Cryolite-4-

 目が、覚める。意識を失う前の浮遊感を思い返して、傷の有無を手早く確かめた。腕も動くし、脚の方も骨折はおろか、打撲ひとつしていない。見たところ、特に目立った外傷は無さそうだ。ひとまずの無傷に安堵して、ゼロスは顔を上げる。――上げると同時に、驚愕の表情を浮かべた。
「おいおい、冗談もいい加減にしてくれよ……」
 眼前に広がっていたのは、先ほどまで進んでいたはずのあの森ではなかった。言うなればひたすらの、闇。明かりの灯らないその空間には、少しの水が滴る音と、ひどく澄んだ空気の感覚。今座っているこの場所は、ガラスのような材質で出来ているのか少しひんやりとしてよく滑る。寒さは感じない。けれど、どちらへ進めば良いのか検討も付かない。
 そこで、一緒に落ちてきているはずのもう一人の姿が無いことにようやく気付く。意識を手放す寸前、手を離してしまったのだ。必死に伸ばした手のひらを掴めなかったことに、今更ひどく後悔が募る。――もしかすると、近くにいるかもしれない。思い立って、ゼロスは叫ぶ。
「コレットちゃん!近くに居たら返事してくれ!」
 静寂。ひとまず声の限りを尽くしたが、周囲から反応は無い。どうやらこの辺りには居ないようだと結論付けて、ゼロスはとりあえずとばかりに立ち上がる。さて、どちらへ行くのが正解なのか、そもそも出口はあるのだろうか。風の流れが前後にあるということは、おそらく進む方向は二つあるということだろう。此処が完全に幽閉された空間で無かっただけまだ良かったと、ゼロスはそっと胸を撫で下ろした。
「……しかし、何だってこんな」
 ほう、と息を吐いて、ふとしばらくぶりに独りきりになったことに気が付いた。ここのところはずっと移動ばかりが続いていたし、取り立ててクルシスに報告するようなことも無かったから、仲間たちと居る時間がほとんどだったのだ。
 独りになれば、やはり気が抜ける。嘘を吐き続けなくて良くなる分、懸念が減っていくらか楽だ。あらゆることに対して整合性を取り続ける作業というのは、頭脳戦に見えて存外体力を消耗する。自分が現在知っていなければおかしいこと、現時点で知っていてはおかしいこと。時間的なものに矛盾が出ないように気を遣いながら、察しの良い連中をそれらしくおどけて騙し、信用させる。別に、それが心からのものでなくとも構わない。いくら怪しいと思われようが、押し切れさえすればそれでいい。最終的には上からの指示を待って、期が来れば姿を消せばいいだけだ。それを考えると、時間稼ぎさえ出来ればそれだけで、こちらの勝ちみたいなものだった。
「さて……」
 小さく息を吐いて、ゼロスは行き先を決意する。
「……ま、俺さまのことだしな」
 行き先なんて決まってる。ゼロスは思う。ひねくれ者は、いつだって正攻法を取ったりはしない。回りくどい手段を使い、ただひたすら天邪鬼に振舞ってみせる。真っ直ぐ進んでいけるのなら苦労はしない。そもそもそんな生き方が出来るのなら、今頃あの仲間たちの元にはいないのだから。
 ゼロスはくるりと踵を返して、自分から見て後ろの道へ歩を進めた。これが運の尽きになったなら、それはそれで構わない。こんな命、在れば混乱、無くても混乱。この身が神子である限り、たとえどんなことをしてみたって、まともな形には納まってくれそうにはないのだから。



「う、ん……」
 ぼんやりとした意識のままに目が覚める。コレットはゆるりと辺りを見回して、それから一瞬のうちに覚醒に至った。
「え……えっと?」
 先ほどまで歩いていたはずの森とは圧倒的に異なる光景に、コレットは驚きと戸惑いを隠さなかった。天使の能力が手伝ってくれているのだろう。どこに何があるかを理解することは出来るけれど、常人にとってここはおそらく暗闇だ。コレットの能力はあらゆる意味で「知覚すること」に長けてはいるが、明るさを変えてくれる類のものではない。
「……ゼロス?」
 元の世界での最後の感覚を頼りにゼロスの名を呼べば、答えは特に返らない。近くには居ないのだろうことを察して、コレットは焦りに囚われる。
 二人が同じ空間に放り出されているとしたなら、おそらく向こうも同じように暗闇だ。コレットはこの暗闇を苦も無く歩くことが出来るけれど、ゼロスであればそうはいかない。森でリフィルのところを離れる時には二人とも明かりを発する道具を持って来ていなかったはずだし、とてもではないが身動きの取りようが無いだろう。
「探さなきゃ……!」
