Cryolite-8-

 「ごめんね、少しだけでいいの。少しだけ、時間をくれる?」そう言ったっきり思い詰めたふうをして、一切の言葉を発さなくなったコレットを、ゼロスも問い詰めることはしなかった。座り込んで無音の空間に身を任せれば、先ほどの声が呼び起こされる。「意味を求めない人間を怖がるのはどうしてか」と。そう問われたことの意味を今ひとつ理解出来ないまま――否、理解しようとしないまま、答えを探し求めるでもなく、ゼロスは空白をたゆたっていた。
 理不尽を嫌い、それに苛まれている人間を助けられると信じ、それなのに正義を嫌う。疑うことをしないわけでないが、それでも、ひとまず信じてみようとするところから始める。ゼロスにとって、初めて出会った頃のロイドはひどく単純な人間だった。自分の目の前で好意的な振る舞い方をされれば、邪推せずにその人間を丸ごと信頼しようとする。そんな在り様には正直、嫌気が差した。実にお気楽な理想論者だと、青すぎてお話にならないと、内心呆れ返った記憶がある。
 そんなロイドに危機感を抱くようになったのは、それから少し時が経ってからのことだった。事実を見抜いているわけでもないくせに、やたらと本質に近いところを感じ取る能力に長け、何事に対しても無自覚にずけずけと物を言う。どんなに些細な変化でも、それをどれほど押し隠したつもりでも、「何となく」の一言で本心をぴたりと指摘してしまう。そんなはた迷惑な能力は、ゼロスにいつだって余計な気を回させたし、本当は何もかも露呈してしまっているのではないだろうかと、幾度となく疑心暗鬼に陥らせもした。結局杞憂に終わることを分かっていても、ロイドの言葉には奇妙な鋭さがあったのだ。
 他人の心に土足で踏み込むその言葉たちは、ゼロスに居心地の悪さを感じさせると同時に、ひどく不思議な感覚をもたらした。けれどそれが何なのかを突き詰めようとすればするほど、裏切りの事実が重く圧し掛かる。それ以上を理解してはいけない、と警鐘を鳴らす。所詮自分は裏切り者だ。目的の為にあらゆるものを踏みにじり、それを省みぬまま利用する者。出逢った時点で加害者と被害者。同じ線上に立つことなど許されはしないのだから、と。
「何だかな……」
 自嘲気味に視線を流してゼロスが呟けば、コレットがほんの少しだけ傍で身じろぐ。おそらく独り言だと認識したのだろう。コレットの注意はほんの僅かの後に逸らされて、そのまま、静寂が満ちる。
 ――そう、ロイドの言葉なんて、所詮は被害者の無知な戯言だ。裏切りに気付かず、仲間だからと笑い掛け、挙げ句洗いざらいを筒抜けにされている様は、傍から見ればひどく滑稽だ。――愚かとしか言いようが無い。ただただ、ひたすらに。
 ――それなのに。やり場の無い思いに歯噛みして、ゼロスは思う。――それなのに、どうして声は大きくなる。どうして、声を拒めない。裏切りが露呈したらと、そう考えることはこれまでだって何度もあった。けれど、それは保身のためだ。今までにだって、危ない橋をいくつも渡った。裏切りの露見を恐れたのは、常に制裁という名の命の危険が付き纏っていたからだ。それでは今はどうだ。放り投げられた無責任なあの信頼に、背けば怒るだろうかと、冷めて愛想を尽かすだろうかと、そんなことばかりを考える。もしも怒りに剣を向けようとするのなら、その切っ先はしかとこの身を貫いてくれるだろうかと、過ぎた自己愛に囚われそうになる。
 ――ああ、良くない兆候だ、と。そう思えば思うほど、ゼロスは自身を罪で縛る。そうでもしなければ、何かが変わってしまいそうで怖かったのだ。お人好しなあの少年が、数え切れないほどの罪状で塗り固めた線を振り払って踏み込んで来そうになった時、果たして正しく拒むことが出来るのだろうかと。そんな些細なことにさえ、今となっては自信が無かった。ただ、切り捨てれば良いだけなのだ。そう理解しているはずなのに、ふとした時に奇麗事だらけの言葉が過ぎる。
 どこから掛け違えてしまったのか。――最近、よく思い出すことがある。ゼロスは思って、あの雪の町での出来事を思い返した。


