Cryolite-10-

「ったく、あんなふうに指摘されたら繊細な俺さまはびびっちまうっつーのに」
 回想から立ち返って、ゼロスはわざとらしくやれやれ、と手を振った。コレットもそれに少しだけ笑みを浮かべてから、申し訳なさそうに息を吐く。
「ほんとは、何でも食べられるようになれたら良かったんだけど……」
「気にすることないない。女の子はそれでいーのよ。ちょっとくらい好き嫌いあった方がカワイイって」
 軽薄な調子で言ったゼロスに、コレットは「ありがと」とはにかんだ。――こんだけ破壊力抜群の笑顔にもやられないなんて、あいつ、やっぱり相当だわ。そんな感想を抱いてから、一瞬。談笑する二人の傍らを、ひやりと冷たい風が抜けて行く。
「え、なに……?」
 目の前が暗転していくかのような感覚に陥って、コレットは戸惑いの声を上げる。
「……みつけた」
 囁くような調子で声は言って、二人に愉快さをも包み込む、ひどく澄んだ感覚をもたらした。
「君たちのこと、探してたんだ」
「私たちを……?」
 純真でつかみ所の無い、子供のような響きのその声は、二人の周囲をくるくる回ってぴたりと止まる。「そう、君たちのこと」と繰り返して、声は嬉しそうに語り始めた。
「大きな力が手に入ったんだ。君たちのおかげ。これで、やっとこの影から抜け出せる」
「……どういうことだよ?」
「だからね、言いに来たんだ。僕に力をくれてありがとうって」
「……話、聞いてないのは相変わらずかよ」
「私たちのおかげって、どういうこと……?」
「嘘を吐き続ける君たちがいけないの。それだけ。別に、僕のせいなんかじゃないんだよ」
 どこか切なげな響きで、同時にどこか嬉しそうに、声は波打つように二人に届いた。「それは、僕の力。それは、僕の想い」。意味深にそうとだけ言って、返答も無いまま声は続ける。
「お願い、僕を祀る場所で待ってる。もう少しだけ、その悲しみで僕を救って?」
「祀る場所……?ったく、話がまるで見えて来やしない」
「だって、分かったんだ。君たちにとって、何よりも大切なもの……」
 だから、僕はまだ強くなれる。君たちの悲しみをもらって、僕はここから出るんだよ。浮き足立った調子で、その瞬間を待ちきれないとでも言うように、声は少し急いてそう言った。危うさと切実な切迫感に満ちて、それは判断に迷ってしまうような声音だった。
「受け入れてくれない悲しみ。好きになってしまった戸惑い。わがままな自分。罪、罰、過ち、自己愛、陶酔、否定、自己犠牲。全部ぜんぶ、僕のもの。分からないなら、記憶の海を見せてあげる。……少しだけ。それで見ないふりをして、僕にまた力をちょうだい?」
 絶望がそこになければ、僕はまたここに独りきり。言い残して、声はそのまま消えて行く。やがて置き土産のように、三度目の空間の歪みが始まった。



 三度目のそれは、二度目までのそれと同じく過去の記憶のようだった。ただひとつ異なることといえば、今回は二人が離れ離れにされていない、ということくらいだ。目の前に映し出されたありふれた平野は、けれど、それほど平穏な状況にはありそうに無かった。
「これって……?」
 見覚えが無いのだろう。コレットは思い出せないといったふうに首を傾げて、目の前に繰り広げられる雨の日をぼんやりと眺め続ける。穏やかに流れ落ちる雨は風景を灰色に彩って、それは、まるで音の無いような不思議な世界だった。
『――からって、そんなこと!』
 戸惑う二人の目の前に、ふいに叫び声が響き渡る。続いてそこに現れたのは、怒り心頭のロイドと、あまりの剣幕にたじたじになっているふうのゼロスの姿。瞬間、ああ、とコレットは思う。さっき、伝え損ねてしまった記憶。今までにもう一人だけ、ゼロスが心を許してしまった人の。
