Cryolite-7-

 周囲に注意を払いつつ、二人は一本道を歩く。先から同じような部屋ばかりで、進めども進めども、今ひとつ達成感の無い時間が続いていた。
「出口、見つからないね」
「ったく、どうなってんだか……」
 あれから姿の見えない声は聞こえず、これと言ってそれらしい手がかりは見つからない。やや時が経ってきたこともあり、先ほどの衝撃は薄れつつあった。――というより、意図的に忘れようとしているのかもしれない。ひとまず優先すべきことに身を投げてしまえば、それほど思い詰めずに済んだ。ともかく、今はここから出ることこそ先決だ。余計なことを考えるのは、それからでも遅くはない。
「ゼロスもあの声、聞いた?」
 歩きつつ、何気なくコレットが尋ねる。結局、あの声の正体は分からないままだ。悪意に満ちているというふうでもないのに、どこか窺い知れない薄ら寒さを醸し出す、声。
「知りたいだけ、とか何とか言ってたな。あいつ、本当に魔物なのか?」
「うん……たぶん、魔物だと思う。さっきも、ずっとそんな感じはしてたから……」
 コレットが困ったように頷けば、「何だかな……」と鬱陶しげにゼロスが吐息する。探し出して撃退しようにも、姿が見えないのでは話にならない。
「ロイド達、心配してるかな。突然居なくなったりして……」
「どうだかな。大体、どんだけ時間が経ってるかも分かんねぇってのに」
 体感的に言えば、此処へ入ってからはもう相当長い時間が経っているように思えた。過去を経由させられた所為もあるのだろうが、短時間で処理しきるにはここまでに得た情報量が多すぎる。
 そもそもの前提として、この場所に時間の概念があるのかどうかすら定かではない。もしもこの空間が時の止まった空間だったなら、外側の人間には何一つ伝わることが無いまま、現在此処に閉じ込められているということにもなりかねない。
「途中で行き倒れたらどうなるのかねぇ、俺達」
「うーん……案外入り口に戻るかもよ?」
「……コレットちゃん、それ本気で言ってる?」
「あ、えーっと……もしかしたらそんなこともあるかなーって、エヘヘ……」
 至って和やかな調子でとぼけてみせるコレットに、ゼロスは盛大に呆れたふうをして肩を落とした。
 ――反対に、もしもこの場所が外界と時間を共有しているとして、だ。そうなれば、おそらくあのお人好し集団は必死になってこちらの行方を捜してくれるだろう。けれどそれは、果たして二人を捜すためのものなのだろうか。それを思うと、ゼロスは苛立ちにも似た落ち着かなさに囚われた。
 突如姿を消したとなれば、彼らはおそらくコレットを捜すだろう。それはおそらくコレットが「神子」だからではなく、ただ一人の仲間として、純粋にその身を案じての行動だ。それでは、自分に対してはどうだろうか。案じられるどころか、疑われやしないだろうか。それでなくとも一定の距離を心掛け、近付き過ぎないようにと接してきた裏切り者だ。少なくともあの警戒を絶やさぬ美人教師は確実に最悪の状況を想定して掛かるだろうし、たとえ疑いが晴れたとしても、この先監視の目が厳しくなるだろうことは確実だ。弟の方も姉に似てかなり疑い深い。他人を疑って生きる理由がある人間は侮れない。――ましてやハーフエルフだ、と。そう思ってしまうこの心根がどれほど愚かだと分かっていても、今更そこから身動きが取れない。
「ま、今頃血眼になって捜してくれてんじゃないの。ハニーはお人好しだからな〜」
 極力日頃の調子を保って言えば、「そうかな」とコレットは控えめに少し笑う。
 本当に、重要な事実には何一つ気が付かないくせに、どうでもいいことにばかり目ざとく気付く。思って、ゼロスは言い難い感情に襲われる。ロイドのことだ。大切なものが何かをきっちりと把握している分、一度敵と判断した人間には案外と割り切って接することも多い。――もしもこの裏切りがバレたなら、すぐにでも剣を向けられてしまうだろうか。全てを真っ直ぐなあの瞳に委ねるのなら、それもまた悪くはないと思えた。本人はひどく正義を嫌うが、この身を裁こうとするのなら、それに値するだけの道理はきっと持っている。――けれど同時に少しだけ、背負わせたくないなとも、思った。
「……誰も」
「ん?」
 そこで、コレットがふいに小さく言葉を投げる。凛としたふうの横顔に、今ひとつ感情が読み取れない。
「誰も私に気付いてくれなくなった世界は、どんなに寂しいんだろう」
 今みたいな世界に、ゼロスも居なくて。それが当たり前になるのが、天使になるってことだとしたら。ゆっくりと言って、コレットは悲しげに微笑む。
「……きっと、苦しいね。すごく……」
 今更になって、孤独に置き去られる恐怖を思い知る。全てを見渡しながら、何一つに認識されない世界は、どれほど切なくやり切れないものなのだろう。それを受け入れようとすることが出来ていたかつての自分に、少しの愚かさと尊敬を覚える。一度恐怖してしまったら、もう二度とは受け入れられない。もう一度あの祭壇に立って、誰かのために決意をしても、きっと上手くは笑えない。きっと上手く、さよならを言えない。――たとえそれがどれほど独りよがりで、罪深いことなのだとしても。