 話は、初めてフラノールに足を踏み入れた日へと遡る。一通り用件も済んだ夕刻、夕食にはまだ少し早いからと、一行は自由な時間を過ごすことを取り決めた。各々が日頃目にすることの無い雪に沸き立ち散っていく中、ゼロスはそのまま宿に居た。雪を目にすると、嫌でもあの日の記憶が蘇る。ゼロスにとって雪は愛でるものではなく、罪を忘れぬための呪縛のようなものだった。
 今日は随分走り回らされて疲れたからな、と。怪しまれることが無いように、宿に残るための言い訳も、適当ながらもごくありきたりで角の立たないものを使った。何の気なしを装って放ったその言葉は、見せ掛け完璧だったはずだった。――ああ、久しぶりに解放される。どこか被害者めいた心境で、ゼロスは何をするでもなく時を過ごす。――ふいに扉が開いたのは、それから少しのことだった。
『よっ、ゼロス』
 宿に独りになってしばらくすると、はしゃいで出て行ったはずのロイドが姿を見せる。まだ夕食時には早いだろう。そう疑問に思いつつ、ゼロスは明るさを繕ったままで問い掛けた。
『ありゃ、どしたよ、ロイド君。外に出てたんじゃなかったのか?』
『ああ、さっきまで出てた。……けど、おまえ、独りで宿に残ってただろ。誰も居ないのも寂しいかと思ってさ』
 何となく気になって戻って来た、と。取り立てて深刻なふうも無く、ロイドはそれが当たり前だとでもいったようにゼロスのベッドに腰掛けた。ずしり、と、余分な重さにベッドが軋む。
『別に俺さまのことなら気にする必要無いぜ?何たって麗しき孤高のゼロス様なんだからな。君たち一般庶民とは違って、孤独をも楽しめんのよ、俺さまは』
『何が孤高だよ。おまえ、俺たちと一緒の時は絶対独りで居ようとしないだろ』
 何気ないふうにロイドは言って、ゼロスへちらりと視線をくれる。驚いたゼロスはほんのつかの間言葉を失くして、それから焦ったように笑みを作った。
『そりゃたまたまだって〜。俺さまが遊ぶの大好きなことはロイド君だって知ってんだろ?今日だってあとすこーし元気なら、外に出たいのは山々なのよ?』
 軽い調子でゼロスが言えば、ロイドはそれまでの気楽なふうを少し崩して、真剣みを交えてゼロスを見やる。はぁ、と小さく息を吐いてから、元の調子に戻ってこう言った。
『前に熱出したの黙ってまで付いて来てたことあっただろ。そんな奴がちょっと余計に運動したくらいで宿に籠もるかっての』
『な……』
『ゼロスが出たがりなのは知ってるぜ?でも、だったら余計おかしいだろ、この状況』
 整然と告げられて、ゼロスは苦々しげに思い出す。あれはいつのことだっただろうか。体調が思わしくないことには気付いていたが、宿に残ることがどうにも躊躇われた日があった。当時は少々単独行動が過ぎたせいもあって、ちょうど大人連中に思わしくない疑いを掛けられそうになっていたのだ。この上宿に独りで残りたいなどと進言すればさすがに立場が危うくなりそうで、随分無理を押して仲間たちへと付き添った。――そう、あの時もたしか、それに気が付いたのはロイドだった。上手く隠したつもりでいたにもかかわらず、すぐに異変を気取られて、宿に押し込まれたような記憶がある。
『別に、話すのが嫌なら無理には聞かないけどさ』
 ゼロスが思い返せば、ロイドは諦めたようにそうとだけ言って、複雑そうな表情でゼロスを見やる。尊重しようとは思うのに、不安が顔を出すものだから、それを何とか押し留めているかのような。こうして見ると、ロイドの考えていることは比較的顔に出やすい。本人はクールを気取っているつもりでいるようだが、こんなところはやっぱり隠し切れない。
『おーおー、随分大人な対応だねぇ。ま、聞きたいって顔に書いてあるけどな』
『……そりゃ、聞きたくないわけないだろ。それでなくてもおまえ、あんまり自分のこと話さないし』
『んなことないだろ。ロイド君だってお喋りだなんだってすーぐ俺さまに文句付けて来るくせに』
『それは無駄な話が多いだけだろ。女の子の話とか、酒の話とか、そういうのじゃなくてもっとさ……』
『無駄とは何だ、無駄とは!男たるもの、出逢いの数だけ女の子を愛でるのは当然の義務ってもんだぜ?』
『あー、へいへい。……とにかく、言いたくないなら無理に言わなくてもいいけどさ。だけど……』