『いきなり飛び出して来たりして、おまえの方が怪我したらどうすんだよ!』
 後先くらい考えろ、と。珍しいほど頭に血が昇っているらしいロイドは、半ば怒鳴りつけるようにへたり込んだままのゼロスへ声を上げる。日頃見せるような短絡的な怒りとは異なって、それは明らかな叱咤を含んだものだった。
『んなこと言われたって……別に、助けようとして助けたわけじゃ……』
 勢いに押されて思わず本音を吐き出せば、ロイドは「それが駄目だって言ってんだろ!」と一言。
『いつも何も考えないまま突っ走るなって怒ってるのはどっちだよ。おまえが危険な目に遭うのは困るって、何度も言ってんだろ』
「えと……ゼロス?」
 記憶の中のロイドとゼロスを見やりつつ、コレットは傍らのゼロスに戸惑い気味に声を掛ける。「覚えてる……?」と遠慮がちに尋ねれば、ゼロスは気まずそうに「ああ」とだけ言って視線を落とした。
 ――覚えているも何も。むしろ、何故今まで思い出さなかったのかと思うほど、これは随分凄惨な出来事だった。何しろこの後掛けた言葉で、余計にロイドを怒らせる。怒らせると分かっていながら、留められずに口をついて出た言葉。今考えても、見誤ったと思わざるを得ない。それほどに、後にも先にも、あれほど一方的に叱り付けられた記憶がゼロスには無かった。
『……何それ、どーいう意味?』
 投げ付けられる言葉の中で、その一言に引っかかりを覚える。妙な反抗心が芽生えて、持ち前の呆れ口調でゼロスは返した。
『……神子様は神子様の自覚を持って行動しろ、ってか?ほーんと、どいつもこいつもそればっかなのな。別に今更、俺さまがどうなったところで……』
『あのなぁ!そういうことを言ってるんじゃないっていつも言ってるだろ!……神子だからこうしなくちゃいけないとか、何だからああしなくちゃいけないとか、そんなことはどうだっていい。俺はただおまえが傷付くのが嫌だからそう言ってるだけだって、……何で分かんないんだよ』
 衝動を抑えるように低音で投げ付けられるその言葉は、真摯なだけにこれでもかというほど心を抉った。そう、そういう人間だ、こいつは。自分が傷付かなかったことに礼を言うのではなく、自分のためにその身を危険に晒した相手を咎めようとする。それは強烈なまでに相手を思いやるからこそなのだろう。ロイドが誰かに向き合おうとするその瞬間、そこには相手の身分や立場など一切介在してはいない。それゆえロイドが発する言葉は常に、「テセアラの神子」ではなく、「ゼロス」ただ一人に向けられている言葉だった。
『……ま、まぁ、お互い助かったんだからいいじゃないのよ。そんなに怒らなくたって……』
『助かったのなんてたまたまかもしれないだろ。……つーか、たまたまだ。別に、いつも誰かを守るばっかりじゃなくたっていいけどさ。……それでもこうやって、自分のせいで大切な人たちが傷ついて行くのを見るのは嫌なんだよ』
 ――ああ、まったく酷い殺し文句だ。思って、ゼロスはやり切れない思いに囚われる。どうせその善意ごと葬り去ってしまうつもりのこのどうしようもない存在に、居場所なんて与えようとしないでくれ。
 個であることを許されるたびに、醜さを自覚させられる。神子だからと個であることを否定されても、息苦しさに溺れそうになる。初めから、どうせ行き場なんてどこにも無い。苦し紛れに誰かを裏切って、おそらく有りはしないと分かりきった希望に、それでもこうして縋ることしか出来ない。
『……ほんと、どこまでも熱血漢なことで。そうやって真っ直ぐ前ばっか見てると、大事なもの見過ごしてるかもしれないぜ』
