Cryolite-5-

「……何も起きないね?」
「ま、起きないに越したことはないけどな……ちょっと妙だ」
 やたらと長い通路を進みながら、奇妙なほどの静寂に晒される。まるで嵐の前の静けさのような、それは張り詰めた美しい静寂だった。通路はだんだんと鏡張りにも似た造りに変わり、それがいっそうの不安感を募らせる。
「出口、……まだ先なのかな?」
「どうだかな。まだ先のような気がするのは確かだな」
 ゼロスは言って、何とも言えない表情のままで周囲を見やった。この場所を一口に言ってしまうのなら、さながら終わりの見えない迷宮。特別な苛立ちは感じないが、焦りや潜在的な恐怖を煽られる。
 ただただ美しさを見せ付けられるあまり、言いようのない感情に囚われてしまいそうになる。歩き続けていなければ、暗闇よりもまだ危ういかもしれないと思わされてしまうほど。
 不安を打ち消すようにそれとなく話題を繋いで、やがて通路の終わりに差し掛かる。――瞬間、歪な形に世界が歪んだ。
「え……!?」
 これまでの世界がひしゃげて消えて、新たな空間が紡ぎ出される。
 ――次の瞬間現れたのは、コレットには見覚えのない、雪の降りしきる町だった。続けてどこからともなく聞こえてくるのは、大人とも子供ともつかないような、ひどく澄み渡って響く声。
「ねえ、どうして?」
 心に直接語りかけてくるようなその声は、言い知れない焦りをもたらした。突然のことに状況を飲み込めず、コレットはその場に立ち尽くす。
「ねえ、どうして雪が怖いの?」
「雪……?」
 そこでふとコレットがゼロスを見やれば、今まででも記憶に無いほど怯えた表情をして、すっかり青ざめているのが分かる。コレットのことがまるで視界に入っていないかのように、ゼロスは怒りと恐怖に支配されているようだった。
「……ゼロス?」
 問いかけられたゼロスは、隔絶された空間で在りし日の記憶を見せられていた。雪の降りしきる美しい町。メルトキオの豪奢な邸宅の庭先で、偽りの笑顔をくれる母。もう何度も夢に見た風景。
 戻らないこの過去の記憶に、ゼロスは不思議と後悔したことは無かった。唯一悔やむことがあるとするのなら、何故母が庇わぬままで自分を殺してしまってくれなかったのかと、それだけだ。どうせ必要とされていないのなら、彼女が死ぬ瞬間さえ呪いの言葉を吐くのなら、いっそ見過ごし殺してくれれば良かったのだ。そうすれば神子の座は自分の妹である彼女へと移り、母は自分に縛られた毎日から解放され、少なくともあの抑圧された日常よりはもう少し、まともな生き方が出来たのだろうに。
「何でだろうね?あの人が君を助けたのは、どうしてなの?」
「……知るかよ。そんなこと、こっちが聞きたいくらいだ」
 無邪気に問いかけてくる姿の見えない声に、強い震えを諌めきれないまま、苛立ちを交えながらゼロスは答える。
 秘匿されたあの事件の真実を知る周囲の人間が、決まってゼロスに言う言葉があった。「奥様は神子様を愛しておられたのです。ですから、身を挺してお助けになったのでしょう」と。ゼロスは未だかつて、誰一人に対して彼女にささやかれた言葉を伝えたことは無かった。それを誰かに伝えることで、死後においてまで彼女の地位を貶めることは憚られた。ただ大切な子息を、テセアラの神子を守った優秀な母として、その存在を認知させておきたかった。
 そうすることで、無意識に自分を守りたかったのかもしれない。――けれど、とゼロスは思う。あれは、おそらく復讐だったのだ。生きることに絶望し、体の良い死を瞬間的に選択してしまった母の、この上ない憎悪の呪い。愛してもいない人間との間の、愛してもいない子供に全てを捧げることを強いられた、全身全霊の拒絶の言葉。今もなお消えることなく心を蝕んでは、溶けて滲んでいくあの雪のような。
「こんなもの見せて、お前は何がしたい」
「僕は、知りたいだけ。それだけ」
「愉快犯かよ。性質が悪い……」
「ねえ、君が裏切るのは、どうしてなの?」
 姿の見えない声は、なおもゼロスに問い掛け続ける。致命的なその問いに、ゼロスは内心焦ってコレットを見やった。先ほどの雪に反応されたと思いきや、どうやらこちらは彼女に届いていないらしい。気付けば彼女もひどく上の空なふうをしている。
「あの子も、あの子も不思議。嫌いなものを、嫌いだって言わない」
 ねえ、どうしてなの。どうして君は裏切ったりするの。無邪気なふうに問いを続けるその存在に、ゼロスは窺い知れぬものを感じた。まるで自らを映す鏡のような、それは目を逸らすことを許さない、さながら強制的な自問にも似ていた。