『だけど?』
『嘘で誤魔化そうとするのは止めてくれよ。……信用されてないみたいで傷つくから』
 話したくないことを無理に聞き出そうとしたりはしない。黙り込んだからって疑ったりももちろんしない。――ただ。ただ、嘘を吐くことだけは止めてくれ、と。無意識ながらも少し咎めるように言ったロイドに、ゼロスは半ば無意識に視線を逸らす。一瞬の空白。予想外の不意打ちに、上手く言葉を紡げない。
『……本当に、どうしてこう……』
 ――どうしてこう、一番突かれたくないことを、こうも的確に突いて来るのだろう。ゼロスは思って、いっそ頭を抱えたいような気分に陥る。
 気付いた頃にはもはや身構える暇も無く、濁りの無い真っ直ぐな瞳に射抜かれている。いつもそうだ。無自覚に他人の奥底に隠した扉に手を伸ばし、難なく侵入を成功させるその鮮やかな手口は、強固に張り巡らせたはずのこの警戒心が拒絶するだけの猶予すら与えてはくれない。
『ん?何だよ?』
 ゼロスが言いようのない表情でロイドを見やれば、ロイドは疑問げにそれを見返した。ロイドの何より恐ろしいところは、これら全ての言葉が少しの計算も無しに放り出されているところにあるのだろう。
『んーにゃ、何でもない。ま、あんまし気にしなさんなって』
 そういや、フラノールはどうだった。イセリアには雪は積もらないんだろ。危うげな雰囲気を感じ取って、早々に話題を打ち切ってしまおうと、ゼロスは何気ない調子で問い掛ける。ロイドはそこでようやく思い出したかのように、「ん?ああ」とだけ言って少し笑った。
『フラノールってすげー寒いのな。イセリアも寒い方だと思ってたけど、比較になんねーよ』
『そりゃ、テセアラで唯一ダイヤモンドダストが見られるって評判の街だしな』
『ダイヤモンドダスト?……何だそれ?』
『……なぁロイド君、理科って教科が存在するのは知ってるか?』
 少し呆れてゼロスが言えば、ロイドは「当たり前だろ。馬鹿にすんなよな!」と力強く言ってみせる。――こういうところが普通の少年に過ぎるからこそ、分からなくなる。唐突に投げ付けられるあまりにも本質を見極めたふうなその言葉と、あらゆる無知を持ち前の真っ直ぐさで打ち消してしまうその姿勢が反発しあって重ならない。たぶん、飾らずに居るあまり、矛盾している全てがロイドの本当であり続けているのだろう、と。本心ではそう分かっていても、ゼロスはそれを受け止められない。出来るなら、ただ――どうしようもなく無謀に満ちてお気楽な、嫌悪さえ覚える存在であってくれたならと、そう願わずには居られない。
『……ゼロス?』
 神妙な様子に気が付いたのだろう、ロイドが訝しげな声を上げる。そのまま疑問を口にしかけたロイドに、ゼロスは割り込むように制止を掛けた。
『ちょい待ち。何も言うな』
『は?』
『どうせ「どうかしたのか?」とか何とか聞こうとしてんだろ?……何でもないし、どうもしないから、今そこをツッコむのは止めてくれ』
 聞かないことを学んだのなら、言わないことも心得てくれ。――それでないと、いつか余計なことを口走ってしまいそうな気がする、と。そこまでを言葉にはせず、ゼロスはひどく自己嫌悪に陥る。意図的に何もかもを伝えないことを選んだのは自分だというのに、それを拒む言葉に揺らぎそうになる。時折覗く、限りない包容力に身を委ねたくなってしまう。――けれど、それは圧倒的に罪でしかない。許されは、しない。それを望むどころか、きっとそれを認識してしまうことすらも。
『……分かったよ。けど、どうにもならなくなりそうなら無理矢理にでも問い詰めるからな』
『……はいはい、了解っと』
 人が良いねぇ、ほんとに。茶化すようにゼロスが言えば、「んなことないって」と呆れたようなロイドの声。二人分の重みが掛かったこの場所は、残酷にもひどく居心地が良かった。



 ふと回想から立ち返ると、ゼロスの視界に動きを見せる色が映る。青色のそれはひらひらと二人の傍を舞ったのち、コレットの肩にそっと止まった。
「えと、蝶……?」
