白色と灰色-はくしょくとはいいろ-

彼女が「それ」の面倒を見るようになったのは、おそらく単なる気まぐれだったのだろう。いつ手放してしまっても構わないような、取るに足らない小さな命。脆弱なその姿に覚えたのは哀れみだったのかもしれないし、ほんの少しと言わず、弱いものへの苛立ちが混じっていたようにも見受けられる。

一捻りしてやれば簡単に壊れてしまいそうなその瞳を汚してやろうと思わなかったのは、唯一、それが彼女の大嫌いな人間ではなかったから、なのかもしれない。

「なーに死んでくれちゃってんだか」

ホント、脆すぎんだよ。手のひらで息絶えた小鳥をつい、と突付いて、アグリアは思いつく限りの侮蔑の言葉を口にする。力尽きてひとひら落とされた羽を空に透かせば、白色が少しだけ青に満ちて、そのまま風に流れて行った。

「しかもウィンガルからの手紙かよ。んなもん運んで死んでんじゃねーよ」

陛下が四象刃を召集。至急帰還されたし。そう簡潔に記された走り書きのような一文を足元に括りつけたまま、息絶えた小鳥はぴくりともせず、硬くなった羽を晒している。大方どこかで外敵に襲われでもしたのだろう。手紙を運んで来られたと言うのなら、出掛けにはまだ健康体だった可能性も高い。

「バーカ、マヌケ野郎。ろくに自分の身も守れねぇなんて、ホント弱っちい奴!どうせあたしに飼われてなきゃテメーなんかとっくに死んでんだ、ここまで生きて来られたことに感謝しろよ」

間違っても化けて出ようなんて思うんじゃねーぞ。仕上げにそう一声掛けたところで、アグリアは意味もなく、ごく小さな息を吐いてみる。何だか、妙に疲れる。理由も分からないまま不安定さを自覚して、アグリアは苛立たしげに足元の小石を蹴った。

罵倒を積み重ねれば積み重ねるほど空虚に染まる感覚がして、余計に腹立たしさが募ってしまう。それをどうしてしまえば良いかが分からないものだから、彼女は結局、手当たり次第に壊して、壊して空白を満たす。

――だって、感傷みたいな生易しい感情は今まで与えられては来なかった。それは泣き喚くしか能のない幼子の抱く甘さで、いつまでもそんなものに囚われてばかりいたら、決して生き抜いてはいけない世界に生きてきた。だから、代わりにいつだって荒々しく渦巻き続ける、底無しの憎しみに収まりがつくまで壊し続ける。

――それしか知らない。それしか知らないから、そうやって優しさを嫌う。ひたすらに。

「アグリア?」

背を向けて立ち尽くす彼女を不審に思ったのか、プレザは訝しげなふうをしてアグリアへと歩み寄った。ヒールにからからと砕けていく枯葉が耳障りで、整った横顔を少しばかり歪める。

「何をしてるのよ」
「コイツ、くたばりやがったんだよ。それもわざわざあたしんとこに手紙運んで、そのままパッタリお陀仏さ。……バッカじゃねーの?誰かに従うしか脳のないヤツだからこーやって早死にすんのにさ」
「最期に貴女の顔でも見に来たんじゃないの?せいぜい有難がっておくことね。……大体、忘れたのかしら。誰かに従わないと居場所がないのは私たちも同じでしょう、アグリア」

言い捨てるようにそう言って、プレザは怒りに歪むアグリアを冷めた心のまま見やる。誰がどれほど憎しみの炎を燃やしても、プレザはいつもそれを遠巻きに眺めるだけだった。幼い頃からスパイとして生きてきた身の上には、少々のことで心を動かしている余裕など存在していなかったから。

だからこうして激昂出来るほどに激しく感情が揺れる彼女を、時々、とても羨ましく思う。同じ憎しみに囚われるなら、彼女のように理性的であることも忘れてしまえれば、誰かを愛したまま憎むことなんて無かったかもしれないのに。殺したいほど、殺してしまえるほど、恨むことだって出来たかもしれないのに。

