Cryolite-6-

 気まずい静寂に包まれて、互いにしばし無言になる。どれほどのやり取りが筒抜けになっていたのか検討も付かないが、話題を切り出しにくいことだけは確かだった。どうして雪が怖いのか、と。そう突きつけられたゼロスは、これまでに見たことのない切羽詰まった表情をしていた。話したくないのなら、そのことについて追究するつもりはもちろんない。けれど、それ以外にもひとつだけ、垣間見てしまった記憶があった。シルヴァラントの神子である以上、決して経験することの無い恐怖。その痛みを見過ごしてしまうには、コレットもまた揺れ過ぎていた。
「……ゼロス」
 真剣な眼差しで、遠慮を残した表情で、コレットはゼロスに向き合う。「……どした?」そうやや皮肉っぽく笑んだゼロスに、コレットは悲哀を交えて投げ掛けた。
「……命を狙われることは、苦しい?」
 シルヴァラントにおいて、神子は救いをもたらす存在だ。最終的に死と同じ結末を求められたとしても、それは世界に不必要な存在だからではない。再生の旅で天使になることは、必要な死であり名誉な死だと認識される。もちろんシルヴァラントの全員がそれを知っているわけではないけれど、真実を知って送り出す人々も、神子をぞんざいに扱うようなことはしなかった。
「なーに、俺さまが華麗に活躍するシーンでも見ちゃった?」
「えと、あの……」
「……別に、何とも思わねぇよ。あんなの、慣れたもんだしな」
 そう、本当に日常茶飯事だ。思って、ゼロスは内心だけで吐息する。自分の命を狙ってくる人間を、誰のためでもなく追い払って生きて行く。神子が居てどうなるものでもないこの世界で、ただ、自分の身を守るためだけに、時に血に塗れることさえも厭わずに。どれだけ神聖な存在だと賞賛されて生きたところで、所詮実情はこんなもの。それでも笑顔の裏で始末の計画を立てる輩に、素直に殺されてやることさえ出来はしない。
「なあ、コレットちゃん」
 言ってから、ゼロスはほんの一瞬躊躇いを見せる。あの雪にまつわる話を、今まで伝えたことは一度も無かった。けれど今話さなければ、何かが壊れてしまうような気がした。おそらく想像以上に参っているのだろう。最後、裏切りを突きつけられたことが効いているのか。――馬鹿らしい。今だって結局、自分を守るためだけに誰かを裏切り続けているだけではないか。利己的でしかないそれを苦しがるなんて、厚かましいにも程がある。
「雪が怖いって話。……笑うか?」
「なんで、笑わないよ。……誰にだって、怖いものはたくさんあるもの」
 私にだって。そう続けたコレットはひどく真剣な顔をして、ゼロスの言葉に耳を傾ける。自分だってあの無神経な声に相当参っているのだろうに、誰かを優先しようとするそのお人好しさは行き過ぎだ。そう思いはすれど、それを伝えることも出来はしない。
 コレットが世話を焼こうとすることも、自分を守ろうとしている行動のひとつなのだと分かってしまう。だからこそ、それがコレットの重荷を増やすと分かっていても、伝える以外の選択肢を持つことすら許されない。たとえ、それでゼロス自身が痛みを増す結果になってしまうのだとしても。
「……昔、メルトキオに一人の少年が居ました。彼はメルトキオの神童と呼ばれ、とても頭の良い少年でした」
 昔話めいた口調で、ゼロスは言葉を紡ぎ始める。何でもないふうを装ったそれは、それでもひどく切なさをはらんで、透明な部屋にそっと響いた。
「彼はとても大切に育てられ、何一つ不自由のない毎日を送りました。父は居ませんでしたが、母がいつも笑顔で少年の話を聞いてくれたので、寂しくはありませんでした。家の召使い達もみな優しく、少年は自分の幸せを疑うことはありませんでした」
 けれど、そんな穏やかな日々は長くは続かないものなのです。言って、ゼロスは続ける。
「ある日、少年はメルトキオに降る雪にはしゃぎ、微笑むばかりの母を庭先に連れ出しました。日ごろ一緒に過ごす機会の少ない母と、少年は少しでも長い時間を過ごしたかったのです。……ですが、それが全ての間違いでした」
 言って、ゼロスは言葉を切った。「もう止めて」と、それすら言い出せぬまま、コレットはゼロスの言葉を受け止める。
「……さて問題。その後、どうなったと思う?」
「え……」