 驚きと戸惑いに身動きも取れぬまま、コレットは遠慮がちに自分の肩口を見やる。透き通った蒼色の翅を持つその様は、凛としてひどく美しい。けれど、場違いなふうにも、似合いなふうにも見えるその姿は、完成されすぎているあまり、一種の玩具のようでもあった。それでも此処へやって来てから、初めて自分たちの他に命あるものを見つけた。それを考えれば、それだけで少し救われるような思いがした。
「怪しさ満点だな、こりゃ」
「でも、そんなに悪いふうには見えないよ?」
「コレットちゃんがそう言うんならそう思いたいところだが……それにしたってどこから出てきたんだよ、こいつは」
 いくら回想に耽っていたとはいえ、流石に遠くから進入してきたのであればもっと早くに気付けただろう。同じように物思いに沈んでいたとはいっても、コレットだって突然のことに随分と驚いている。迷い込んだわけでもなく、突如として目の前に姿を見せたからには、何がしかの仕掛けがあると見て間違いない。
「これも幻覚、なのかな……」
「さあな。まぁでも、そもそもこの場所自体が幻覚なわけだし、そいつも作りもんの可能性は高いんじゃないの」
 言いつつ、ゼロスは静止したままの蝶を見やる。途端に引き込まれそうになって、耐え切れずに視線を逸らした。底知れない美しさの陰に、とても言い表しようの無い何かが隠されているような。そんな感覚を一瞬覚えて、妙な気味悪さに息を吐く。
「あ……」
 ゼロスが思ううち、コレットが小さく声を上げる。勢いのままにコレットの肩口から飛び去った小さな蝶は、その場を名残惜しむかのようにいくらか飛び回り、やがて、そのまま溶けるかのように消えてしまった。
「……消えちゃった」
「やれやれ……急に現れたかと思えば、消えるのもあっという間ってか。何だったんだ?」
 訝しげにゼロスが言えば、コレットも答えに行き着かずに頭を捻る。特別何かをされたような感覚も無ければ、その姿にだって何の見覚えも無い。
 ただ唯一、目を引く蒼色と黒色のコントラストが、脳裏に焼き付いたままで離れてくれない。あまりにも強く残されたその色は、言葉に表そうとすればするほど、まるでこの世のものではないように思えた。存在し得ないほど美しく、また感じ得ないほどの畏怖を抱かされる。――本当になんなのだろう、と。そう、コレットが思った瞬間のことだった。
「あ、……れ……?」
 ――違和感。ぐらり、と視界が揺れて、途端に強烈な眩暈に襲われる。息が苦しい。力が入らない。急激に血の気が引いていくのを感じて、その場に蹲るようにして倒れ込む。支えられない。立ち上がれない。手を伸ばすことも、とてもではないが出来そうにはない。
「コレット?」
「っ……なん、で、……だろ?」
 やっとのことでそれだけを口にして、コレットは荒い息遣いのままでゼロスを見やった。突然のことにうろたえている様子が見て取れて、内心少し安堵する。ゼロスは今、たしかに自分のために焦り、自分のために戸惑ってくれているのだと。たったそれだけで、ゼロスにとって自分がほんの少し特別であることが理解出来て、こんな時だというのにほっとする。自分だけではないのだ、と思わされる。大切に想っているのは。――特別だと思っているのは。
「……鱗粉か?」
 ゼロスが屈みこんだままのコレットの様子を極力冷静を装って観察すれば、肩口に光る銀色が目に入った。先ほどコレットの元に寄り添った蝶の置き土産であろうそれが、おそらく毒性を持っているのだろう。――まったくもって迂闊だった。悔やみつつ、ゼロスはコレットから目を逸らさない。
「さっき、の……?」
 やっとといった様子でコレットは呟いて、ぼんやりと歪む視界に懸命に意識を留める。「離れないと、あぶない、よ……」ゼロスにそう告げながら、コレットは苦し紛れに笑って見せた。
 感染源が先ほどの蝶にあるのなら、傍に居たゼロスだって危険は同じだ。今此処で二人とも倒れてしまったら、出口を見つけ出せる人間は誰も居なくなってしまう。隔絶されたこの空間で、それはすなわち死を意味するのと同じこと。それなら、とコレットは思う。それなら、ゼロスだけでも。きっとゼロスなら――。
「……悪いな。あいにく治癒術は使えないし、それらしい薬も持ってない。ちょっと苦しいだろうが、耐えてくれよ、コレット」
