ゆるしの手のひら

許すだとか、許さないだとか。ささやかな確執をすべて乗り越えてきたはずなのに、まだ残るわだかまりが胸に痛いのは、きっと気のせいではないのだろう。レイアは思ってから、傍らのアルヴィンをちらりと見やった。それからぼんやりと、雲に満ちたハ・ミルの空を見上げてみる。

この村の空は、とても高くてひどく青い。あの日の色をそのまま今日に移してしまったかのような、変わらずに澄んだ風景が、どこまでも穏やかに広がっている。

「なんか、変な感じだね。アルヴィンとまた、こうやってここにいるなんて」

ずっと、戻って来たことなかったから。レイアがぽつりと呟けば、アルヴィンはレイアの顔も見ずに「そうだな」とだけ一言返した。

あの日彼らが傷つけたつり橋の際は今も直す人は無く、ただ痛々しい痕となって、ゆるやかな風に吹かれている。時折揺れる不安定なそれが音を立てるそのたびに、激しく争い傷つけ合った、苦々しい一瞬が脳裏に浮かんでは消えて行く。

「あの時から、一度も来てないんだね。ハ・ミルには……」

あの時。ミュゼの願いを叶えるふりをして、壊れかけたジュードを壊したくて、消してしまいたくて、震える手でアルヴィンが引き金を引いた、あの肌寒い白昼のこと。レイアはただただジュードを守りたくて、抵抗してたったひとりにも届かない言葉を、それでも必死に投げかけたりして。それがあんな結果を呼ぶことになるなんて、まさか考えもしなかったけれど。

それを後悔したことは、ここに来るまで一度も無かった。だって、撃たれたことを後悔してしまったら、ジュードを守ろうとしたことそのものが、きっと間違いみたいになってしまう。レイアは思いながら、ゆるゆると翡翠の瞳を伏せてみる。――すべてをなつかしいとは、まだ言えない。だけど。レイアは誰へ話しかけるでもなく、ただかみ締めるようにその言葉を独り言のように虚空に落とした。

「言えない、けど……」

割り切ったつもりでは、いる。全てを終えてまだいくらも経たないこの頃だけれど、最近ようやく、些細なことで笑い合えるようになったような気がレイアにはしていた。

もしかすると、それはやっぱり心からのものではないのかもしれない。まだまだふとした時にぎこちなさに阻まれて、どうすれば良いのかが分からなくなってしまうことだってある。それでも胸がつかえて笑えなくなってしまうような、心の奥が締め付けられるような、言いようのない感覚からは逃れられるようになったのだと、思う。おそらくは。

「わたし、……嬉しいよ。アルヴィンがわたし達と別れたままにならなくて良かったって思う」

――あの日、ジュードへ銃口を突きつけるアルヴィンの表情が、ひどく怯えていたことをよく覚えている。思い返すように軽く目を閉じて、レイアはかつての景色を今に重ねた。

アルヴィンはたぶんあの時、本当にジュードを殺してしまいたいと願ったのだろう。一度だけ放り出されたあの弾が、わたしに当たってしまって良かったのだと今なら思える。だって、もしもジュードがあのまま命を落としてしまったら、アルヴィンは行くあても無く彷徨って、わたしは、たぶん立ち上がれなくなって。

全てが壊れて、きっと逃げ場を失って。もう一度この場所へ来ることはおろか、平穏な世界すらもなくなって。――後から考えれば考えるほどに、あの時選ばれなかった道筋がひどく怖ろしく思えてしまうのだ。あの銃弾がわたしに当たらなかった時にたどり着いてしまう場所。それがあまりにも、暗くて頼りない結末だったから。だから、そうならなくって良かったのだと今は思う。心から。

「……俺は、怖いよ。正直、この場所に立ってるだけでも手が震えるくらいだな」
「後悔、してるの?」
「後悔、ねぇ……」

そこで再び眼下に風景を映し、高台から見慣れた小屋を見下ろすアルヴィンにレイアがそっと投げかければ、複雑な色をはらんだ一言が返される。心ここにあらずといった、ひどく上の空なアルヴィンにレイアは少し悲しげな顔をして、髪にかかる木の葉をそっと払いのけた。

村人の居なくなったこの小さな世界は、ただ足元を流れる枯葉の音だけが鳴り響いて、どちらかが言葉を放っていなければ、すぐに静寂に満たされていってしまう。失ってしまったものを埋め合わせようとするには、無くしたものを取り戻そうとするには、少し切なすぎる場所かもしれない。そんなことを思うにつけ、まだあの日の痛みを抱えたままの、アルヴィンの様子が気に掛かる。

アルヴィンがあの日の自分を許せないのは、きっとあの時のことを許してもらえていないからなのだろう。レイアは思ってから、それに小さく首を振った。――だけど、きっとジュードは許さない。それは別にジュードがアルヴィンを許したくないからでも、ジュード自身が納得していないからでもなくて。ただ単純に、ジュードが優しすぎるから。

アルヴィンがジュードを傷つけたのと同じだけ、ジュードもアルヴィンを傷つけたから。そんな自分がアルヴィンを一方的に許すとか、許さないだとか。そういうことを語ってはいけないのだと思っているのだと思う。ジュードは。たぶん、昔からずっとそうだったように。

「ねえ、アルヴィン?」
「ん、何だ?」
「……アルヴィンが苦しいのはさ、ジュードが許してくれないから、……だよね」
「……何だよ。全部お見通し、ってか」

自嘲して、アルヴィンは自身がジュードへ銃口を突きつけたその箇所を見やる。まっさらな風に吹かれたその場所は、今では決闘の面影もないけれど、確かに過去の痛みが刻まれているようにも思われてやり切れない。