 裏切ることに慣れたのは、もういつのことだったか分からない。それが唯一、このどうしようもない立場から逃れるための方法ならばと、手を出したのがそもそもの始まりだった。
 幼い頃から命を狙われ、疎まれ、仮初めの笑みにも嫌気が差した。ひとたび社交界に出席すれば、野心に溢れた貴族の本音を隠したご機嫌取り。町を歩けば「神子」に対する女子供の賞賛の嵐。この世界のどこへ行っても、「神子」の名から逃れることは叶わない。――それなのに、誰に望まれているわけでもない。その矛盾が、お飾りでしかない自分が、どうしようもなく疎ましかった。
「逃げたかったんだ?狡いって思わなかったんだ?」
 逃げたかったのかと聞かれれば、あえて否定する必要も無い。まさしくその通りなんだろう。あの腹違いの妹に神子の座を明け渡すことが出来るなら、すぐにでもそうしてやりたかった。けれど、そうしてしまえば間違いなくセレスは殺される。それを思えば、そう願うことさえも罪に思えた。
 繁栄したこの世界に神子は不要だ。神聖な存在だと持て囃される一方で、政治的な面では一部の貴族から忌避されている一面もある。裏の世界ではいつだって命を狙われる。そんな事情、国民はいちいち知りやしないが、それは確かな事実として存在する。セレスは幼い頃から身体が弱い。ひとたび命を狙われてしまえば、抵抗する術も無く殺されてしまうだろう。つまりはこの身が滅び、神子の位が彼女に譲渡された瞬間、彼女の運命もまた決まる。どこまで行っても神子の名から逃れられないことなんて、本当は分かりきっていることだった。
「に、しても……他人の過去覗くってのは、ちっと反則なんじゃねぇの」
 目まぐるしくちらつく映像は、どれも苦々しい記憶ばかりだ。どれもが過去に過ぎ去ってしまったこととはいえ、さすがに堪える。中でもあの善良な人間達を裏切り続ける映像だけは、ことさらに苦しさを覚えた。
「ねえ、その人たちのこと、君は好き?嫌い?」
「人の話聞けっての、ったく……」
 まるで聞く耳を持たないその存在に、ゼロスは諦めを交えて吐息する。――あいつらのことは、好き、というわけではないのだろう。かといって、嫌いでもない。ただ自分が自分に意味を見出すための、このどうしようもない裏切りの、あいつらは単なる犠牲者だ。それ以上でも以下でもないし、以上であっては決してならない。利己的な裏切りに身を委ねる人間にさえ、疑わず、身を案じ、時には本気で叱責したりする、ひどくお人好しな愚かな犠牲者。ゼロスにとって彼らはそんな存在だった。――否、そう在らなければならなかった。
「ああいう奴に限って早死にすんのよね。ホント、何考えてんだか……」
 手放しで誰かのことを信頼する人間を、ゼロスはことさらに拒んでしまう。他人を信じられなくなってしまったのだって、もうずっと昔の話だ。全ての人間が己を「神子」としてしか認識しない世界の中で、これまで誰一人、彼自身に手を差し伸べたものは居なかった。近しかったはずの母親すらも「神子」を呪って死を選び、父は「神子」の存在を受け入れないまま自害した。残った人間は誰もかれも、その地位に憧れ、羨み、時には妬みで「神子」を憎んだ。その中に誰一人、「彼」を憎んだものは居なかった。
「でも、でも、やっぱり怖い?」
「……何が」
「あの子はだあれ?なんだかね、一人だけ。ううん、二人だけ、違うひとがいる」
 女の子と、男の子。でも二人とも、君にとってはちょっと違うの。そう呟くように言ってから、「それじゃあ僕はあの子のところへ行くから」と、消え入るように正体不明の声は途絶えた。



 雪の降る風景にいくらか取り残されて、コレットは状況を飲み込めないままそこに居た。ゼロスの声が聞こえなくなってしまってから、ほんの少しの間。突然響いてきた声に、驚いてコレットは顔を上げる。
「ねえ、どうして?」
 聞こえてきたその声は、先ほどゼロスに問うた声と同じものだった。おそらくこの声の主が二人をこの場所に呼び出した当人なのだろう。ひどく純粋なそれは、この空間に連れ込まれたあの瞬間の悪意めいた感覚とは少し違う。思って、コレットは遠慮がちに尋ねた。
「あなたは、誰なの……?」
「僕は、知りたいだけ。ねえ、どうして君は世界が好きなの?」
 コレットの問い掛けに答えることもないまま、声はコレットにさらなる答えを要求する。そのうちぐるりと姿を変えた風景は、見覚えのあるイセリアのものだった。何のことは無い、住民が寄り合って世間話をしている平和な日常。けれどかつて目にしたその光景に、コレットはしばし黙り込む。