『それなら、それでいい。……誰だって、間違えずには進めないんだ。一度手を離したら、気付いたときに全部拾えばいい。……気付かないまま、誰も置いて行ったりしないさ』
『なるほどねぇ。……ま、人間、そう簡単じゃないから後悔するんだけどな』
 今更美しい理想論を信じられなどしないし、この期に及んで信じたくもない。ゼロスは言い聞かせるようにそう思って、嘲るようにロイドの言葉を一蹴する。
 都合の良い空想に身を任せてなどいれば、瞬く間に朽ちて行く。世界は徹底的なまでに現実でしか有り得ない。下らない思考に囚われてばかりいれば、すぐに現実が差し迫り、潰される。どこまで行ったところで、所詮ぬるく恵まれた小さな世界に生きてきた人間とは何もかもが違うのだ。――どうせ、伝わりはしない。このもどかしさも、動かしようの無い運命への嘆きも――それにかまけて全てを正当化しようと目論む、どうしようもないこの咎すらも。
『……どんなに分かろうとしたところで、分かり合えないこともあんだろ。そういうもんだと思うけどね、人間同士の関わりなんつーのは』
『ゼロスがそう思うなら、別にそれを止めたりはしない。……けど、俺はそうは思わない。たとえ全部じゃなくたって、変えていけるものはきっとある。おまえみたいに、それを最初から諦めたりしたくない』
「あー、こりゃ、完全にやっちまってるな。……失言のオンパレードだわ」
 記憶に根付く風景を遠くから眺めやって、ゼロスは苦笑しつつ呟いた。どれもこれもがあからさまにロイドの逆鱗に触れるような言葉ばかりを選択している。意図的にそうした面ももちろんあるが、この中のほとんどは半ば無意識に飛び出した言葉だ。この時の自分に共感出来ないわけではないが、せめて声に出すことを留めておくべきだった。
「ゼロス……」
 どこか不安げにコレットは言って、表情の窺えないゼロスの横顔を見やる。――ああ、だけど、また声を掛けられない。俯いて、コレットはほんの僅かに首を振った。
「コレット。蒸し返して悪いがさっきの話、本当なんだよな?」
 庇う、庇わないの話。暗に言い含めて、ゼロスは視線を流して尋ねる。
「え?あ……うん、ホント……だよ。気付いてなかったかも、しれないけど……」
 遠慮がちにそうとだけ告げたコレットに、ゼロスは苦渋の色を浮かべて押し黙る。「ごめんね、本当はさっき言おうと思ってたんだけど……」と言い添えて、コレットは曖昧なふうに微笑んだ。
「……ロイドくん、ねぇ。……何だってロイドくんなんだか……」
 独り言混じりにそう呟いて、ゼロスはこの日の記憶を振り返る。言われてしまえば、否定は出来ない。最優先にすべき自己の命を天秤に掛けることもせず、誰かの安全のためにこの身を投げ打つ。それを実行したのは、何も致命的な状況に陥ったこの一度きりではない。今まで幾度も窮地を救い、そのたびにどうしようもなく安堵を覚える自分の姿を、鮮明に思い描けてしまって嫌気が差す。
 そうして溜め息にもなり損ねた息を吐いたゼロスの隣で、コレットもまたやり切れずに自傷にも似た笑みを湛えた。ぽつり、と、独り言のように吐露を始める。
「……ロイドは、すごく優しいから。だからね、時々、すごく怖くなるの。もしロイドが私から離れて行っちゃったらどうしよう、って」
 どれほど困難な状況にあっても、ロイドが傍に居てさえくれるなら、それだけで乗り切れるような気がコレットにはしていた。――実際、それだけを支えに乗り越えてきたこともたくさんあった。ロイドが「大丈夫だから」と笑ってくれるだけで、今までの不安が嘘のように目の前の苦しみに立ち向かう勇気が湧いたし、どんなに辛いことがあっても傍で優しさを与え続けてくれるロイドの存在は、コレットにとってかけがえの無いものだった。
