Cryolite-13-

 蝶が幻覚を解いてすぐ、三人は気付けば地上の祭壇の傍に居た。あれほど悩まされていた迷宮は跡形も無く姿を消して、そこには拍子抜けするほど平穏な、テセアラの大地が広がっている。
「……ここは?」
「さっき、俺が見つけたのがここの祭壇なんだ。……ほら、そこにあいつが封印されてる」
 見上げれば、場違いなほど咲き誇る花々のちょうど真ん中に、水晶のような透明な石が安置されているのが分かる。そこに閉じ込められるようにして、身動きの取れない青色の蝶の姿があった。おそらく以前は何者の影も無かったのだろう。形を持たなかったその存在は今、コレットとゼロスの力を得て世界に明確な質量を持った。二人にとってはいささか不本意な誕生であろうとも、あとは飛び立つことを許してやるだけだ。
「ゼロス?」
「……ここまで来て投げるつもりは無いって。そんじゃ、行くとしますかね」
 ゼロスの一声で二人は魔力を解き放ち、光をその身に纏わせる。軽く目配せをし、間を合わせてから――それを眼前の水晶へと一斉に注ぎ込んだ。
 ――ぱりん、と、小気味の良い音がして、止め処なくあふれる光の中から、青く流麗な蝶が飛び立つ。言葉にするのも躊躇われてしまうほど、それは尊く美しかった。
「わ、……綺麗……」
 圧倒されてそれだけをコレットが言えば、蝶は三人のもとにそっと降り立った。たまらない、とでも言いたげにひらりひらりと優雅に舞って、それから、また改めて三人に向き合う。
「ああ、……とても、なつかしい世界。こんなにも、たくさんの色が……」
 ねえ。もしも僕が涙を流せる生き物だったなら、きっとこんな時に泣いているのかもしれないよ。そうとだけ言って、青の蝶はロイドの目の前で動きを止める。「……ごめんね。君に、謝らなければならないことがあるの」。言いつつ、ゼロスとコレットをちらりと見やった。
「君が、助けてあげて。……君にも、あの夢だけならあげられる。それ以外は、二人はきっと望まないのだろうけど。……その役目は、僕ではだめなの。僕は壊れてしまった誰一人、癒してあげる方法を知らないから……」
 君を望んで壊れるのなら、きっと、君の言葉だけが新しい心をつくりだす。少しだけ、立ち止まって。僕に心を傾けて――。そう言ってあたたかな光を纏ったまま、蝶はロイドの周囲をゆるりと巡る。
「寂しさに浸してごめんね。奪うことに染めてごめんね。ありがとう。とても、嬉しかったから……」
 いつかまたどこかで、君たちに会えたならいい。言って、蝶は大空へと飛び立った。何ひとつ制約の無い、自由を求める永遠へ向かって――。



 しばしのまどろみに落ちた後、ロイドは現実へと立ち返る。目の前には心配そうにロイドを見やるコレットと、ばつが悪そうに片隅に佇むゼロスの姿。目を覚ますなりひどく複雑そうな顔をして、ロイドは第一声を二人へ投げた。
「何て言うか……自分が殺されるってのはやっぱ、ちょっと来るもんがあるよな」
 極限状態でこれを目にすれば、甘言に乗せられてしまったところで不思議ではない。ロイドにしても、信じている人間に裏切られ、守りたい人が泣き叫んでいるそのさまは、あまりに救われない光景だった。もう少し止めを刺されるのが遅ければ、やり切れなさに狼狽していたのかもしれない。
 ――けれど、所詮夢は夢だ。どれほど凄惨な出来事がそこにあろうとも、現実がそんな状況に陥っているわけではないし、未来にそれが起こるとは限らない。決してそうならないように、今を生きればそれでいい。
「なあ、ゼロス」
「……何だよ?」
「あの夢を見た時、……おまえさ、どう思った?」
「……どうって」
 どういう意味だよ、と。問い掛ける余力も無く、ゼロスはひどく真摯な眼差しに晒される。――あの瞬間手を出せるなら、きっと自分を止めていただろう。おそらく自分を殺してでも、そうする確信がゼロスにはあった。愚かだと思う。自分が救われるためだけにあの夢の自分はロイドを手に掛けたのだろうに、現実の自分がそれを止めてしまいたいと願うだなんて。
「お仲間なんだもの、そりゃ、いい気分はしないでしょうよ」
「それ、本当だよな?」
「……ま、疑うってんなら、それでもいーけど」
「別にそういう意味じゃないって。……それが本当なら、俺は嬉しいと思うよ」
「は?」