 ふと語り口調を収めて、ゼロスは問いを投げ掛ける。これ以上を他人事のように語る勇気が、ゼロスには無かったのかもしれない。あるいは自分の言葉で全てを語ることで、それを罪にし続けていたいのかもしれない。
 いつだってあと一歩のところで、良心にも似た狡さが顔を出す。それを忘れずにいることで、罪を忘れてはいないのだと、そう思い続けたいだけなのだ。自分は贖罪の意志を持ち続けているのだと。母親の憎しみを受け止め続けているのだと。現実は逃避のために何もかもを裏切っているというのに、自分を騙すことにさえ、慣れきって心が鈍ってしまった。
「……答えは簡単だ。母親が、俺を庇って死んだ。犯人はセレスの母親。……だから、あいつは今も修道院に居る。本人は何も知らされないまま、な」
「……そんなのって」
「お笑いだろ?終いにはずっと愛されてると思ってた母親に「お前なんか生まなければ良かった」なんて言われちまうオマケ付きだ。なら何で庇ったりするんだっつー話。ホント、どうしようも――」
「ゼロス!……もう、やめて。……もう、いいから……」
 泣きそうな声音でコレットがゼロスの言葉を遮れば、ゼロスはそれきり押し黙る。座り込んだまま、コレットが包み込むようにゼロスにそっと身を寄せた。縋るように、縋らせるように。お互いやり切れずに視線を逸らせば、しばしの静寂。
「……ゼロスは、強いね?」
「おいおい、止めてくれ。……強いとか弱いとか、そういうんじゃねぇよ。……こういうのは」
 話せば話すだけコレットが苦しむことを分かっていながら、話さなければ居られなくなってしまった。こんなどうしようもない告白は、弱さの証明でしかない。思いながら、ゼロスは自嘲する。ひとつ痛みをさらけ出すたびに、コレットはそれを自分の重荷にしてしまう。それをすることで自分の意義を保とうとする、その感覚は嫌でも分かった。ただ方法が違うだけだ。求めるところはいつも同じなのだろう。――けれど、やっぱり違いすぎる。コレットはただひたすらに純粋だ。他人を蹴落としてでも目を逸らすことに懸命な自分と、自分を犠牲にして誰かを救おうとする彼女とでは、何もかもが違いすぎるとゼロスには思えた。
 傍らのコレットは、ゼロスの告白に返す言葉を見つけられないままで居た。きっと、ゼロスは優しさを求めているわけではないのだろう。その気持ちは痛いほどに分かる。親身な優しさが人を傷つけることもあるのだということを、きっとお互いが知りすぎてしまっている。
 二人がひどく似通っていることを、二人ともが気が付いている。身を寄せ合えば手に取るように分かる痛みを、だからこそ消し去ってやることは叶わない。どれほど慰めの言葉を掛け合えど、それが解決になりはしないことを知っているのだ。
「何でだろうね。こういう時、だいじょぶだよって、言ってあげられたらいいのに……」
「……そういうの、俺が信じないって分かってるからだろ、コレットちゃんは」
「……うん、そうなのかもしれない……」
 必要以上に誰かを気遣うことしか持ち合わせていないのに、優しさを拒絶されてしまったら、それ以上出来ることなんて無くなってしまう。コレットは無力感に瞳を閉じて、それからゆっくりと瞬いた。いざというときに何も出来ない。誰かを救うために生まれてきたはずなのに、目の前で傷ついて行くたったひとりさえ救えない。
「……でも、分かるの。ゼロスが苦しんでることも、傷ついてることも……」
 こうして少し言葉を重ねるだけでも、痛いほどに分かる。同じだからこそ、癒されながら、また少しずつ壊れて行く。たぶん、他の誰一人にさえ伝わることの無い奇妙な感覚。自分は独りではないのだと。きっと同じなのだろうと。
 取り残されることに慣れてしまったからこそ、狂おしいほどに求めた安堵感に満たされもする。けれど、それでもやっぱり異なっているのだと。自分には無い相手の尊さに、突き付けられる劣等感に苛まれもする。
「……イセリアに、居たときにね」
 ぽつり、コレットが語りだす。いつかの日のあの記憶を、ゼロスは見ていたのだろうか。無言のまま注意を向けられたことを気取って、コレットは続けた。
「イセリアのみんなは、すごく優しかった。大人の人に会うと、大変な役目なのにいつも頑張ってて偉いねって、私のこと褒めてくれるんだ。……でも、知ってたの。私、昔からドジばっかり踏んでたから。みんなが私のこと、神子にはふさわしくないんじゃないかって、そう思ってること」