「だったら、それを拒めばいい。……許されんだろ、そのくらい」
「うん。……そう、だね……」
 無意味だと知って、ゼロスはなおも投げ掛ける。拒絶出来るなら、拒絶すればいい。まだ引き返せることに怯えるほど、己を弱くさせる行為も無いのだから。



 平坦な道をやや行くと、不穏な気配に行き着いた。記憶に新しい岐路は、これから起こるであろう波乱を予感させる。当然ながら、今更引き返す道も無い。決意するしかないとコレットが拳を握れば、力が入らず少し震えた。
「知りたがりさんお待ちかね、ってか?……どっち行くよ、コレットちゃん」
「右。……今度は、右に行きたい」
「んじゃ、俺さまもそれに従うとしますかね」
 どうせどっちへ行ってもロクなことにはなりそうにないしな。内心だけでそう思って、ゼロスはコレットの後へと続く。覚えのある通路を通れば、予想通りに空間が歪んだ。――各々が身構える。
「ねえ、生まれてきたことは、幸せだった?」
 突然響いたその声は、直接語りかけるかのように心の奥を突き抜けて行く。気付けばすっかり空間は隔絶されて、コレットはその場に自分一人が残されていることを理解する。正確には引き離されてしまったように見えるだけなのだろう。それでもゼロスの声は聞こえはしないし、姿だってどこにも見えない。
 コレットに問い掛けた見えざる声は、一度目に触れた時よりどこか悪意めいたふうをしていた。まるで悪戯を学んだばかりの子供のような、ひどく澄んだその音は、相変わらずの居心地の悪さを感じさせる。
「生まれてきたこと……?」
 問われた言葉をそのままコレットが反芻すれば、声は「そう、君が生まれてきたこと」とだけ言って、コレットの答えを待っている。あまりにも漠然としたその問い掛けに、コレットは答えきれずに押し黙った。
「私が、生まれてきたこと……」
 ぽつりとそう呟けば、不安が波紋のように胸に広がる。上手く答えをまとめられないまま、静寂。
「ねえ、こうは思わなかった?」
「うん……?」
「君が君として生まれなければ、もっと素敵な神子が生まれたって、そう思わなかった?」
「え……」
 答えが返らないことにつまらなさを覚えたのだろうか。声は追撃を試みて、コレットに無情な一言を突き付ける。その一文に思考を支配され、コレットは痛ましげに視線を流した。
 ――自分が神子として生まれていなければ。それは、今までにも何度か考えて来たことだった。イセリアで言われた言葉。自分を神子の座から降ろし、親類の誰かにその役目を継がせるべきなのではないだろうかと。そんなことを言わせてしまうほど頼りのない自分は、きっと本当に神子には向いていないのだろう。努力だけでは決して報われないものがあるのだということを、あの時の言葉で思い知らされた。
 きっとこの手でシルヴァラントを救うのだ、と。たったそれだけを胸にここまで生きてきた自分が、それを果たすに値しないと言うのなら。それならば、何故神様は無力な人間を神子になどしたのだろう。もっと強くて何物にも負けない人間を神子としてこの世に遣わしてさえくれたなら、あの村の誰をも不安になどさせたりはしなかったのだろうに。
「……そうだね。自分でも分かってるんだ。私が、とても弱い人間なんだってこと」
「でも、ずるいって思わないの?君はそうやって逃げたかっただけじゃないの?」
 誰かのためって思いながら、君は君自身が神子で居たくなかっただけなんだ。そんなことを面白そうに話すその声に、コレットは押し潰されそうな感覚を覚える。言葉を交わしているのは確かにその存在には違いないのに、まるで自分自身が語りかけて来るかのような、それは逃れようの無い問い掛けだった。
「……うん、そうかもしれない。……私が、もっと強くなれれば良かったの。……それが出来なかったせいで、私はたくさんの人を巻き込んだ」
 天使の真実を知った今でも、後悔していることがある。誰よりも幸せにと願ったロイドのことを、独りよがりに巻き込んでしまった。――きっと、本当は断るべきだった。ロイドは優しすぎるから、何も言わずにいれば助けてくれることなんて分かりきってる。それなのに、久しぶりに顔を見たら、付いて来ないでとは言えなくなってしまった。ロイドの意思を尊重するようなふりをして、きっと私が嬉しかっただけ。離れてしまうのが寂しかっただけ。
 ロイドが私を助けてくれようとするそのたびに、私はどうしようもなく罪悪感を抱いてしまう。だって、自分一人の苦しさで終わるはずだったこの旅で、ロイドをたくさん苦しめた。大丈夫だと笑って見せるその裏側で、悩み続けていることを私は知ってる。初めて人を殺めたその日、ロイドの手は震えていた。とても優しいその手が、血に染まる必要の無かったその手のひらが。