「……行き場なんて、どこにも無いことくらい覚えてるわよね」
「このクソババア、あたしは別に……!」
「あら……そうやってすぐに熱くなるのは悪癖よ?ナディア」
「っ、……テ、メェ、その名前で……!」
「イヤなら大人しくしてちょうだい。別に争いたいわけじゃないわ」

呆れたようにアグリアをあしらって、プレザは彼女の手の中の小鳥を見やった。かつて純白色をしていた両の羽は灰色にくすんで、ぼろぼろになった身体がひどく痛々しい。かなり無理をして飛んできたのだろう。元来、シルフモドキは賢い鳥だ。主人を明確に認識し、その方向感覚を駆使して世界中を飛び回る。

彼女、アグリアはこの鳥を以前から随分と気に掛けていた。庇護されなければ飛んで行く先も分からない、そのさまに幼い自分を重ねていたのかもしれない。あるいはただそこに存在することが許される自由さを疎んで、全てを奪ってしまいたいと願ったのかもしれない。

以前この鳥が病んで、治療には希少な薬草が必要だと告げられた時、彼女はかつて姉代わりであった女性へ不躾にそれを見つけてやるよう言った。「せっかくここまで生きといて、そんなショボい理由で死なれちゃたまんねーし」。そう口にしたのも結局のところ、紛れもなくその命を守ってやりたいと感じていた事実に他ならないのに。けれどそんな些細なことにさえ、彼女はおそらく気が付いてはいないのだろう。

彼女が抱いた感情は、いつだって何ひとつを間違えてはいないのに、ただそのやり場を知らないばかりに、いつも全てが憎しみへと変わってしまう。

「……で、コイツ、どーすりゃいいんだよ」ぽつり、アグリアが呟く。
「あら、捨てるんじゃないの?」少し驚いたふうにプレザが答えた。
「貴女、いつもそうするじゃない。人間にだって面倒なことは何もしてやらないくせに」
「つーか、人間じゃねーからだよ。いちいち突っかかってんじゃねーよ、クソババア」

口汚く言い放ってから、アグリアは思う。これまで一度だって、殺した人間に何かを施してやろうだなんて考えたことはなかった。死んで行く人間にはみな、死んで行くなりの理由がある。余計な誇りで自滅したり、悪事をやらかそうとして失敗したり、馬鹿みたいに狭い正義に囚われたり。

――あたしの命を狙う人間もまた同じだ。殺される覚悟が出来ているから、どいつもこいつも簡単に他人の命を欲しがったりするのに決まってる。向こうがあたしを殺ろうと言うのなら、あたしがやり返す権利もあって当然。弱肉強食のこの世界、それがいわゆる平等ってヤツだ。たとえその相手が血の繋がった親であろうと、昨日まで背中を預けた仲間であろうとそれは少しも変わりはしないし、そもそも、そんなことは別にあたしの知ったことじゃない。どんな奴であろうと敵は敵。裏切られたらその時点で、そいつはあたしが生きていく上で邪魔者でしかない人間だ。

けれど、危害を加えられていないものまで無碍に扱うつもりはさらさらない。たしかにコイツはどこまでも愚かで、救いようがないほどあからさまに愚鈍だ。心の底からバカだと思う。いっそこのまま蹴り飛ばして、ずたずたに引き裂いて、跡形も無くなるくらいに当たり散らしてやりたいと思わないこともない。けれどそれをしない程度の情けくらいは一応、持っているつもりでいる。

「貴女、何年一緒にいたのよ、その子と」
「あ?そんなん覚えてねーよ。いちいち小鳥様のお誕生日なんか記憶してるかっつーの」

アンタと違ってお花畑なオツムじゃねーんだよ。言ってから、アグリアはぷらりと物言わぬ小鳥をぶら下げてみる。少し柔らかみが戻ってきたせいか、またひとひら羽が抜け落ちて、止めた。

「相変わらず随分なご挨拶だこと。……まあいいわ。とにかく、死体を目の前から片付ける方法なんて簡単じゃない。その辺に埋めてやればいいだけだもの」

そんなのは当然でしょう?言いたげなプレザに、アグリアは反抗的な視線を投げ付ける。

「分かってんだよ、んなこた」

今更死体処理の方法なんざ聞きたいわけじゃない。ただこのかたちを持ったまま、壊してしまわないように弔う方法を知らないだけだ。単純に。

一刺しで命を奪って、切り刻んで、なぶって殺して土に隠して。それで済むならとっくにやっている。思って、アグリアはほんの少しだけ瞳を揺らす。そう、彼女は知らないのだ。その手に掛けた命は星の数ほどあるけれど、勝手に死なれてしまったことなんて、これまで一度も無いのだから。