「だってさ、おまえがそうやって誤魔化さないで自分のこと話すのって珍しいだろ。さあな、とか、別に、とか、いつもそればっかりなくせに」
 頑なに覆い隠した心のうちを、こうして迷い戸惑った瞬間にだけでも見せてくれるのなら、それはとても喜ばしいことだと、そう思う。
「ったく……夢の中じゃ俺さまが犯人だってのに、もうちょっと何か無いのかよ」
「確かに驚きはしたけどさ。……ああいう結末があるってことは、俺は最期までおまえを信じたってことだろ。……なら、それは別に後悔するようなことじゃない」
 おまえを信じたのは俺の勝手だ。それなら、その責任だって俺にあるわけだろ。そう何でもないことのように言って、ロイドは「な?」と笑ってみせる。それに面食らって、ゼロスは呆れたように息をついた。――本当に。こいつと話していると、分からなくなる。些細なことなど忘れ去ってしまって、この瞬間に身を委ねたくなってしまう。
「……なーに。ロイドくんは俺が裏切っても責めないんだ?」
「別にそうは言ってない。……けど、そうなるまで気付いてやれない俺だって、同じくらい責められてもおかしくないんだろうなと思ってさ」
 追い詰められて起こす行動には、いつも必ず理由がある。ゼロスが無為にそれをするような性格ではないことなんて、今更分かりすぎるくらいに分かっている。
 ロイドの言葉を耳にしつつ、ゼロスはわだかまりが解けていく危機感を抱いていた。――抗えなくなりつつある。こうして言葉を交わす度に。真っ直ぐさに触れるその度に。
「……敵わねーな、ホントに……」
 いつかこの心が絆されてしまったら、その時何を望むのだろう。あの祭壇にロイドが現れたとき、覚えたものは否定のしようもない。――底知れない安堵感。これほどに罪を重ねて、どうしようもないところまで来て、他人の存在に拠り所を作ってしまいそうになるだなんて。思いつつ、張り詰めていた糸がぷつりと切れる。ゼロスは堪えようの無いままに、深く、深く息をついた。
「……コレットは、大丈夫か?」
 それきり視線を移してしまって、ロイドはコレットに気遣いの言葉を投げかける。随分長いことあの空間に囚われていたから、疲労は相当なものだろう。ゼロスとて同じことではあるのだが、元よりそれほど体力がある方ではないコレットのことは、とりわけ気に掛ける必要があると思えた。
「ロイド、私……」
 咲き誇る花々の傍ら。立ち尽くしたままのコレットは、どこか頑なさを抱えたままで、ロイドとの距離を測りかねているようだった。
 何も出来なくてごめんなさい、と。そう語ることは、きっと間違っているのだろうと思う。ただの夢の中の悲しい出来事。それでも、そう思ってしまうことを止められないのは、これまでにも引け目を多く感じてきてしまったせいなのだろう。
「助けに行くの、遅くなってごめんな。……コレットも、無事で良かった」
「ロイド……?」
「あのさ、コレット。……コレットが何を気にしてるのか、俺なりにだけど、少しは分かってるつもりでいる。もしかしたら間違ってるのかもしれないけど……でも、それも全部含めて、今俺がここに居るのは俺がそうしたいと思ってるからなんだ。……だから、さ。ええと……。もし、俺が旅をすることに引け目を感じているんなら、コレットが傷付く必要なんかどこにも無いって、そう言いたかった」
「でも……」
「誰かを助けて傷つくことより、分かっていて見過ごすことの方が俺は辛いって思う。気にするなってのは、無理なんだってことも分かるけど……それでも、これは俺が選んだことなんだって、それだけは知っておいてほしい」
 強く揺らがぬ眼差しで、ロイドはコレットにそれだけを告げる。知ってしまった義務感から同行しているのでも、要らぬ哀れみから傍に居るのでもない。ただひとりの大切な仲間として、守ってやりたいと思ったからこそここに居る。この手を血に染めることも、あらゆる想いを奪うことをも覚悟したのは、その先にあるものが何よりも大切な存在だからだ。
「私、……ロイドに迷惑ばっかりかけてるよ?大事なときに、自分一人じゃ全然何もできなくて……」
「そんなことないって。コレットが居るから、コレットが頑張ろうとするのを見て、みんなもそれに応えたいって思うんだ。それってさ、なかなかできないことなんじゃないかと思うよ」
 戦うことばかりが強さじゃない。誰かの隣を歩くために、同種の強さを持っている必要なんて無い。そんなことをロイドが口にすれば、「……でも」と割り切れないふうにコレットが独りごちる。
