Cryolite-2-

「ただいま!けっこう大きな水源だったから、たくさん持って帰って来れたよ」
 少しして一行に追いついたコレットとリーガルは、持って行った鞄いっぱいに水筒を詰めて帰還した。この森に入る前にきちんとした補給が出来なかったこともあって、この森を行軍することを提案したリフィルは目に見えてほっとしているように見える。しいな達には所要時間を半日ばかりとは言ったものの、実質夜間に森を移動することは不可能に近い。今夜の野営の必要性を考えれば、清潔な水の確保は現段階での最優先事項だったのだ。元より手持ちの食材は十分にあったから、これでどうにか夜を越すことが出来るだろう。
「よっ、リーガル。どうよ、徹夜明けの水汲み当番は」
 合流を果たしたリーガルに近づいて、ゼロスはからかい口調でそう言った。傍目には至極涼しい顔をして、リーガルは答える。
「うむ、正直なかなか堪えるものがあるな。私とて牢に入っている期間さえ無ければ、二日や三日睡眠を取れなかったところでどうということはないのだが……」
 たった数日何もせずにいるだけでも、体力はみるみるうちに落ちる。満足に動けるほど鍛えるには想像以上の時間が掛かる割に、衰えるのは一瞬だ。獄中での鍛錬にもやはり限界はあるし、俗世に戻ればそればかりを繰り返せば良いというものでもない。リーガルがどれほど己を磨くことに余念が無くとも、やはり実生活と獄中とでは、生きていく上で随分勝手が違うものなのだろう。
「さっすがレザレノの会長様は言うことが違うねぇ。俺さまは一日が限界だぜ」
 徹夜なんかして俺さまがしけたツラしてると、世の中の女の子たちが泣いちゃうからな。そう軽口を叩くゼロスに、リーガルもつられて笑った。――ま、本当なら暗殺者に追われて何日も眠れないなんてザラなんだけどな。そうして作り笑った裏に本音を隠して、ゼロスは続ける。
「ま、リフィル先生のことだから野営でもするつもりっしょ。夜までの辛抱だな。頑張れよ、おっさん」
「な、おっさん……?」
「……真に受けんなって。さっきロイド君とその話題で盛り上がっただけだから」
 ほんのジョークよ、ジョーク。どうやら思った以上に気に掛けているらしいリーガルにそれらしいフォローを入れて、ゼロスはリーガルのショックを和らげにかかる。ひとまず安心したのだろう。「お前たちは一体どういう会話を……」と呆れたように言ってから、ふと思い立ったようにリーガルは言った。
「神子は日頃、ロイドと共に居ることが多いように思えるが」
「ん、そうかぁ?別に特別意識したことはないけどな。そう見えるんならそうなんじゃないの」
 けど、そう言われてみればそうかもな。ロイド君ってからかいやすいし。そんなことをちらほらと話すゼロスを横目に、リーガルは思う。あれはおそらく、からかいに行くことを目的としているというより、それ自体を口実にしているかのような――。
 そこまで考えて、リーガルは結論に至ることを放棄する。自分にとって、ゼロスという人間はあくまでもテセアラの神子なのだ。今更何をどう足掻いても、彼をその枠組みから外すことは叶わない。同じように、コレットのことをシルヴァラントの神子という認識を完全に排除して見ることもまた不可能なのだ。彼らを語ることそれ自体が、何より彼らを傷つける種になる。
 だからこそ、あの二人が彼に惹かれるのだろうことも理解している。他の人間ではおそらくどうしようもないのだということも、感覚的に分かる。一人ずつでは駄目なのだ。おそらく二人同時に意味を与えてやれるのは、ただ一人しか居はしない。
「にしても、ロイド君ねぇ……」
「どうかしたのか?」
「ん?ああ、いや。ただ、あんなに馬鹿正直な真っ直ぐ人間、世の中に実在するもんなのかと思ってちょっとな」
 言ってから、ゼロスは考える。――実際、時折全てが虚構なのではないかと思える時がある。目の前にある純粋さは何もかも作られたものに過ぎず、自分が手酷く裏切られるのではないかという感覚に囚われる。もちろん、それが余計な懸念だなんてことは分かってる。所詮、それが自分の行動の裏返しに過ぎないことだって、恐ろしいほど理解しているのに。
「……ったく、悪いことはするもんじゃねぇな」
 ゼロスは消え入りそうな声で呟いて、自身にささやかな自嘲を贈った。傍らのリーガルはロイド達に視線をやっていたから、おそらく気付いていないのだろう。「しかし、それがロイドの良いところだろう?」と、自分の言葉に頷きながら笑んで、同意を求めるようにゼロスの方を見やった。
「まーな。あれが無くなったロイド君なんて想像するのも難しいけど」
 この裏切りがいつかバレたら、いったいどんな顔をするだろう。ここのところ、それを思い浮かべるとひどく心が乱される。怒るだろうか、嘆くだろうか。――以前はそんなこと、どうだっていいはずだった。神子でありたくない。その一心で、どうしようもない利己心で、あらゆるものを裏切りながら生きている。今だって同じだ。別に許されようとは思っていない。心を許そうとも思わない。その思いは変わらない。それなのに。――それなのに、ただ。
「……あんなに真っ直ぐ他人を信じるなんて真似、俺さまには無理だわ。ホント、尊敬しちゃう」