 ――けれど、だからこそ不安になる。もしもいつか愛想を尽かされて、たった一人で残されてしまったら。きっと有り得ないのだろうと分かっていてさえも、ささやかで独りよがりな不安はいつも消えてはくれなかった。支えられ過ぎている分、失ってしまったら空っぽになってしまう。大きすぎれば大きすぎるほどに、きっと莫大な空白を抱えてしまう。――そして、それは紛れもなく自分の弱さだ。誰かに頼ってしか生まれ来る不安を埋められない、どうしようもない自分の弱さ。
「居なくなったら動けなくなっちゃうくらいに寄りかかったりしたら駄目なんだって、いつもそう思ってるのにね……」
 ただでさえ多くのものを一緒に背負おうとしてくれるロイドは、頼れば頼るだけ、全部を受け止めてくれようとする。それを辛いこと、苦しいことだと思わずにいるうちに、気付けば引き返せなくなってしまう。――そうして、たくさんの罪を犯させた。関わりさえ持たなければ、きっと知らずに生きていけたはずの現実に向き合わせた。――否。今もなお、向き合わせ続けている。こんな自分など、「傍に居たい」と願ってしまうことすら、本当は許されないことなのだろうに。この上「心が離れてしまうことが怖い」だなんて、傲慢でしかないと分かっているのに。
「……ね、ゼロス?」
 目を伏せたままで、コレットはぽつりとゼロスの名を呼ぶ。諦め混じりのその笑みは、尋ねる前から答えを心得ているかのようにも見えた。
「……どしたよ?」
「あのね。……ゼロスはロイドのこと、好き?」
「あー……俺さまにそれ聞く?」
 それも今の流れで。そう自嘲めいて言ったゼロスに、コレットは言葉も無いまま困ったようにささやかに笑った。「うん。……ごめんね」とだけ言えば、中空を見つめてゼロスはいくらか瞬きをする。
 ――ゼロスがそれを聞かれたくないことなんて、嫌というほどに分かっている。それでも聞かなければならなくなってしまったのは、たぶんそうしなければ、何もかもを正当化してしまいそうな気がしたからだ。つまりはただの独りよがり。似過ぎている自分と同じ存在に、事実を突き付ければきっと罪を忘れずにいられるから。欲深くなって、自分の立場さえ忘れて、幸せばかりを求めたりせずにいられるから。
「コレットちゃんは時々意地悪だよな〜。カワイイ顔して、容赦ないっつーか、なんっつーか……」
 言いつつ、ゼロスは答えに逡巡する。――どう答えるのが正解なのか。今この瞬間にも、打算的にしかなれない自分に妙に苛立つ。
 そもそも好きだとか、嫌いだとか、根本的にそういう次元に無いのだ。加害者と被害者でしかないこの関係は、生温い仲間ごっこの果てに、いずれ埋めようの無い溝を生むだろう。気を許す、許さないの問題ではない。――何より、そうでなくてはならない。その前提が崩れ去ってしまえば、あらゆる拠り所を失うのは自分なのだ。
 絆されれば身を滅ぼすのは自分自身でしかない。誰が庇護をくれるわけでもなかった無情なこの世界の中で、今更他の何を信じろと言われたところで、この心は動きやしない。――そうやって、全てを否定するしか術は無い。ちらつく愚直さに笑い返すのは、所詮目的のためでしかないのだと。懸命な怒りを受け止めるのは、いずれ来る別れまでの慰めでしかないのだと。――そうやって、自分の何もかもを誤魔化しているだけなのだろうことを理解していてさえも、そこから既に動けない。
「……そういうコレットちゃんはどーよ?」
 散々思考を巡らせて、結局ゼロスはそれだけを言い放ち、様子見に回る。――ああほら、な。どこまで行ってもこういう人間でしかない。逃げに走り、相手の意思に賛同し、自分は曖昧なままで居る。のらりくらりと核心を突こうとする問いをかわし続けておきながら、相手の深いところばかりを探ろうとする。「狡賢い」とでも非難されて然るべき典型だ。今更弁解するつもりも無いし、そもそも退路など、自分でとっくに断ってしまった。