 ――ゼロスなら、きっと冷静な判断を下してくれるだろう、と。コレットがそう思ったのもつかの間、ゼロスは離れるどころか近付いて、コレットにそっと回復術を掛けてやる。こんなことをしてみたところで、根本的な解決策になどなりはしない。所詮その場凌ぎの苦肉の策だ。それでも少しくらい、絶望的な状態になるまでの時間を稼ぐことなら出来る。
 本当ならコレットをこの場に置いて、一刻も早く手がかりを探すべきなのだろう。ゼロスとてそう思いはすれど、どうしてもそれをすることは憚られた。別に同情しているわけではない。そもそも同情出来るほど高い位置からコレットを見下ろすことなど、ゼロスには到底叶わなかった。こんなところはとことん甘い。――そして何より独りよがりだ。思って、ゼロスは自嘲する。助けているようなふりをして、時が来ればきっとこの手で彼女を差し出す。一人ならず全ての人間を裏切って、たったひとつのどうしようもない世界への反抗心のために。
 ――そこに打算だけではない衝動が混じっているのだということにも、ゼロスは見て見ぬふりをする。心からの怒りを覚えさせられたこと、それ自体を認めたくなかった。けれど、否定すればするほど事実だけがその身に迫る。やり場の無い感情と、先行きの見えない現状に、ゼロスは内心狼狽する。――どうすればいい。
「ゼロス……?」
 弱々しい響きで口にされる名前には、戸惑いと、心なしか叱咤が混じっているようだった。私のことなんて、いいのに。そう言いたげな瞳に気付かぬふりをして、ゼロスはコレットに視線を合わせる。
「大丈夫か、コレット?」
「……うん、……ちょっとだけ……楽に……」
 この期に及んで力なく笑うコレットに、ゼロスは言い知れない怒りとやり切れなさを覚える。大丈夫なはずが無いだろう、と。自身の問いと矛盾した言葉をぶつけたくなってしまう。いつだって全ての痛みを飲み込んで、他人のためにと笑って見せる。その強さがどうしようもなく羨ましくて――その弱さが、どうしようもなく疎ましかった。
「あ、れ……?」
 焦燥に駆られるゼロスの傍らで、コレットが疑問めいた声を上げる。
「……どうした?」
「ん、と……なんか、変な、感じ……」
 苦しみの中に生まれた違和感に気付いて、コレットは縋るようにゼロスを見やった。とても、強く呼び掛けられているかのような。あたたかい光と、冷ややかな風がせめぎ合って、何かをさらって行くかのような。傍らの存在に、似て非なる彼に、ひどく惹かれる。色めいた好意の類とは違う。もっと単純で、けれどとても複雑な、衝動。
「ゼロス、手を……」
「え?」
「お願い、手を、重ねて……」
「手を……?」
 半ば何かに突き動かされるかのように、コレットは力無い腕を懸命に伸ばし、ゼロスの目の前へと差し出した。理由は、分からない。そうしなければいけないような気がする。しいて表現するのなら、ただそれだけのことだった。
 コレットの言葉に戸惑いながら、ゼロスは言われるがままにその手を重ねる。――瞬間、あたたかな光が二人を纏った。
「光……?」
 コレットが驚きに声を上げれば、傍らのゼロスは事を理解したようなふうをして、神妙な様子でそれを見やった。――その様は美しさに見惚れているようにも、はたまた失意に苛まれているようにも見て取れる。ひどく曖昧なその色合いに、コレットも事情を察して切なげに視線を流した。
 そこからしばしの静寂。お互いが黙り込んでしまえば、ただ重ね合わせた手のひらから柔らかな光が広がって、激しく、けれど優しく二人の身体を包み込んでいく。おそらく感覚を共有しているのだろう。言い表し難い感情が、今は手に取るように分かる。美しさを美しさと受け入れたい純粋さも、この風景を生み出してしまったその切なさも、それに救われるしか術の無い無力さも。これを奇跡と呼ぶのなら、なんと穏やかで、なんと残酷な奇跡なのだろう。
 時にしてほんの数秒。全てが癒されていくかのような尊い黄金色のそれは、やがて散り散りの光の粒となって、おぼろげに幻想の世界へと消えて行った。
「あ……」
 つかの間の出来事が止んで、コレットは変化に気付く。見違えるように身体が楽だ。まるで毒に侵されていたことすら嘘であったかのように、これまでの疲労ごと全てが立ち消えてしまったように思える。