 昔、本で読んだことがある。完全な暗闇に居続けると精神に変調をきたして、正常な判断が難しくなってしまうことがある、と。実際コレットは幼い頃、イセリアの外れの小さな倉庫に誤って閉じ込められてしまったことがあったから、暗闇の中に独り残される気持ちは嫌でも分かった。声を上げても誰も助けには来てくれず、窓の無い部屋の中、暗闇に飲まれそうな恐怖に怯えて夜を過ごした。
 ――あの時助けてくれたのは、ロイドだった。思い返して、コレットは微笑む。報せを受けてイセリアに来た途端、「たぶんコレットはここに居る」と。他の誰一人として見つけられなかったコレットを、いとも簡単に見つけ出してみせたのだ。
 回想もほどほどに、コレットは現在の状況を把握しようと試みる。傍にはほんの小さな池のような場所があって、そこにぽたり、ぽたりと雫がいくらか落ちる音。コレットの居る場所の前後には大きな通路のようなものがあって、ここから先へ行けそうだ。――さて、どちらへ行けばいいのだろう。見たところどちらも同じような作りになっていて、どちらを選べば良いかは検討も付かない。
「でも……」
 いつもロイドが言う言葉がある。「正面に道があるなら、俺は必ずそれを選ぶって決めてる」。コレットもまた、そんなロイドに従って、いつでも真っ直ぐに進んできたつもりだった。自分ではどちらかを迷ってしまっても、ロイドが指し示した道は、いつだって正しい答えをくれるような気がコレットにはしていたから。
 「よしっ」と一言気合を入れて、コレットは自分の正面に位置する通路を進んでいく。彼女にもまた目立った傷は見られなかったから、行動自体は難なく出来た。



 歩き始めて十五分程になるだろうか。コレットはここまでの道程の中で、ひとつだけ気が付いたことがあった。未だに此処がどこなのかは分からないけれど、この場所には生物が居ないのだ。ところどころに滴る水と、おそらくはガラス質の壁や床ばかりで、これといった魔物には遭遇していない。もちろん今襲われでもすればひとたまりも無いから、それ自体は喜ばしいことではあるのだけれど。それではいったい、此処は何をするところなのだろう。いくら考えても答えは出ない。
 ――思ううち、目新しい気配を感じる。
「ったく……」
 いつからか些細な音にまで反応するようになった聴力が、ふとひどく聞き慣れた声を捉えた。姿が見えないからまだいくらか距離はあるのだろうけれど、この声は間違えようが無い。
「ゼロス!」
 嬉しさのあまり思わずそう叫んではみたけれど、こちらからではおそらく届かないだろうことを思い返して、コレットは独り照れる。どうやら進んだ方向は正しかったみたいだ。少しでも早く合流をと、小さな歩幅でぱたぱたと走った。
 向かいからの足音が近くなった頃、コレットは改めてゼロスを呼ぶ。そこに居ることが分かっているのに、話せないことはひどくもどかしい。天使化を経験してからのコレットは、誰かを迎えに行くことが極端に増えた。いつだって彼女にばかり相手の居所が分かってしまうものだから、探し当てることはあれど、探し当てられる必要がほとんど無いのだ。それを自分がどう思っているのかについては、彼女自身よく分かっていないのだろう。というより、深く考えたことが無いと言ったほうが正しいのかもしれない。
「コレットちゃん?」
 コレットの声を捉えたらしいゼロスが、疑問げに彼女の名前を呼び返す。それに思い切り笑って、コレットは「うん!」と手を振った。
「ゼロス、ここ!良かった、ちゃんと会えた!」
「ここって言っても何も見えな……ん?コレットちゃん、俺さまのこと見えてんの?」
「私はね、なんだか天使の能力で見えるみたい。ゼロスがそこに居ることも分かるよ?」
 そう言ってコレットが近づくうちに、ゼロスも気配を感じ取れたのか、警戒を少しばかり緩めた。ようやく正面に立ってから、コレットがゼロスの手を握る。
「だいじょぶだった?怖くなかった?」
「おいおい、大の大人捕まえて怖くなかった、はないでしょうよ。大丈夫大丈夫、これだけ近ければ何となくは見えるからな」
 元々夜目が利く方だったから、後半は完全な暗闇にはならずに済んだ。もちろん圧倒的に光源が不足している分、見えるとは言ってもせいぜい半径一、二メートル程度のものではあったが、それでも視界が無いより幾分かはましだった。
「で、どうするよ。とりあえず出口は探さなきゃなんねぇんだろうが……」