「私……私は、好きだよ。ロイドが、たとえ私のことをどう思ってたとしても……」
 あらゆる意味を含めた、「好意」に属するもの全てを懸けて、想えると思った。見返りなんて要らなかった。それほどに、たくさんのものをもらった。
 今の自分があることさえ、元を正せばロイドのおかげだ。――だからこそ、いつもそこから抜け出せない。思って、コレットはゼロスを見やる。
「んな心配しなくたって、ロイドくんがコレットちゃんのことを嫌ってるわけないだろ」
「……うん。わかってる、けど……」
「何にしたって、旅を続けてんのはロイドくんが好きでやってることだろ?なら細かいことなんて気にしないで、ありがたーく受け取っとけばいいのよ、そういうのは」
 どうせ、気にしなさすぎるくらいでちょうど良い。そう思ってゼロスが言えば、コレットは煮え切らない表情のままで「そうだね。……でも」と言葉を濁す。
「それなら、……ゼロスも、そうしたっていいのに」
「ん?」
 ゼロスの言葉にぽつり、呟いてコレットは思う。――痛ましいほど自分を傷つけて傷つけて。背負ったまま逃げたふりをしてしまうから、近付いたと思えば遠のいてしまう。いつだって言わなかったり、言えなかったり。伝えようとしなければ隠し通せてしまう、上辺だけのその強さが、いつだって手を取り合うことを拒絶するから。
「……ゼロスは、どうしてそうやって自分を苦しめるの?」
 そんなこと、する必要なんてないのに。コレットが諦め混じりにかぶりを振れば、ゼロスは言い難い表情のままで沈黙を貫いた。
 何かにつけて冗談を口にしようとするのは、それを茶化していなければ、まともに受け止めてしまいそうになるからだろう。向き合うことが怖いから、向き合わないための理由を作っては、ゼロスは「自分なんて」とただただ笑う。それはずるいというより、脆いというより、ただひたすら切なくあった。――自分を守るようなふりをして、誰よりも自分を傷つけようとするその業の深さには、コレット自身はきっと分け入ることが出来ないのだろうと。そう思わされてしまうほど、これほど近い存在でさえも、「他人」というだけでゼロスは何もかもを拒絶する。まるでそれが相手のためでもあるのだからと、そう告げるかのように、悲しく鋭い眼差しで。
「それを言うならコレットちゃんも同じだろ?……必要以上に自分責めたって、周りの奴らが嘆くんじゃねーの」
 何しろ他人の感情には呆れるほど鈍感なくせに、一旦思い悩めば当然のようにそれを気取って問い詰める人間がいる。苦しさを分け与えろと強引に迫るその姿に、どう接していいものかを時折、ひどく迷わされる。
「……ゼロスは、そうやって私を許そうとしてくれるのに」
 だけれど、自分のことを許さない。けれど、それはきっと自分も同じ。コレットは思って、「……私たち、いつもこんなふうだね……」と寂しげにそう言った。誰かを許そうとすることで、ほんの少しだけ、息苦しい罪悪感に満ちた世界から逃れようとしてしまう。
「俺さまはいいんだよ。……それだけのこともしてる」
 他人には到底言えないようなこともやって来た。裏切っても来た。裏切ってもいる。誰かの純粋さを手玉に取って、何もかもを理解していながら嘘を吐いて、そうして生きることを選んだのは自分だ。今更赦されたいとは思わない。赦されるとも思わない。そう、そうやって――。
「……そう、思いたいの?」
 ゼロスの思考に割って入って、コレットは真摯な眼差しでゼロスを見やる。ゼロスは、いつもそうだから。そう僅かにふわりと笑みを浮かべて、返る言葉をただ待った。