 けれど――。いったい何が起こったのだろう、と。それを問うことすら出来はしない。だって、理由を知ってしまっている。この広い世界の中で、たった二人に起こし得る奇跡。
「……共鳴、か」
「うん。……前にも、あったね?」
「……ああ、そうだな」
 ゼロスの言葉に疑問無く答えて、コレットはいつか告げられた一言を思い出す。――天使とそれに準ずる者が持つ防御反応。神子であるゼロスとコレットには、未知のものを受け入れざる力が備わっているようだった。自分に圧倒的な不利をもたらすと判断すれば、理性が望むと望まざるとにかかわらず、本能が強制的に異質のものを浄化する。おかげで天使は病にはめっぽう強く、基本的に人間が軽微に感染するような類の症状を訴えることはほとんど無い。
 とはいえ、いくら高等な性質が備わっていようと、やはり処理量には限界がある。致死性の高いウイルスであったり、あまりにも多量の毒物を取り込んでしまえば、いくら天使とはいえどうにもならない。――その限界を取り払ってしまうのが、今の能力だ。唯一等しく在り続ける存在が――天使の中でも特に資質を持った特別な二人が、共鳴し合ってその身を守る。いつの時も不当な理由で二人の神子が失われてしまうことの無いように、どちらか一方がクルシスの望んだ結末を導くまで、極力その命を絶やさぬシステム。この性質さえあれば、二人が出逢えた段階で、残る懸念事項は外傷による死だけだ。それによって神子が命を落とすのなら、その器はそれまでだ、と。それさえもおそらく、クルシスが神子を判断するにあたって一役買っているのだろう。
「……私でも、こうなるんだね。やっぱり……」
 以前にも一度だけ、今と似通った状況に陥ったことがある。コレットは思い返して、失意混じりに自嘲した。



 あの時傷ついたのはコレットではなく、彼女を庇ったゼロスの方だった。人里離れた森の中での出来事。食材調達の関係上、たまたま二人で行動していた時に、物陰からコレットを狙う暗殺者が毒矢を放ったのだ。それに間一髪気付いたゼロスがコレットの前に身を投げ出し、結果毒矢はゼロスに牙を剥く。
 傷自体はさして深くは無かったものの、毒の巡りは随分早く、持ち合わせの薬品では到底治癒し切れるような状態ではなかった。さらに悪いことにあの時は遠出をしていて、他の仲間たちを呼べるような状況にすら無かったのだ。他の仲間たちを村へと残し、彼らが所要を済ませている間に二人で食材を調達して来るという算段だったのだが、おそらくその時から目を付けられていたのだろう。
 幸い暗殺者が単身だったこともあり、コレットが追い払いはしたけれど、それきり打つ手もなく立ち往生。今にも泣き出しそうな瞳で見つめるコレットの目元に、ゼロスはそっと右手を伸ばす。不思議と、死に向かうことへの抵抗感は無かった。――散々しがみついて、こんなにあっさり終わるのか。それを思えば、いっそ笑えるような気さえした。
『ゼロス……っ!』
 激情に駆られて大声で叫ぶコレットの頬に、ぽたり、と涙のしずくが落ちる。ゼロスはそれに苦しそうな瞳でそっと笑って、流れる涙を優しく拭った。
『泣くな、って……ほら……せっかくの、美人が、台無し……』
『でも……!私が、私が気付かなかったから……っ』
『そういう、のは……言いっこなし、だって……』
 ああ、最期まで卑怯なままだ。思って、ゼロスは力無いまま息を吐く。こうして自己満足で助けてみせて、消えることの無い罪悪感で彼女を染め上げたまま、奇妙な達成感に身を委ねて自分は逝く。お似合いの最期だ。自分は綺麗なふりをして、誰かをどうしようもなく傷つけることしか出来ずに、救ったふりをして、結局何一つを救えない。命を救ったところで何の意味も無い。今ここで生かしたからといって、彼女は傷つき続けるだろう。それを選択したのは、格好を付けていたいだけの自分自身だ。
 ――それでも。この身が朽ちれば、裏切りの罪も、それに縋るしかない弱さも、全てが露見し、自分は正しく疎まれてくれるだろう。真っ直ぐに向けられるあの信頼もきっと悔しさと怒りに歪んで、今以上に彼女を――コレットを守ろうとしてくれる。もう二度と大切なものに余計な重荷を背負わせはしまいと、必死になってくれるだろう。
