うたかたを埋める

過去に囚われなくたっていい。これからは新しい思い出をたくさん作っていけばいいんだよ、と。そう語ったジュードの言葉を、あの時はなんて優しい言葉なのだろうと思った。――いいや、今だってもちろんそう思っている。未来が何ひとつ見えない閉塞的な状況の中で、エリーゼはその言葉を信じて前を向いて歩いてきたし、新しく積み重ねた思い出にだって、これまで何度も救われてきた。

けれど、時折どうしても、エリーゼには懐かしさを知りたくてたまらなくなることがあった。顔も知らない両親のこと、幼少を過ごした施設でのこと。彼女の名を持つ花の庭や、笑い合ったはずのたくさんの人たちのこと。

何気ない風景を少しでも知っていたなら、世界はもう少し変わっていたのかもしれない。そう思うたび、痛みにも似た切なさがエリーゼの中を駆け巡る。

「……わたし、何にも覚えてないんですね」

一言寂しげにそう言って、エリーゼは不安げにアルヴィンを見やった。一瞬訝しげな顔をしたアルヴィンはすぐにいつもの調子を繕って、軽はずみなふうに言葉を投げる。

「なーに、お姫様はお悩み事か?」
「悩み……。ううん。そうじゃない、です」

いつものトーンで放ったそれに反抗めいた響きが返らないことを見て取って、アルヴィンはほんの僅かに溜め息を落とした。

歳に似合わず深々と物事を捉えてしまうエリーゼは、一度こうなれば、なかなか答えを出さずにぐるぐると思考をし続けてしまう。結果的にそれがどんなに自分を傷つけることになってしまっても、「自分のことだから、いいんです」と優しさいっぱいに笑ってみせる。それは尊くありながらもどこか危うく、だからこそまるで、最初から壊れ物であり続けているかのような鋭さを併せ持っているのだろうとアルヴィンには思えていた。

「……わかってるんです。ジュードが言ったように、これからのことの方が、……大切、なんだって」
「……昔を覚えてないこと、か?」

気にしてるのは。追うようにぽつりと言って、アルヴィンはエリーゼを見やる。

「……はい。もう、忘れなくちゃだめなんだって。わたしもそのとおりだって、思うんです。……でも」

本当は、ちょっとだけ、思うんです。悲しげにそう呟いて、エリーゼは続ける。

「小さいころのわたしを知ってる人が、また誰もいなくなっちゃいました。わたしは、昔のことをぜんぜん覚えてない、のに。わたしとの思い出を知っている人が誰もいないのは、すごく、……悲しい、です」

以前あの村にいた頃、後ろ指を差されてこう呼ばれていたことがあった。――あの子は不幸を呼ぶ子供なのだ、と。余所者、それも親の居ない、素性のわからない人間などとてもではないが置いてはおけない。関わってはだめ、優しくしてはだめ。あの子はもともと「可哀想な子」なのだからと。

だけれど、エリーゼにとってはそれでも大切なつながりだった。だって、後ろ指を差されても、心無い言葉を投げつけられても、彼らは「エリーゼ」を知ってくれていた。エリーゼがたしかにそこに居て、そこで泣いて、笑って、過ごしていることを覚えていてくれた。

たとえ優しい言葉をくれなくなっても、不幸の子だと言われても、それだけはいつも変わらなかった。彼らが生きている限り、それは残るはずだった。――それなのに、それさえも今は。

「辛くても覚えていたかった、ってか。……そういうとこ、俺とは違うみたいだからな、エリーゼ姫は」

自嘲気味にそう言って、アルヴィンは救いようのない自己愛を思う。とんだ人生だったと思うのに、母親のように全てを忘れてしまえたらと思うのに、心のどこかでエリーゼのような苦しみが無くて良かった、と思う。

少なくとも、エレンピオスに戻ればバランが居る。シャン・ドゥに帰れば馴染みの人間は少なからず残っているし、本意ではないが、アルクノアも幼い自分を知っている。狂いきった人生なりに、思い返せばそれなりの繋がりはあった。けれどエリーゼにはそれが無い。思って、アルヴィンはなおも自嘲する。

――そして、その痛みを解放してやれないのは、俺自身の弱さだ。伝えてやれば、きっと救われると知っているのに。それをしないのは、たゆまぬ自己愛以外の何物でもない。

「……アルヴィンは。……アルヴィンは、くるしい、ですか?」

たくさん覚えているって、やっぱりつらいことなんでしょうか。潤んだ瞳から涙がこぼれないように、震えた声でエリーゼは問いかける。

――わたし、それさえもわかりません。悲痛に混じったその言葉は、突き刺さるように冷え切った部屋を貫く。アルヴィンはそれに答えられもしないまま、彼女の言葉をただ待った。

「アルヴィン、おしえて、ください……。わたしは、……、どうして、すぐにひとりぼっちになるん、ですか……?」

わたしが弱いから、みんないなくなっちゃうんですか。わたしが冷たい子どもだから、なんにも覚えていられなかったんでしょうか。嗚咽交じりに投げつけられるそれに傷口を広げられるような心持ちになって、アルヴィンはやり場もなく視線を逸らす。

