Cryolite-12-

 数刻の後、二人が立っていたのは元の祭壇の片隅だった。衝撃から立ち直れずに、言葉も無いまま座り込む。――鮮明に残る罪の感触と、奪われることへの無力感。それらを「夢だから」と振り払ってしまうには、感覚があまりにも現実的に過ぎていた。
「おはよう。これで、夢の世界は終わり。……うん?ああ、壊れてしまったの。それなら、無理をせずに永久におやすみ。それでも、誰も君たちのことを咎めたりはしないから……」
 ねえ、せっかくだから僕のそばで、ずっとずっと過ごせばいいよ。誰も悲しむことの無い世界で、満ち満ちた世界で、いつまでも光を浴びて生きるんだ。そのための代償だって思うなら、さっきの夢だって、君たちが苦しむ必要のないただの夢になるんだから。嬉しそうにいくらか笑って、蝶は利己的な判断を、まるで名案であるかのように無邪気に語る。
「あなたの、世界で……?」
「そう、僕の世界。みんなが影に嘆かない、光の当たり続ける世界」
 きっと、そこには寂しさなんて存在しないよ。誰かが君たちに重荷を押し付けることも無い、誰かの都合で命を脅かされることも無い、あらゆる苦しみを否定する優しい世界。その中で僕は、そして君たちも、独りきりにならずに生きて行くことが出来るんだ。
 どう、素敵だって思うでしょ。微笑んだような声音で言った蝶に、二人は言葉も無いまま揺れ揺れる。どうせ全てが同じように迷い込んでしまって、やがては幻想の世界に紛れ入ってしまうのだとすれば。そこで平等を繰り返す毎日。平穏で、争いも無く過ぎて行く平凡。
 ――ああ、こんなにも無力な存在でしか在れないのなら。いっそ、それも良いものだろうか。いっそのこと全てを委ねて、悩み戸惑う日々なんて捨ててしまって。優しさを欲しがって、変わり映えのしない、悲しみのない明日を待って――。
「そういうのってさ、どうなんだろうって思うよな」
 ――ふいに、声が割り込む。どれほどにか望んだ声色。誰よりも会いたくないと願う人。唐突なそれを理解出来ずに、二人はぽかんとしたままで、声の方向を振り向いた。
「どれだけ悩んだって苦しんだって、自分で選ばないと意味ないだろ。誰かが支配する世界で生きてたって、それはただの人形でしかない」
 そんなの、生きてるって言わないだろ。当然のように強く言い切って、彼はひらりと舞う蝶を一瞥する。
「ロ……イド……?」
 驚きに目を丸くして、コレットは部屋の入り口に立つその人の名を呼んだ。
 なんで、どうして。目の前で倒れて行ったそれが夢でも、この場所に到り得ないその人が、どうしてこの場所で。そんなふうに、当たり前見たいな顔をして。
「……遅くなってごめん。二人が戻って来ないからみんなで手分けして探してたんだけど、森の奥で古い祭壇見つけてさ。気になって近付いてみたらこの空間に飛ばされたんだ」
 なんかよく分かんない通路に落ちちまって。とりあえず真っ直ぐ進んで来たんだけど、道は合ってたみたいだな。そうしてにかりと笑ったロイドに、安堵が染み渡るのを感じながら、二人はそれでも戸惑ったような顔をする。――ひどく重い罪悪感に駆られてしまう。愚を知りながら奪った者と、それを何も出来ずに見過ごした者と。いつかそれを現実に引き起こしてしまうかもしれない恐怖が、目の前の少年に向き合うことを殊更に躊躇わせた。
「で、コレット、あの変な蝶は何だよ?」
「え?あ、……あの蝶は、この空間を作り出してる、魔物。あの子を倒せば、この幻術は……」
 解けるはずだ、と。皆まで言い切る前に、「そっか」とロイドは頷いて、剣を抜かずに青の蝶へと歩み寄る。続けて「ゼロス」と振り向かぬまま呼び立てれば、ゼロスは怯えたようにびくりと身体を震わせて、「……何よ?」とそれらしい声音だけを繕った。
「やばくなったらフォロー頼むぜ。一人で勝手に助けに入って出られなくなったなんて言ったら、リフィル先生に何言われるか分かんねぇし」
 だからさ、失敗したらその剣でこいつ、斬ってくれ。一方的に指示を投げつけて、ロイドは振り向きざまににこりと笑う。「お前にかかってるからな!」と、そう軽い調子で告げてから、「コレット」ともう他方の少女を呼んだ。
「コレットも、言いたいことがあるなら言うだけ言ってみればいい。別に、諦めるのはそれからだって遅くないだろ」
 おまえ、いつもそうだけど。他人なんて、案外何とも思ってないって。言ったまま、ロイドは厳かな祭壇の前に立つ。蝶に相対する形になってから、真剣な眼差しをそちらへ向けた。
「おまえのことだよな、この森に封印されてる魔物って」
「君は、なに。僕の、僕の邪魔をしないで」
「ここの外に日誌が落ちてたから、おまえのことは何となく分かってる。……研究の一貫で生み出された空間を操る魔物。知能の成長が早すぎて、手に負えなくなったからここに封印されたんだって」
「わざわざ封印って……殺さなかったのか?」
「殺す?……殺せないよ。人間に僕は殺せない。きっとね、気が咎めたの。僕に知恵があったから。人間みたいなことを言うから。……だから、僕を影の中に閉じ込めたんだ。情けをかけたつもりで、何年も、何十年も、暗闇の中にずっと、ずっと独りで」
 寂しかったんだもの。たったひとりで、神様になったって何の意味もない世界で、誰も来ない廃墟みたいなこの場所から、僕は一歩も動けない。「声」でしかなかった僕は、独りきりで死ぬことだってできないの。けらけらと笑って、蝶は続ける。