 そもそもここが何処かも分からない以上、手がかりは皆無だった。今出来ることといったらせいぜいコレットの特殊な視力に期待して、新しい通路を探すほか無いだろう。
「それじゃ、ゼロスが来た方に行ってみようよ。私が居たとこより近いよ?」
「だな。俺さまには見えてなかったところもあるかもしれないし」
 二人は行き先を決定し、ゼロスは再び踵を返す。「また後ろ、ねぇ……」そう呟かれた言葉にコレットは複雑そうな顔をして、返答せずに前へと進んだ。



 ゼロスが進んできた部屋に戻ると、コレットが「あ」と声を上げた。「ここ、正面以外にも道があるよ」。そう驚いて指し示したコレットの言葉通り、部屋の中央から見て西側に、これまでより少し小さな扉があった。
「扉になってるから、きっと気付かなかったんだね」
「ああ、最初に道があるって分かったのは部屋に風が通ってたからだしな」
 漆黒の中、扉を閉ざされてしまえばそれを感知する術は無い。もしも独りでこの暗闇に投げ出されていたらと思うとぞっとする。ゼロスは思って、ほとんど許されない視界で正面の扉を見据えた。
 ドアノブを押したその向こうには果たして何が待ち受けているのか。このまますんなり出口ならば言うことは無いのだが、何となくそうはならないだろうとの予感があった。それは傍らのコレットも同じことらしく、「どうしよう、開ける?」と、かつてないほど慎重になっているのが見て取れる。
「開けたら突然魔物ご一行様がお出まし……とかは無いよな、さすがに」
「それは……たぶん無いと思う、けど……」
 実際、扉の奥に何があるかは分からないけれど、それほど邪悪な感じを受けるわけではなかった。相変わらず辺りに生物の感覚は無いし、開けたからといって突然襲われるようなことは無いだろう。
「んじゃ、俺さまが一足先にお邪魔するとしますか」
「あ、ちょっと待って。あの、一緒に開けるんじゃ、だめ、かな……?」
「……けど、危険かもしれないぜ」
「だいじょぶ。扉を開けるなら、ゼロスだって危ないのは一緒だもん。一人より二人のほうが、きっと心強いよ?」
 強い決意を秘めてそう言って、コレットは笑う。とことん人の良いその笑みに、ゼロスは返す言葉を失くして頷くほか無かった。
 自らの危険なんて省みず、コレットは常に誰かの荷を負おうとする。それが性分なのだろうと分かってはいても、そんなコレットを見るたびに、ゼロスは正反対の自分を嫌悪してしまう。自分の抱えさせられている重荷を、どうにかして目の届かないところへ投げ出してしまいたいと。そうあることが、世界のためでもあるのだと正当化して、ずっと目を逸らし続けてきた。その罪を嫌でも思い知らされる。
 背負いすぎて苦しさに涙しても、背負いたくないと理不尽にいくら嘆いても、現実は平等に降りかかる。彼らはただ傷つき続けているのだろう。それを自覚している、していないにかかわらず。
「そんじゃ、準備はいいか?」
「うん。……せーのっ」
 バタン。コレットの掛け声で二人分の力を込めれば、想像していたよりもいくらか勢いよく扉が開く。案外と軽い扉に転びそうになったコレットを抱き押さえて、ゼロスは呆れたように溜め息を落とした。
「おいおい、大丈夫か?ほーんと、コレットちゃんと一緒に居ると飽きないよな〜」
「うぅ……ゴメンね……」
「いいっていいって。ま、怪我されるとあとでハニーたちに何言われるか分かんないから、命は大事にしてくれよ?」
 ゼロスがそう冗談めかしてウインクすれば、「うん、わかった」と精一杯苦笑するコレットの表情。
「に、しても……」
 それきり、二人は押し黙る。眼前に広がったのは、まさに未知の世界だった。あえて表現するのなら、鏡のような世界、という表現が的確だろうか。自分たちの姿が映されているわけでもないのに、何もかもを見抜かれているかのような、どこか行き過ぎてしまった透明感。先ほどの部屋で感じたガラス質の床はおそらくこの部屋と同じものだろう。だだっ広い空間に、オーロラ色の光が反射して美しい。
「きれい、だね……けど……」
 ちょっと怖いかな、と。そうコレットが口にした言葉は、怯えを振り払いきれないままで、すぐに虚空へ消えてしまう。
 この部屋に降り注ぐ光は、澄んだ紫と流麗な橙。さながら彼らの羽根の色を思い起こさせるような、美しくもどこか残酷な風景だった。時が止まってしまったかのように他の何物をも動かさないこの部屋は、彼ら二人にとってはただ幻想的な風景には映り得ないのだ。
「……正直、あんまり留まりたい場所じゃねぇな」