「……ジュードはさ、ほら、すごく優しいから。いつも誰かのことばっか心配して、……自分のことなんてホント、全然見えてなくて」

そんなんだから、誰のことも嫌いになんてなれなくて。でもね、全部信じるってことも言えないの。少し笑って言ったレイアは、銃弾に打ち抜かれたあの瞬間に想いを馳せる。倒れ込んだレイアを呆然と受け止めたジュードは、それでもアルヴィンのことを否定しなかった。殺し合いになっても、それがどれだけ本気でも、決して振り払ってしまおうとはしなかった。

「ジュード、誰かに嫌われるのが怖いから。……だから、アルヴィンのことを許してあげられないんだと思うんだ」
「……分かってるよ。ジュード君は優等生だからな」

本当は裏切り、裏切られた関係など、すぐにでも切り裂いてしまいたい絆なのかもしれない。アルヴィンはあの頃幾度もそう思ったけれど、ジュードの態度はアルヴィンを嫌っているふうともまた異なっていた。一見冷酷な響きでアルヴィンに数少なく投げられた言葉たちは、アルヴィンを信じられないまま、嫌うことすら出来ないジュードの弱さ、それそのものだったのかもしれない。

「ねえ、アルヴィン」
「ん?」
「わたしさ、昔から空気読めないってよく言われてて。……誰かに笑ってもらおうとして言った言葉が、変なふうに受け取られちゃうこともしょっちゅうだけど。……だけど、確かに言えることもあるよ」

決意したようにレイアは顔を上げて、少しだけ離れたアルヴィンの方を見やった。後悔混じりに揺れる瞳があまりにも弱々しくて、やり切れなさに歪みそうな心を必死に抑える。

「……アルヴィンは、幸せになってもいいんだよ」

人並みの幸せが欲しいとか、誰かの優しさに触れていたいとか。そういうこと全部、他人が決めることじゃない。苦しいとき、悲しいとき、救いの手が欲しいと願うのなんて誰でも同じだ。それはどんなに我儘に見えたって、赦されなければ求めちゃいけないようなことじゃない。

それでもただ誰かの赦しが欲しいのなら、アルヴィンが赦されないことを怖がるのなら。今この瞬間それをあげられるのは、ジュードじゃなくて、きっと。

「わたしが許してあげるよ」
「は……?」
「いきなり襲われて、銃まで撃たれて傷ついて。巻き込まれただけのわたしは、被害者でしかないってことでしょ。……なら、アルヴィンを傷つけていないわたしは、アルヴィンのことを許さない権利があるってこと、だよね」
「……そりゃまあ、な」
「……うん。……だったら、わたしはそれを捨ててあげる。……もう、いいの。いつまでも同じところで止まってたって、きっと苦しいだけなんだと思うから」

「だからもうそんな顔しないで。……ね」そうして切なげに微笑んだレイアにアルヴィンはぽかんとした顔をして、唐突な免罪符に理解が追いつかないまま黙り込む。

「……アルヴィンが、ジュードの痛みまで背負ったりしないで」
「俺が……?」
「ジュードってほら、嫌になっちゃうくらいお節介でしょ。……あれってね、ジュードが自分を守るためのものだから。どんなに苦しそうに見えても、ジュードは何かを抱えていなきゃだめなの。……笑っちゃうでしょ?そんなにしないと、ちゃんと笑えないだけなの」

レイアはずっと傍で見てきたから知っていた。ジュードはたくさんのものを抱えれば抱えるほどに、苦しくなるのに安心もする。誰かに必要とされたい気持ちがいつだって消えないから、自分を許しきらず、相手のことも信じきれず、いつもほんの少しだけ抱えたままにしておいてしまう。

それがたとえ相手とのわだかまりであっても、誰かと繋がっている事実を消さずにいられるからなのだろう。踏み込まれることを望んでいるはずなのに、そうしようとすればまたすぐに、いつもの優しい笑顔で突き放されてしまう。

「……アルヴィンが苦しいのは、たぶんジュードのせいなんだって思う。だけど、ジュードが苦しいのは、きっとアルヴィンだけのせいじゃないの」

だから、それをアルヴィンが背負っちゃだめだよ。泣きそうな笑顔でそう言ってから、レイアはアルヴィンへと向き直る。――そうして手を、差し出す。控えめながらも確かに差し出された左手。ゆるゆると、穏やかな風が彼女のヘッドドレスを揺らす。

「……もう前に進もうよ、アルヴィン」

わたしと一緒に。今度はジュードよりも先に。そうしたら、二人なら、今度はわたし達がジュードを助けてあげられるかもしれないから。レイアは滲みそうな涙を堪えて、その手のひらが繋がれる一瞬を待った。

戸惑ったふうのアルヴィンは、逡巡する。やがて「やれやれ、参ったねぇ」と一言添えてから、躊躇いがちにその手を取った。

「敵わないよ、レイア。……おまけに大正解ときてる」
「前にわたしを助けてくれた時、アルヴィン、左腕でわたしのこと庇ったから」

「その時思ったんだ。ああ、アルヴィンは左利きなんだなー、って」言いながら、レイアは繋ぎとめた心が離れないように、その手にほんの少しだけ力を込める。「そうだったか?」そうして自然とこぼれ落ちるその笑みは、いったいいつ以来のものだろう。

これまで言葉を交わすたびに薄れて行ったはずの余所余所しさが、今更になって崩れ落ちてくれるのを感じる。まだ苦しさの消えない心の中にほんの少しの光を見つけた気がして、レイアは堪えていた涙を、ほんの一筋だけたたえて笑った。