「今は一緒に戦ってるんだろ?……神子だからとかじゃなくて、コレットも自分の意志で世界を救おうとしてるんだから、それだけで十分だって思うけどな」
 天使の真実――自分が被害者でしかない真実を知ってしまったコレットは、極論を言えば投げ出すことさえ許されるはずなのだ。世間の目があることを差し引いても、未だ世界のためにと動くことは、コレットの善意ありきの行動でしかないのだから。
「私の、意志で……?」
「ああ。だってそうだろ。自分が危険な目に遭ってまで、どっちの世界も守ろうとしてさ」
 にこりと笑うロイドに、思わず泣いてしまいそうになるのを堪えて、コレットは強く唇を噛み締める。――そんなふうに考えたことは今まで無かった。自分が弱いばかりに、たくさんの人に迷惑を掛けているのだと、そう思って生きてきた。長い間義務であり続けてきたものだから、世界を救うことは、今だって義務であり続けているような気がして。――自分から世界を救おうとするのは尊い意志であるのだと。そんなことを考えたことは、今この瞬間まで一度も無かった。
 どうして、こうも欲しい言葉をくれるのだろう。「だからここに居ていいんだよ」と。ただそれを言われるだけで、気に掛けていた些細な全てが、まるでどうでも良いことのように思えてしまう。――それが、本当はいけないんだろうと思うのに。それさえ包み込んでしまうほど、ロイドの言葉は力強くて。――それから、ひどくあたたかかった。
「どんなに有り得そうな夢だって、それはいつも夢でしかないだろ。未来のことを心配するより、今を一生懸命生きれば、変えられることだってあるかもしれない」
「あーあー……黙って聞いてりゃ、なんつー楽観論者だよ」
 控えめに、けれど呆れたように、ゼロスがそうぽつりと呟く。
「仕方ないだろ?親父にそういうふうに育てられたんだから」
「……ロイドは、変わらないね。本当にずっと、子供の頃から……」
 コレットは赤い目をして小さく言って、そこでようやく少し笑った。ああ、だんだんと、解けていく。いずれ同じ壁にぶつかってしまう日が来ることを分かっていても、それほどに、ロイドの存在は大きなものだった。
「さ、とりあえず戻ろうぜ。……きっとみんな心配してる」
 一時間経ったら、一度戻ることになってるんだ。俺まで居なくなっちまったから、たぶんみんな集合場所に揃ってると思う。苦笑して言って、ロイドは一歩先からコレットとゼロスを振り返る。
「そういや、腹減っただろ?ちょっと遅くなるけど、戻ったらちゃんと用意するからさ」
 楽しみに待っててくれよ。そう言ったロイドの言葉に合わせるように、コレットのお腹がぐう、と鳴った。赤い目のまま、今度は頬まで真っ赤になって、「違うの!」とぶんぶん首を振る。
「うぅ……でもやっぱり、違わないかも……」
「そりゃそうだろ。俺さまたち、昼間っから一口も飲み食いしてないんだしな」
 ロイドくんがヘマやらかしてなけりゃ、今頃はもう少しマシな状態だったんだろうけど。悪戯っぽくそう言って、ゼロスは数刻ぶりの笑顔を見せる。仮初めのはずのその笑みは、無意識に満たされきっているかのような、ひどくやわらかなふうをしていた。
「……ねえ、ロイド。……ありがとう、私たちのことを助けてくれて」
 喧騒が途切れて、コレットのたった一言が、夜の静けさにぽたりと落ちる。「あー……ま、サンキューな」。視線を逸らしたままゼロスが続けば、「んなこと、当たり前だろ!」と弾けたようにロイドが笑う。
 ――ああ、今この時は瞬く間に過ぎ去って、きっとまた、穏やかな時間さえ後悔してしまう日が来るのだろう。それを覚悟していてさえも、この日この瞬間が儚いあまり、抱きしめたくなってしまうほどに愛しいから。何度立ち止まってしまっても、結局こうして笑い合ってしまうのが、どうか罪で無くなる日が来るといい。
 ――そしていつか自由を求めて飛び去った、貪欲なまでに孤独を嫌ったあの蝶のように、苦しみも罪も嘆きさえ、全てを話してしまえる日が訪れますようにと。ささやかに祈りを捧げながら、コレットは左を歩く二人を見やって、確かめるかのようにはにかんだ。
 ――月の下を三人、軽やかな足取りで歩んで行く。たくさんのものを抱えた彼らの表情は、それでも今この瞬間晴れやかで、確かな幸福に照らされていた。