 この澄み渡る空気を見ていると、無意識に責められているかのような心地になる。ゼロスは思って、視線を逸らすことを許さない世界に内心だけで舌打ちする。どこを痛めつけられているわけでもないのに、純粋すぎる風景はひどく鈍く心の奥に響いた。
 おそらくコレットも同じなのだろう。不安げな瞳で部屋を見渡しながら、どこか落ち着かない様子で立ち尽くしている。これほど純真無垢なコレットにも、この風景を恐れるに足る理由があるのだろうか。そんなことを思うほど、自身の行いの後ろ暗さに締め付けられてしまいそうになるものだから、ゼロスは一度考えることを止め、傍らのコレットに少しだけ強く声を掛けた。
「とりあえず、先進んでみるか?もうちょい行けば、何か分かるかもしれないしな」
 経験則から行くと、こんな感覚には時間を掛けると大概慣れる。ゼロスはそう考えて、動けなくなってしまいそうなコレットを、囚われる前にと連れ出した。
「どうして、こんな場所があるんだろう……」
 少しの時間を言葉も無く歩けば、コレットがそんなことを口にする。
「どうだかな。そもそも此処がどこなんだかも分かりゃしないってのに……」
 そこでふと、ゼロスはあの瞬間について尋ねることを忘れていた事実に思い至る。森の中で「魔物がいる」と言い出したのはコレットだ。姿を見つけられず、ろくに状況を把握出来ないまま現在に至ってしまったが、認識を共有しておくくらいはしておいた方が良いだろう。
「そういやコレットちゃん、森で感じた魔物ってどんな感じだったんだ?」
「えと……凶暴な感じはしなかった、かな。だけど……なんて言うんだろ。悪意に、ちょっと似てる。私たちを試してるみたいな感覚……」
 純然たる悪意というよりは、まだもう少し悪戯心に近いような、どこか無邪気で純粋な悪意。そんなことを語ってみれば、ゼロスは複雑そうな表情で思案する。
「一応確認しておきたいんだが、落ちた……よな?俺たち」
 体感的には。そんなニュアンスを含めて問い掛ければ、コレットもこくりと頷く。
「うん。ゼロスの手を握ったのに、ものすごい強さで離されちゃって……」
 それから、あの真っ暗闇の空間に放り出されたのだ。ここまでを振り返れば、考えられることは二つしかない。あの時空間移動に掛けられて、現実に存在するどこか別の場所に連れて来られたか。はたまたコレットが感じたという魔物が作り出した高度な幻覚に掛けられて、その罠に今も囚われたままなのか。
 可能性としては圧倒的に後者だろう。先ほどの暗闇から透明世界への変わりようといったら、とてもではないが現実に表現出来るとは思えない。
「となると、幻覚に掛けられてるか……」
「だけど、これだけの大きさの幻覚を維持する魔物って、どんな魔物なんだろう……」
 ぽつりと呟いて、コレットは思う。姿を見せないまま、襲って傷つけてしまうのでもなく、ただ幻覚に掛けて放り出す。まるで知能犯みたいなことをする魔物だ。いったい何が目的なんだろうと考えれば考えるほど分からなくなって、やっぱり考えることは一旦止めた。
「あれ……分かれ道……?」
 会話を続けながら歩いていくと、やや行って岐路に差し掛かった。左右に分かれた通路は、これまでとは異なって、何故だかあまり良い予感はしない。おそらく、どちらへ行ってもあまり良い結果にはならないだろう。――そんなことを予期させられるような、ひどく浮ついて落ち着かない感覚。
「ゼロス……」
「どうもヤベー感じだな。ここからが本番ってか?勘弁してくれよ、ったく……」
 苦笑いで息を吐くゼロスの声にも、これまでとは打って変わって余裕が無かった。進みたくはないのに、どこからかそれを急かされているような感覚。別段何に追われているわけでもないが、振り向いたところで戻る場所は無い。飛び込んで行くしかないと分かってはいても、気が進まない。誰より優れた二人の感性が警鐘を鳴らす。「この先に踏み込んではならない」と。けれど、拒めば脱出の糸口を掴むことすら叶わない。
「どっち行くよ、コレットちゃん」
「……ゼロスが、決めていいよ。……私は、それに付いていくから」
「……んじゃ、左行っとくか。どうせ両方通んなきゃならないとか、そういう展開もありがちだしな」
 言って、二人は左側の通路へ進む。半分を過ぎたところで、右側の通路は人知れず、消えた。

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