「……やけに切り込むじゃないの、今日は」
 諦めの色を浮かべて、ゼロスは静かに目を伏せる。
「ん……ま、そうなのかもな」
 一言だけぽつりと返せば、「そうだね……」とコレットの言葉が落ちた。



「あれ……?」
 それからつかの間。記憶の風景から解放されたコレットは違和感に気が付いて、少し急いたように辺りをぐるりと見渡した。ぴりぴりと張り詰めた空気が、さっきよりも随分強くなっている気がする。過去に隔離される以前よりも空間は複雑さを増しているし、どことなく息苦しさをも感じさせる。
 ――出所はおそらくあの魔物だろう。もしかして、とコレットが思い至った頃には、ゼロスも事を察したのか、何とも言えない様子で口を開いた。
「こいつは……」
 冷静にこれまでの出来事を振り返ってみれば、自ずと答えは導き出せた。この迷宮はたぶん、進めば進むほどに複雑さを増して行っているというわけではない。進む先々で「声」に過去を突き付けられるそのたびに、この空間は大きく成長を遂げるのだろう。糧となるものは、おそらく――。
「もしかして、感情に反応する魔物……?」
「みたいだな。過去を見せられるたびに分かれ道が増えてったのも、バカみたいに部屋が広くなったのも、あいつが形になって現れたことも、……全部これのせいかよ」
 苛立ちを込めて言ってから、ゼロスは神妙な表情のままで押し黙る。人間の感情に刺激を受けて力を増幅していくタイプの魔物は、少ないながらも一定数存在する。さすがにこれほどの空間を組織してしまえるほどの力を持った個体に出逢ったことはこれまで無いが、その能力がいかほどの脅威であるかは経験則から納得出来た。
「私たちの、想いを……」
 ぽつりと呟いて、コレットはとりわけそれが負の感情に連鎖するものなのだろうことをも理解する。姿無き声は「罪や罰、それに付随する全ての感情こそ自分のものだ、僕は君たちのおかげで強くなれた」と、確かにそう言ってのけた。
 つまりはこの迷宮に囚われ続けていることも、脱出を限りなく困難に近づけていることも、誰より自分たち自身の所為ということになる。一度でも物思いに沈んでしまえばそのたびに、この空間は深い闇に飲み込まれてしまうのだろう。思い悩むことをすればするほどに、ともすれば永久の牢獄にも招かれかねない。初めて岐路に立たされたあの瞬間から、たどり着く場所は決まっていたようなものなのだ。
「人様のマイナス感情煽って力に変えようなんざ、悪趣味もいいとこだな」
 吐き捨てるようにそう言って、ゼロスは怒りに支配されそうになる自身をどうにか諌める。これでは、いつになっても出口は見えない。心を荒げれば荒げるほどに、道のりは険しくなるばかりなのだろう。
 ――どうにも厄介な魔物に捕まってしまったものだ。内心自身の不運を盛大に嘆いて、ゼロスは今にも飽和しそうな衝動をひたすら留める。揺れるな、と言い聞かせる。渦巻く言い知れないこの感情も、受け入れてしまえばきっと取り返しが付かなくなる。――それでなくても、あまりにも欠けすぎている。これ以上、何かが壊れてしまう音など聞きたくはなかった。
「……祀られてる場所、って、言ってたね?」
「先行ってみるか?あいつが親玉だってんなら、探し出して叩くなりなんなりしねーと」
「でも、だいじょぶかな。またあんなふうに過去を見せられたりしたら……」
 それこそ、立ち上がれなくなってしまうかもしれない。そう思わされてしまうほど、これまでの記憶はコレットとゼロスの心を穏やかに蝕んでいた。