「じゃあ、貴女は……」

――どうしたいって言うのよ。そう返しかけてから、プレザは一度言葉を止めた。思い直したようにアグリアへと視線をやれば、その表情に見え隠れするのが決して苛立ちだけではないことに気付かされる。

どこか戸惑い混じりなのだ、ひどく。骸と化した「それ」をどうすれば良いか以前に、まるでアグリア自身がどうすれば良いのかを分かりかねているかのような。

「アグリア」

一瞬だけ瞳を伏せて、プレザは彼女の名前を呼んだ。そのまますぐに無表情を繕えば、訝しげにアグリアがプレザを見返す。

「あ?……んだよ、変なモン見るような顔しやがって」
「壊すより簡単に楽になれる方法を教えてあげましょうか」
「……ハァ?イキナリ何だってんだよ、気持ち悪ぃ。そもそも苦しんでねーし」
「泣けばいいのよ」

自分が弱さに負けたことを認められるのなら、誰かの死には嘆けばいい、泣けばいい。

アグリアが悲しみを覚えないように見えるのは、他人が涙にする感情の分だけ破壊を繰り返してしまうからだ。一見底知れない狂気に思えたとしても、それはそうするしか術が無いからそうしているというだけの話。根底にある感情はおそらく同じ。本人がそれを知らないだけ。ただただ、それをしようとしないだけ。

「……意味わかんねぇっての。あたしは泣かねーよ」
「あら、そう?残念。貴女が膝を折って泣くのも新鮮で面白いかと思ったんだけど……」
「ハッ、この鬼畜メス猫が。そんなんだから男に逃げられるんじゃねーの?」

大体、泣く理由なんかねぇし。憎らしさたっぷりにそう返しつつ、アグリアはきりきりと鳴り渡る心に苛立ちを覚える。何故だかとても、空っぽに思えた。いつものように、何かを壊したい衝動すら通り過ぎて行ってしまったかのような、圧倒的な物足りなさが煩わしい。

彼女はその違和感の理由を知りはしないし、これからも決して知ろうとはしないのだろう。自分を削りながら目の前に見えるものを穏やかな塵に変えて、満たされない渇きをただ、ひどく暴力的な力で誤魔化すように満たしてゆく。満たされたと思い込むように、壊し続ける。

「あー……もう、いい」

なんか面倒になってきた。アグリアはそうぽつりと呟いて、今はただ物言わぬ、灰色のそれを樹海の闇色へと無感情なまま投げ捨てる。

ああ、そうだ。自分はこうして生きてきた。今更取り立てて変わったことをしなくたって、進んでいく先は、従うべき場所はどうせ変わらない。用済みになったものは何でもかんでも捨ててきた。哀れみを覚えたことも無かった。気に入らなければ全てを目の前から消して、道を作って生きてきた。

そうだ。余計なことを考える必要は無い。これからも、そうやって生きていけばいい。変わらない。あの鳥を飽きたと放り投げようが、律儀に土へ隠してやろうが、どうせ何も変わりはしないのだから。

「良いのかしら、あのままにしても?」
「いーんだよ。今まで殺さずに役立たせてやってたんだ。それだけで本望なんじゃねーの?」

それよりウィンガルの奴が帰って来いってさ。けらけらと渇いた笑いを響かせて、アグリアはわざと落ち広がる枯葉をいくらか飛び跳ねて砕いた。ざくり、ざくりと音を立てては風にさらわれてしまうから、その脆さが面白くて、そのまま全てを忘れてしまえそうな気さえする。

ぴたり、と。一度立ち止まってはみたけれど、そこから振り返ることはしなかった。

――風に煽られて、ひとひらの羽がアグリアの少し後ろをかすめる。彼女はそれに気付かぬままで、カン・バルクの白へと歩みを進めた。