『やだ、やだよ、ゼロス……』
『ま、こんなもん、だって……』
 どんなに醜くもがいたところで、人間死ぬ時は死ぬ。だからコレットちゃんが気にすることないって。途切れ途切れにそんな意味合いのことを口にして、ゼロスは冗談めかしてこう言った。
『けど、俺さまに関しちゃ……当然の報いって、やつ?……ロイドが、好きそうな言葉、だろ……』
 正義が嫌いと言いながら、誰よりも自分の言葉を信じて突き進んで行く。誰かが理不尽に傷付けられることを嫌い、それを守るためなら何かを捨てる覚悟を決められる。たとえ信じていた人間に裏切られようと、どうしようもない摂理を突き付けられようと、揺らがない。どうにかならないものだってどうにかしてみせるだけの気概がある、呆れるほどに一直線な人間。
『けど、ロイドなら……ロイドなら、きっと怒るよ?諦めちゃ駄目だ、って……』
『かも、なぁ。ロイドの、奴……無茶、ばっか……』
 切り捨てる強さを身に付けた代わりに、手のひらに収まる部分は全て守り切ろうとする。真実なんて知らないままに、きっとロイドは怒るだろう。ゼロスはふと考える。――たとえばそこで、こう突き付けたらどう答えるのだろう。「俺が庇わなければ、死んでいたのはコレットの方だった」と。見慣れたあの悔しそうな表情を浮かべて、叱ってくれるだろうか。それとも、言葉も無く黙り込んでしまうだろうか。
 ロイドが今、こうして旅をする理由はコレットにある。たったそれだけで、ロイドがコレットを特別視する理由に十分足りる。ロイドにとってこの旅は、コレットを守れなければ何の意味も無いものなのだ。それならば、優先順位を付けて諦めてくれるだろうか。どうせ、コレットを咎めることなどしないのだろうから。
『やっぱり、だめだよ……』
『ん……?』
『死なせない。……絶対、死なせたり、しないから……』
 ゼロスがおぼろげな思考に囚われていると、コレットが涙ながらに強く言って、ゼロスの翡翠に視線を合わせる。――駄目だ、もう遅い。そう、思ったのだけれど。
『っ……、何……?』
 いい加減限界が近づいて来た頃、ふとゼロスの中に違和感が生まれる。死に向かう苦しみとはまた違う、突き動かされるような強い衝動。魂に直接訴えかけられているかのようなその響きは、まるで自分の身体が死に抗っているかのようだった。
『どしたの……?』
 異変に気付いたのだろう。ややあって、コレットもゼロスに疑問を投げ掛ける。失うかもしれない恐怖に震えを止められないままで、「苦しいの……?だいじょぶ?」と、悲愴な瞳で一言だけを呟いた。
『この、感じ……どこ、から……』
 何かに引き寄せられているかのような、拒絶しようの無い感覚。手を伸ばせ、と何かが囁く。ひどく危機感を煽られる。きっとそうしなければならないのだと思わされてしまうほど、それは鋭利な命令だった。
『コレット……?』
『え……?』
 呼び掛けられたコレットは戸惑って、どうすれば良いかが分からずにただ不安げなままで居る。傍らのゼロスはそんなコレットへゆるゆると手を伸ばしてから、「ああ、そういうこと……」とだけ寂しげに言った。
『おちおち、死なせても……くれや、しないって……こと、かよ……』
『ゼロス……?』
『悪い。ちっとだけ……力、借りるぜ……』
 言って、ゼロスはコレットの手のひらに優しく触れる。このまま何も起こさずにいれば、きっと心穏やかに死んでいける。そう思いはすれど、衝動がどうしてもそれを許してくれそうになかった。半ば本能のようなものなのだろう。生きたいと願っても、死にたいと願っても、結局いつまでだって縛られる。これほど嫌っているのに一方的に付き纏って来るだなんて、とんだ冗談もあるものだ。
 ゼロスが手のひらを重ね合わせれば、視界が光に包まれて、やわらかなあたたかさに満たされる。――覚悟していた通りだ。ひとしきり光が降りしきる頃にはもう、苦しさはすっかりと抜け落ちてしまっていた。

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