 シルヴァラントの神子には再生の旅を遂げる責任がある。これは神子として生まれて来た者の義務であり、名誉でもあるのだと。ならば、本当にあの子供にその覚悟はあるのだろうか。資質はあるのだろうか。平和主義を悪いとは言わないが、心優しいことと無力とは違う。これまでにも再生の旅は何度も失敗しているし、シルヴァラントは限界に達しつつある。もうこれ以上、無駄な失敗は許されない。彼女に任せるくらいなら、遠い地に居る親類を神子に仕立て上げることも考えるべきではないのか。彼らが話していることは、概ねそんなようなことだったと思う。
 これを聞いたのは、コレットの記憶によればそれ程昔の話ではない。この旅に出る何ヶ月か前のこと、たまたま物陰から聞いてしまった話。――泣いたりは、しなかった。当然のことだと思った。お世辞にもてきぱきと行動出来る方ではないし、神子であることを除けば特別な力があるわけでもない。ただただ普通の人間に、世界を任せるのは怖いだろうと思った。失敗すれば世界が滅びてしまうかもしれないほどの重責を、「神子だから」と任せて待つことだって、きっと勇気が要ることなんだろうと、そう思った。
「君は世界が好きなの?嫌いなの?」
「……私は、好きだよ。シルヴァラントも、テセアラも、どっちの世界も」
 シルヴァラントでの世界再生がテセアラに荒廃をもたらすのだと知ってしまったら、その道はもう選べない。どんなにたくさんの人が世界再生を投げ出した自分に失望してしまっても、目を瞑って自分の世界の幸せだけを願えない。だって、もう知ってしまった。テセアラに生きる人達が居て、心優しい人達が居て、一生懸命生きている人が居ること。一緒に戦ってくれる仲間も出来た。そんな世界を投げ出せない。
「どうして?嫌いなものを嫌いって言わないのは、不思議」
「え……?」
「あの子も、あの子も不思議。好きなものを、好きだって言わない」
 ねえ、どうしてなの。どうして好きだと言い続けるの。言われて、コレットは言葉を失くす。いつだったか、誰かに言われたことがあった。「本当にコレットは優しくていい子だ」と。そんなことはない、と思った。けれど、言えなかった。だってそれを否定したら、そう言ってくれた相手を否定することになってしまう。誰かがそう言ってくれたなら、私はそれを受け入れて、もっと優しくいられるように努力しなくてはいけないと思った。みんなが私に掛ける言葉は、きっとみんなが「神子」に求めている言葉だ。それならたとえ私がそんなに素敵な人じゃなくても、その言葉に応えられるような自分にならなければいけないと、そう思って生きてきた。
「……私は神子だから。みんなが私を頼ってくれるなら、私はみんなの力になりたい」
「道具でも良かったんだ?ひどいって思わなかったんだ?」
「うん。……それでみんなが幸せになれる世界が生まれるなら、私は平気だよ……」
 自分一人の悲しみが世界に幸せをもたらすのなら、どんなことも辛くはないと思えた。だって、神子はシルヴァラントに幸せをもたらす存在なのだと教えられた。世界のためにその身を捧げることが出来る、ただ一人の神の遣い。自分を犠牲にすることは尊く、何物にも代えがたいことなのだと。そう、思って生きてきた。誰もそれを否定しなかった。――否定、してくれなかった。
「ねえ、君はあの子と同じ?あの子に話すのが怖いのはどうして?」
 なおも問いかけ続けるその存在が示す人間が、それぞれ異なることには直感的に気付いた。前者は、きっと自分を守るため。後者はきっと――。
「ロイドに話したら、否定してくれるって分かってるの。だから、怖いんだよ……」
 自分を犠牲にすることは止めろと。あの力強くて優しい瞳で、何度でも言ってくれるだろう。そうやって、きっとこれまでの自分を一生懸命壊そうとしてくれる。だけれど、それが怖かった。その言葉を受け止めてしまったら、シルヴァラントの人達を裏切ることになってしまうような気がして。そのためだけに生きてきた自分が、全てを捨てることになってしまうような、そんな気がして。
「ふうん。それじゃあ、またあとで。僕は、この先に行かなくちゃ」
 言って、無形のそれは突然姿を消した。流れ行くままの記憶の景色は立ち消えて、そこにはいくらか空気の和らいだ、元の空間が広がっていた。

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