「コレット、水源に行くまでに危険は無かったかしら?リーガルに付いて行ってもらったは良いけれど、さすがに守りが手薄すぎたのではないかと反省しているところよ」
 未知の森に大人と子どもを一人ずつでは、いざという時に対処がままならないかもしれない。初歩的な思考を欠いた自分をリフィルは悔いていた。そんな謝罪めいた文句をものともせずに、コレットは屈託なく明るく笑う。
「そんなの、全然だいじょぶです。そんなに強そうな魔物には会わなかったし、危険な目にも遭ってないし……」
「そうかしら。それなら良いのだけれど……。どちらにしても、あまり神子を危険に晒すわけにはいかないわ。今後はもっと注意しなければいけないわね……」
 ふう、と一息ついて、リフィルはそれきりコレットの方を見ず、手元の水筒に集中する。今彼女の瞳を見れば、きっと心が揺れてしまうと思ったから。
 当人がどれほどそれを苦にしようと、切り離せない立場というものがある。意識的に明確な境界線を引いて、コレットを常に「神子」の立場に置いておくこと。それがこの仲間内においてのリフィルの役目でもあり、義務でもあった。
 元々目指していた再生の旅の意味が失われてしまった今でも、シルヴァラントの人間はそのことを知らずにコレットに救いを求めるだろう。その時彼女が諦めたような態度を取れば、シルヴァラントの全ての人間は希望を失う。神子に希望を丸投げした盲目的な人々にいくら真実を告げたところで、「神子が再生の旅を恐れ、投げ出す口実を作り上げた」と言われてしまえばそれまでなのだ。コレットの身を守るためにも、元より再生の旅に付き添ったリフィルだけは、ことさら彼女に再生の旅を強いた人間であり続けなければならなかった。
「あ、待って、ロイド!」
 遠くからコレットを呼ぶ声がして、コレットの気配が遠のいていくのを感じる。そこでようやく顔を上げたリフィルは、ばつが悪そうに独り視線を下方へやった。彼女に神子であることを意識させようとするればするほど、いつだってひどく重い罪悪感に駆られる。それでも、これは義務なのだ。彼女に一度ならず何度でも、長い間犠牲を説き、犠牲を強いた者としての義務。どんなに彼女を救おうとしたところで、この立場を振り捨てることが出来ない以上、出来ることは限られている。それならば、彼女を傷つける方法を選択してでも、彼女のためになる行動を取り続けるしかないではないか。
「……姉さん」
 背後からの唐突な問いかけにリフィルが振り向けば、そこにはジーニアスの姿があった。何かを言いたげに、黙り込んだその様子は明らかに不穏だ。おそらく先ほどの会話を聞かれていたのだろう。怒りを湛えたふうの弟の姿に言いたいことをいくらか察して、「どうしたの?」と冷静なまま問いかければ、「どうしたの、じゃないよ!」と勢いよく返される。
「いつも思ってたけど、姉さんがコレットの心配をするのは神子だからなの?姉さんはいつもそればっかりだ。神子だから守らなきゃいけない、神子だから傷つけちゃいけないって!」
「……そうね。それは否定しないわ。いくら再生の旅自体に意味が無かろうと、コレットがシルヴァラントの神子であることは動かしようの無い事実なの。偶像を信じる世界の希望を失わないためにも、今後もコレットを守ることは必要よ」
「だからって、そうやって……!コレットの前で、それをわざわざ……」
 怒りと悲しみが綯い交ぜになっているジーニアスを一瞥して、リフィルは複雑な心境に囚われる。――弟は優しい。人並み以上の優しさを持つ人間に育ってくれて良かったと、心からそう思う。たとえそれが甘さに繋がってしまうのだとしても、きっと自分には無い優しさで、たくさんのものを救ってくれるだろう。
 けれど、今はその優しさに感化されてしまうわけにはいかない。コレットをことさらに「特別」の枠組みから外し続けた弟と――それからロイドとは違って、既に引き返せないほどの罪を犯した。真実を知る、知らないは問題ではない。天使になること。その意味を知っていながら一人の人間にそれを強いた。世界のためだと教え込み、名誉だと植え付け、笑顔でそれを受け入れさせた。葛藤には見ないふりをした。手を差し伸べることはせず、突き落とした。そんな人間が今更になって、優しさで彼女を救えなどしない。
 悪役になり続けるしか道はない。彼女がそんな私さえ許すだろうことを分かっていても、その手を決して取ろうとはしない。どんなことがあっても自立していられるくらいの根性はあるつもりだ。これ以上、彼女の重荷を増やせない。
「ジーニアス。感情がどれほどそれを拒んでも、現実は待ってはくれないわ。……あなたはあなたの思うことをなさい。私は私、あなたはあなたです。あなたが私の行いを非道だと思うのなら、それも構わない。……その代わり、あなたがあの子の支えになりなさい」
「姉さん……?」
「私にしか出来ないことがあるように、あなたにしか出来ないこともあるということよ。……一度に全てのものを救えてしまう人間なんて、そう多くはないの」
 存在しない、とは言わない。現にそういう人間を知っている。太陽になれるほど明るくはないのに、論理的とすら言えないのに、何故だか希望を見出してしまうような言葉を持つ存在。やはり天性のものを持つ人間には叶わない。努力は裏切らないとよく言うが、それすらも軽々と超えていくような才能は、世の中にいくらか存在する。
「……それから」
 話題を打ち切ろうと、リフィルは一拍置いて事実を告げる。
「言い忘れていたけれど、今夜は野営よ」
「えぇー!?聞いてないよ!」
 それこそもっと早く言ってよ、と嘆息したジーニアスは、衝撃に怒りを吹き飛ばされてしまったようだった。

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