「箱庭を作るだけ作らせて、命を生み出せない不完全な理に生んで。心だけ持たせて、姿さえ与えないで!……そうやって、自分の都合で殺すことすらしてくれないんだ。ねえ、勝手だって思わない。誰にも出逢わない世界は、とても寂しいものなのに」
 君だって分かるでしょ。コレットに向けて、同意を求めるように蝶は訴える。揺らいだふうをして、コレットは視線を落とした。
「私は……」
 言葉がつかえて、それきりコレットは押し黙る。分からない、とは、とても言えそうには無かった。心を失ったあの時のように、誰一人に想いが伝わらない苦しさは、誤魔化せるほどの痛みでは、なかったから。
「ねえ、それでも僕を咎めるって言うの。君たちは勝手。人間は勝手。優しそうなふりをして、誰にでもいい顔をして、恐れをなせば簡単に裏切るもの。……そうでしょ?」
 ゼロスの方へ視線を移して、蝶は嘲りを交えた調子で言い放つ。ゼロスは返す言葉無く、視線を流して歯噛みする。否定は出来ない。あまりにも的を射ているその言い草に、とりわけ、怒りなど湧くはずもなかった。
「ほら、否定しない。出来やしない。……誰かに会いたいだけなのに。独りきりはもう嫌なのに」
「……そうだよな。勝手だって言われたら、確かにそうなのかもしれない。……いや、実際そうなんだと思う。けど、だからって、俺の大切な人たちをみんな、何一つ選ぶこともできない世界に追いやるわけにはいかないだろ。……それだって、おまえ一人の勝手なんだ。別に、おまえだけが悲劇を背負って生きてるわけじゃない」
 抱えきれないほどの理不尽を、後悔に置き換えて苦しむ人間が居るように。どれほど手を差し伸べようとしても、それを受け取らない人間が居るように。誰もがあらゆる現実に躓きながら、やっとの思いで今に立ち尽くして生きている。そのための全ての決意を、たったひとつの悲しみに捧げられて良いはずが無い。
「諦めてくれ。……としか、俺には言えないけど」
「諦めろって?……それじゃあ、どうすればいいの。何年も、何十年も耐えて、いまさら!」
 こんな、暗闇に無理矢理光をちりばめたような、偽りだらけの幸福ですらない世界の中で。生きられるだけ生きる地獄にこれからも苛まれ続けろと、君はそう言いたいの。声を荒げて蝶が言えば、「そうじゃない」とロイドの一声。
「全部を自分のものにしなくたって、おまえが此処から出ればいいだろ。おまえを縛る封印のことなら、たぶん二人が解いてやれると思う。……もちろん、ゼロスとコレットが許すなら、だけどさ」
 森の奥の祭壇を見る限り、あれは二人と同じ光の力で仕掛けられた封印だ。天使の力を合わせれば、封印ひとつを破るくらいは容易だろう。けれど、どちらにしても、此処から出られないことには始まらない。疲労と焦燥に限界を迎えつつあるこの二人が、原因であるこの蝶に、協力を約束するかどうかも定かではなかった。
「出してくれるの。……ここから、出られるの?」
「おい、ロイド……」
「おまえもこいつの被害者だけど、こいつが人間の被害者なのも事実だろ。だったら、何も聞かずに斬っちゃいけないと思ったんだ。……どうするかは、俺には決められないけどさ」
「ゼロス……?」
「コレットちゃんはどうすんの。こいつ、助けるのか?」
 あんな夢を見せられて、抉るだけ過去を抉られて。不信感いっぱいに蝶を睨み見るゼロスは、コレットの意思をそこに求める。自分だけでは、おそらくまともな答えが出せそうに無いと思えたから。
「私は……」
 話を振られて、コレットはつかの間戸惑った。自由にしてしまうことを、怖くないとは到底言えない。――だけど。
「私は、助けてあげたいって、思う……。ずっとこんなところに閉じ込められているよりも、この子が苦しまない方法があるなら……」
 だって、最初から違和感を持ち続けていた。無邪気さに入り混じる悲哀。狂気を纏った静かな悲鳴。切々とした嘆き。一度それに気付いてしまったら、そこから一切無視は出来ない。
「……さいですか。なら、俺さまも協力するとしますかね」
「ゼロス。……いいのか?」
「どうせそうしないと出られない雰囲気だろ。……この流れじゃ、嫌とは言えねぇよ」
 仕方が無いから乗ってやる。そんな語調を含んだまま、諦めたようにそう言って、ゼロスは希薄な表情のままで吐息する。
 ――ああ、その存在がひどく重い。どうしようもない状況を何事も無かったかのように、あっさりと好転させていくその明るさが。
「本当に、独りにならなくてもいいの?もう、誰を待ち続けなくてもいいの?」
「ああ。……でも、その代わり約束してくれ。この世界に手を加えたりしないって。この世界にだって、良いところはたくさんあるんだ。……それを見る前から、諦めたりはしないでほしい」
「でも、僕は……」
「姿ならちゃんとあるだろ?おまえの姿なら、俺にもちゃんと見えてるよ」
「え?……うん。……うん!……ありがとう」
 心なしか明るさに満ちたその声音は、どこか歓喜に震えているようにも思われた。淡白な暗闇の中に、ほの光る青色がよく目立つ。はしゃげば途端に子供のようなそれは、ただただ単純に、孤独を嫌う寂しがり屋のそれだった。
「それじゃあ、とりあえず俺たちをここから出してくれ。みんな心配してるだろうし、……それに、早く二人を休ませてやらないと」

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