど、ロイドに限ってはおそらくそうではないのだろう。だからこそあれほど簡単に誰かを信じて、救いの手を差し伸べようとしてくれる。けれど、それは痛々しい自己犠牲ともまた違う。ロイドの言葉には、根拠が無くても信頼に足りる何かがあった。
「……私とジーニアスはね。ロイドに助けられたみたいなものなんだ」
 神子として生まれて、居場所を無くしていた自分に。他所からやって来て、輪に入れずに居たジーニアスに。ロイドは何のしがらみも無く、真っ直ぐに笑顔を向けてくれた。それだけでどんなに毎日が明るくなったことか。どれほど普通であることの尊さを教えられ、どれほど幸せな気持ちを貰ったか。どんなに言葉を尽くしても、とても伝え切れそうには無いと思えた。
「あ……そういえば、ゼロスにもそうなのかな?」
「ん?」
 ふと何かを思い出したようにコレットはぽん、と手を打って、「ゼロスには苦手な食べ物ってある?」と一言尋ねた。
「嫌いなもの?」
「うん。私はね、どうしてもピーマンが苦手で……」
 苦笑して、コレットは思う。お子様だ、と言われてしまうかもしれないけれど、小さな頃からピーマンがどうしても食べられずに苦労していた。あの独特の苦味が好きになれず、外せない席での食事には随分気を遣ったものだ。大きくなれば食べられるようになるよ、との言葉を励みにここまで来たは良いけれど、これだけは結局、今も苦手なままだった。
「苦手なもの、ねぇ……」
 そう一言呟くと同時に、ゼロスはコレットの言わんとするところを理解する。――おそらくは、あのことを言いたいのだろう。
「ま、あるっちゃあるけどな」
 言いつつ、ゼロスは皆まで言わずにほんの小さく息を吐いた。
 基本的に夕飯の担当は持ち回りだが、ロイドが食事当番になる時にだけ、ひとつ大きく異なることがあった。あえて本人がそれを触れて回ることはしないけれど、ロイドはいつも個々の好き嫌いに見ぬふりをしないのだ。ロイドが担当した海鮮料理の日にはゼロスの器にタコは入れられていないし、野菜を扱う料理の時には、そもそもピーマンを使わない。
 それが当たり前の感覚なのだろう。その作業があまりにも自然に行われるものだから、食生活に厳しいリフィルでさえ、おそらくそのことには気付いていない。――けれど、とゼロスは思う。このことを自分からロイドに話したことは一切無いのだ。あれはいつのだことだっただろうか。思い返して、ゼロスは珍しいほどにゆるりと笑った。



『なーに、今日はロイドくんなわけ?やけに気合入ってんじゃないの』
『まあな。海辺だから新鮮な魚も手に入ったし、それらしいもんでも作ろうかと思って』
 その日は海釣りに興じていたこともあり、旅先にしては些か豪勢な食材が揃っていた。夕食当番のロイドは既にいくらかの支度を終えて、いよいよメイン料理の仕上げにかかろうかといったところだ。あたりには海鮮料理独特の匂いが立ち込め、それが妙に食欲をそそる。
『やたらコレットちゃんの竿に掛かってたけど、イセリアに居た頃は釣りなんてやってたのか?』
『コレット?うーん、家の近くでやってたことはあったけど、実際ほとんどないようなもんだぜ。あいつ、そういうところは運良いしさ。昔から敵わねぇよ』
 けろりと笑って、ロイドは煮込んだ鍋の火を止める。蓋をした鍋の中身が垣間見えて、ふとそこに天敵を見つけたらしいゼロスは、内心苦々しげな思いで吐息した。
『……こんなの誰か釣ってたか?随分大量だな〜』
 何の気ないふうを装って、己の天敵を連れて来た人間に探りを入れる。湯だって真っ赤に染まったそれは、ゼロスにとって憎むべき敵だった。
 どうにも昔から、あのぬめり気のある感触が苦手だった。噛み切りにくいからして、見た目の美しさを損なうということももちろんある。仮にもテセアラの神子様ともあろう者が、海産物に四苦八苦している醜い姿を晒すわけにはいかないだろう。ただそれを差し引いても、不気味なあの生き物をなお無残にも捌き、食そうとするその姿勢自体、ゼロスには受け入れがたいものだった。
『ああ、それ、ジーニアスが釣ってたやつだ。餌ごと持って行かれそうだったんだけど、途中で何とか持ち直してさ』
 ロイドの言葉にち、と舌打ちしたい気持ちを抑えて、ゼロスはいかにもそれらしく「ふーん」とだけ言ってみせる。まったく余計なことを、と仲間の幸運に呪いを掛ければ、尚更暗澹とした気分に陥った。
『んな心配しなくても大丈夫だって』
『は?』
『いや、おまえってタコ嫌いだろ?おまえのには入れないから安心しろよ』
 言われて、ゼロスは返す言葉も無く閉口する。いつうっかり口を滑らせてしまったのかと必死に記憶をたどってみるが、思い当たる瞬間はひとつも無かった。
『……ロイドくん』
『何だよ?』
『それ、どういう根拠でそこに思い至ったわけ』
『根拠も何も、見てれば分かるだろ。何となくだけど』
 いかにもそれが当然といったふうに口にするロイドに、驚きよりも呆れが勝って、ゼロスはもどかしげに嘆息をする。些細すぎる弱みを話すことは憚られたから、必死に隠してきたかと思えば途端にこれだ。
 とてもではないが観察眼があるふうには見えないのに――それどころか本人だって、おそらく分かろうとして分かっているわけではないのだろうに、気が付けばそれとなく秘密を知られている。
『そんな顔しなくたって、別に嫌いなものがあるのはおまえだけじゃないって。コレットはピーマン嫌いだし、ジーニアスだってニンジン駄目だろ』
『やれやれ……ま、ロイドくんもトマトは嫌いだしな』
 揶揄を交えてゼロスが半分事実を肯定すれば、ロイドは「それは……だって仕方ないだろ」とぶっきらぼうに視線を逸らした。

→Next