 ひとつ折り合いを付けて前へ進もうとすれば、またすぐに新しい壁が立ちはだかる。それは殊更無力感を植え付けるのに十分であったし、己の意義にも影を差した。この場所へ留まり続けたところで、どうなるものでもないことはコレットとて重々承知だ。それでも、怖くなる。だんだんと核心に迫るあの声の問い掛けは、どれもこれもが的外れでないばかりに、振り払うのに恐ろしいほどの力を要する。
「つっても、顔合わせないことにはどうしようもないだろ。どっちみちここに居れば二人揃ってお陀仏なんだ。……俺さまはこんなところでくたばるのは御免だからな」
 ゼロスは言って、重ねて自嘲する。こんなところで倒れてしまえば、これまでに手を染めてきた、あらゆる愚行すら水の泡になってしまう。ゼロスにとって、それは潜在的な恐怖だった。何しろ無価値さを捨て去りたいがためだけに、自身の刃に貫かれて朽ち行く悲鳴も、最期の瞬間に全てを気取った哀れな悲嘆も、何もかもを振り返らずに走り続けて来たのだ。おそらくそんな彼にとって、これほど皮肉な結末も無いのだろう。
「あちらさんから誘ってくれてるんだ。出口探すより、原因片付けちまったほうが早いんだろうよ」
 もっともらしくそう言えば、コレットはほんの少し躊躇った様子を見せて、「そう、なのかな……」と戸惑いがちに呟いた。始めて遭遇したその時から、ずっと持ち続けている拭えぬ違和感。傷つけられても、苦しめられても、どうしても怒りが湧かない理由を、コレットは未だ探せずにいた。
「あの魔物、悪い魔物なのかな。なんだか、あんまり綺麗だから……」
 ――わかんなくなるよ。コレットは曖昧に微笑んで、困ったように軽く俯く。良く響く澄んだ声も、作り出す透明な世界も、どれもこれもが美しい。誰かを陥れるためだけに用意される空間にしては、あまりにも出来すぎているような気がコレットにはしていた。過去を見せ、相手を否定することを愉しんでいたことは確かだろう。それでも、それだけでは語り尽くせない並外れた雰囲気を、あの魔物からは度々気取れてしまう。
「相手にどんな事情があろうと、俺たちが迷惑被ってんのは事実だろ。争う理由なんざ、それだけで十分なんじゃねぇの」
 あいつが正義を嫌うのも、たぶんそんなような意識から来るものだろう。所詮独善的でしかない者同士、ぶつかればどちらかが一方的に正義足りえることなど有り得ない。自分だけを正当化して盲目的になること自体、おそらくあいつは許せない。
「……ん?」
 ゼロスは無意識にそこまで考えてから、己の思考の展開ぶりに頭を抱えそうになる。――なんだってここであいつが出て来る。送れて気付いたそれに脱力の息を吐いてから、振り切るようにコレットへと視線をやった。
「えと……どしたの?」
「あー……いや、何でもない。そう、それに、だ。コレットちゃん、あいつに殺されそうになってんだぞ?その時点で同情の余地なんかとっくにナシだろ」
「う、うん……」
「……ま、とにかくだ。ここでじっと助けなんか待って、黙って飢え死にするよりゃよっぽどいいだろ。何にしたって、何もしないよりはなんぼかマシだと思おうぜ」
 半ば強引に結論付けて、ゼロスは「な?」と駄目押しをする。放っておけば、コレットはきっと優しさに囚われたままで動けない。割り切り方が過ぎて、たとえ薄情者と罵られても、巻き込まれて立ち止まっているわけにはいかなかった。
「……そだね、行こっか?」
 ゼロスの言葉にコレットは顔を上げて、続く扉の向こうを見据えた。ごめんね、ヘンなこと言って。そう言って少し笑ったコレットに「いーからいーから」と、軽い口調でゼロスは答える。決着は、そろそろ近づいて来ているのだろう。

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