 陰で資質を問われることには、もう慣れっこだった。さっき見せられた記憶の中の言葉だって、あれが初めてだったわけじゃない。
 旅立つ日が近づくにつれて、村の人々の不安は募っていった。だんだんと住みにくくなって行く世界の中で、きっと焦っていたのだろうと思う。昔は「成長すれば自覚が出て立派になってくれるはずだから」と、そう楽観視していた村人までも、時が経つにつれ、コレットの穏やかな性格に疑問を呈した。
「私が世界を救えないって、そう思われてることは悲しかった。でも、そう言われちゃう弱い自分が、もっと嫌だった。なんでもっとしっかり出来ないんだろうって、そう思うばっかりで……」
「……それは、村の奴らが自分勝手に騒いでるだけだろ。損な役回り押し付けといて、よく言うぜ……」
 悔しそうにゼロスは言って、寄り掛かられたままのコレットをちらりと見やって視線を外す。コレットがたったそれだけで片付けられるような感情を抱いていないことなんて、嫌になるくらいに分かっている。それでも、言葉にせずには居られなかった。
「初めてリフィル先生に天使になることの意味を聞かされた時にね、私、怖くなった。シルヴァラントを救えるなら私はそれで幸せだって、私、ずっとそう思ってた。……待ち受けてるのがどんなにつらい旅でもだいじょぶだって、ちゃんと思えてた。でも、世界を救うためには私は死ななきゃいけないんだって、そう思ったら……」
 思い浮かぶのは、いつも隣で笑い合った、たった一人の男の子。「神子なんて関係ない」と言ってくれたその言葉に、揺らいだ。初めて真っ向からぶつけられたその言葉は、あたたかかった。けれど、死に向かうしかないその身には、それ以上に苦しさを残した。
「……楽しかった時のこと、思い出すとね?考えちゃうんだ。なんで私が神子なんだろう、どうして私が死ななくちゃいけないんだろう。……私は神子でしかないから、死んでも誰も悲しんでくれないのかなって。そんなに悲しい終わり方しか出来ないなら、もう少しだけ自由に生きられたら良かったのにって」
 神子であることで、随分自由を縛られた。神子らしくなれるようにと、多くを求められもした。けれど、それは名誉だと教えられた。それを信じて生きてきた。いつだって、期待に応えようと一生懸命生きてきた。
「……わがまま、だよね。私が投げ出したりしたら、世界は救われないのに。そう思ったら、そんなちっぽけな自分が、もっと嫌いになるだけだった」
 誰かに悪意を抱くこと自体が、コレットにとってはこの上ない罪だった。誰かのために生きることが、そのことだけが、唯一正しいことだと教えられて生きてきたから。
「だからね?今でも時々思っちゃうんだ。再生の旅を投げ出したのは間違いだったんじゃないかって。私があのまま天使になっていれば、全部が上手く行って、それで……」
「……ロイドが聞いたら怒り出しそうなセリフだな」
「うん。……きっと、ロイドは怒ってくれる。だけどね、だめなの。……そう、思わずには居られないんだよ……」
 もちろん、それがただの思い込みなのだと分かってもいる。それでも、ふと無意識にそう思ってしまうことを止められない。――突然の真実を受け入れきれていないことだってもちろんある。けれど、それ以上に怖いのだ。世界を救うためだけに生きてきた自分が、信じてきた手段を捨て去って、自分の幸せを願おうとすることが。まるで全てを裏切っているかのような罪悪感に駆られて、上手く自分を肯定出来ない。
 言い切れば、傍らのゼロスも言葉も無いまま黙り込む。結局二人とも、幸せを求めることを良しとはしない。世界に対する罪悪感からか、はたまた個人に対する罪悪感からか。ひたすらに罪を抱えてしまおうとするその不器用さを、彼らはただ狡さであると思い込む。
「……そろそろ、行こっか?」
 無理に明るい声を作り上げて、コレットは場を仕切り直すかのように立ち上がる。今度は何を突きつけられるのだろう。予感めいたその疑問に、胸が張り裂けそうになる心地がした。

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