「ロイドが剣を振るった理由は、私だから。……エクスフィアで苦しむ人を救うためとか、クルシスのことがあるからとか、ロイドはたくさん優しい理由をくれるけど。だけどね、きっと、本当はそうじゃない」
 どうしようもないこの弱さは、すぐにロイドを傷つけてしまう。私が立てなくならないようにと、一緒に傷つこうとしてくれる。
「私ね、すごく幸せだよ。たくさんの人が支えてくれて、大切な人がすぐ傍に居て……」
 ――だけど、みんなにとって、私が生まれたことは幸せじゃなかったのかもしれない。
「……あなたの言うとおりなのかもしれないね」
そう言って、コレットはどこか諦め混じりに笑う。それでも、どうしようもない。神子であることを変えられない以上、苦しいと嘆けば嘆くほど、きっと誰かを傷つける。そんなことをするくらいなら、痛みには目を瞑って、悲しみには蓋をして――弱さを背負って生きていく方がずっと良いのだろう。



 コレットの姿が見えなくなってすぐ、ゼロスはやがて降りかかるであろう声に身構える。一度目に比べれば、いくらか気楽にその時を待てた。どうせ、あれ以上に凄惨な記憶など存在しないのだ。疎まれ続けた記憶も、裏切りを重ねた記憶も、全てがあの瞬間には叶わない。
 呪いの言葉を投げつけられた無知な少年の記憶は、それほどにゼロスの心の奥底にわだかまりを残し、今なお消えずに積もり続ける。――それもおそらく、当人すら気付かぬほどの冷たさで。
「ねえ、君はどうして生まれてきたの?」
 そうして、ゼロスは見えざる声に一言目を掛けられる。構えていながら驚いてしまったのは、それが予想外の問い掛けだったからなのか、それとも恐れていた問い掛けだったからなのか。どちらにせよ不快感に満ちた表情で、ゼロスは意味が分からないといったふうに問い返した。
「……何が言いたい」
「だって、君はいらないはずなの。君は君がいなければって、そう思ったことはないの?」
 答えているのかいないのか、ひどく曖昧な線上で、その存在は無粋に言い放つ。無邪気さが毒のように言葉を巡り、ちくりと胸を刺すようなその響きは、ゼロスの余裕をいとも簡単に打ち壊しに掛かる。
「要らない、ねぇ……」
 そう一言だけ言って、ゼロスは思う。――神子が、自分が居なければ。そんなことは今更言われるまでもなく、もう飽きるほどに考えた。マナに満ち溢れ、繁栄したテセアラに神子の存在は不必要。そんなことくらい、少し考えれば嫌でも分かる。シルヴァラントが存在することすら知らない人間の多いこのテセアラにおいて、神子が所詮古くからの慣習でしかないことだって、今更重々承知の上だ。それらしく繕われたお飾りとして、テセアラの繁栄の象徴として存在さえすればそれで良い。――それしか出来ない、と言ってもいい。そのためだけにこの身は豪奢な邸宅を与えられ、奔放な生活を許され、明るく振舞うことだけをただ強いられる。
 それでは、自分が存在しなければこの世界はどうなるだろうか。おそらく、どうにだってなりはしない。一度繁栄した世界から神子が消えたからと言って、世界が滅びるわけでもなければ、政治が滞るわけでもない。もしもシルヴァラントとマナの流れが逆転し、再び大地が荒廃した時には、それに応じて新たな神子が生まれることだろう。別にそれが「自分」でなくとも何の問題も無いことなんて、今更、分かり過ぎるくらいに分かりきっていることだった。
「そりゃまあ、必要無いのは事実だな。わざわざ否定するようなことでもねぇだろ」
「じゃあ、君はそれでも、君がいた方がいいって思うの?」
「あのなぁ……」
「ねえ、知りたいんだ。必要が無いのなら、君はどうして生まれてきたの?」
 なおも問うことを止めない声は、ゼロスにしかと突き付け続ける。この世に生を受けた意味。――意味など、おそらく無いのだろう。そもそも最初から、望まれた命などではなかった。望まれないまま生まれ、無知なまま生きたことそれ自体が、絶望の果てに二つ、あるいは三つの命を奪ったのだ。果たしてそれがこの世界に一体何を生んだというのだろう。――何も生んでなどいない。ただ愛しく思う人間を手ずから絶望の底に叩き落とし、生きることすら諦めさせてしまっただけだ。どれほど尊い神子の名を受け継いだからと言って、何も生み出さず偽りの笑みを湛えて生きるだけの存在が、この世界に繋ぎ止められるに足る意味など持っているはずも無い。
「さあな。意味なんて無いんだろ。……居なきゃ居ないで構わない程度の存在、ってヤツ」
「なら、意味を求めない人を、怖がるのはどうしてなの?」
「は?」
「君を信じると言う人を、信じないのはどうしてなの?」
「……あいつのこと、言ってんのか」
 続けられた言葉に、ゼロスは一人の少年に思い至る。「変なの」。声は無邪気にそう言って、ゼロスの前から姿を消した。

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