「ハ・ミルの人も、ジャオさんも、ウィンガルさんも、みんな、いなくなっちゃいました。ジャオさんと、ウィンガルさんは……二人とも、何でわたしを知っているのか、わかりませんでした、けど……。でも、わたしのこと、たしかに、知っていたんです」
「……っ」
「不安に、なるん、です……!わたしは、わたしのことをなんにも、知らないんです。なのにもう、誰も、わたしが知らないわたしのことを、知らない、から……」

――たしかに、わからないままでいいと思いもした。今さえ幸せならばそれで構いはしないと。それこそ何度も、何度だって、自分にそう言い聞かせて生きてきた。

けれど、このまま過ごしていたら、ある日突然また大切なものがぜんぶなくなって、何もかもぜんぶ忘れて、また「わたし」がなくなってしまうかもしれないから。それを考えると、こわくて、こわくてたまらなくなる。

「知りたいって思うのは、いけないこと、なんですか……?わがまま、言っちゃだめなんでしょうか……」
「エリーゼ……」
「なんにも、覚えて、ないのに……!わたし、それが、どうしてかも、わからない、のに……」

お父さんの顔も、お母さんの顔も、少しも思い出せないのに。それを知っているはずの人が、大事なはずの人たちが、みんなみんないなくなっちゃうんです。

エリーゼの言葉を聞きながら、アルヴィンは苦虫を噛み潰したような表情で自らの姿に影を落とした。――本当は。本当はまだ、エリーゼには話していないことがいくつもあるのだ。彼女が何ひとつを覚えていない理由。それから、彼女の過去を知っている人間はたしかに存在しているのだということ。

「……そろそろ腹、括るべきかね」

ぽつりとそう呟いて、アルヴィンはやり切れない思いのままで、声にならない嘆息をした。今まで、「それ」を話したことは一度だって無かった。あの頃はそれを伝えることで、自らに不都合が生じると判断したということもある。けれど、今このときになるまでそれを伝えられなかったのは、利益や不利益の問題ではない。

いっそ、真実はこのまま墓まで持って行こうと思いもした。私利からそう思ったわけではない。ただ単純に、エリーゼにそれを伝えるのは酷だろうと思えたからだ。

――別に、その出来事がどちらの悪だというわけでもない。その事実がただただ、悲劇でしかなかったから。

けれど、これほどまでに自らの意義に戸惑うエリーゼを知ってしまえば、いい加減話さずにはいられないだろう。覚悟を決めて、アルヴィンは口を開く。「……エリーゼ」そう重々しく切り出された第一声は、かすれて消えてしまいそうになりながら、少女の耳に小さく響いた。

「……ごめんな」
「アル、ヴィン……?」
「ちゃんと話すから。……怒らないで聞いてくれ」

エリーゼが戸惑いがちに呼びかければ、アルヴィンは泣き縋るエリーゼをやさしく抱きしめて、顔が見えないような位置に彼女をやった。――じわり、涙に濡れる感覚がとても痛い。

「……エリーゼ。俺は昔のお前を知ってる」
「え……?」
「知ってる、……ってのは違うな。見たことがある、って言えばいいのか」

研究所に忍び込んだ時に、ちらっとな。付け加えるように言ってから、表現に困ったようにアルヴィンは一瞬言葉を止めた。ぽたり、と。留められないエリーゼの涙が、暗転した部屋にひとしずく、落ちる。

「……ま、あの時会ったのがエリーゼ姫だって分かったのは、本当、最近の話だけどな」
「そんな、……なん、で……?」

なんでわたしのこと、アルヴィンが知ってるんですか。言いたげな瞳を見せないままで、エリーゼが声色だけで疑問だらけの言葉を投げれば、アルヴィンは少しだけ笑って、それから少しだけ、困ったように息をつく。

「……やらかしたんだよ、初めてあそこに忍び込んだ時に。誰にも見つからずに来たと思ったら、いつの間にか背後に小さなお姫様が一人立っててね。……咄嗟に銃を向けたのに、その子供は悲鳴ひとつ上げやしなかった」

そもそもあの研究所へアルヴィンが調査に赴いたのは、研究所を放棄させる原因になったあの一度きりではなかった。それ以前にも数年間に渡って数度、アルクノアのスパイを買って出ていたことがあったから。

「それどころか、その子供は俺に花なんか寄越しやがる。……自分が撃たれようとしてんのに、怖がりもしないで近付いてきたと思ったら突然、『泣かないで』ってな」

もしも最後の侵入の際に見つからなければ、今でも研究所は稼動を続け、エリーゼはあの場所に囚われ続けていたのだろうか。それを思うと、今でもいささか不思議な気分に陥る。

「アルヴィン、あの――」
「で、ワケも分かんないまま受け取ったら、その子供はそのまま行っちまった。騒ぎ立てられなかったお陰で俺のポカは命取りにならずに終了。無事潜入作戦は成功、ってワケ」

な?泣ける話だろ。エリーゼの言葉を遮ったまま一気に言って、アルヴィンは泣き付かれたままのエリーゼの頭を小さく撫でる。ぎゅう、と額が押し付けられる感覚に、やりきれなくなって束の間だけ瞳を閉じた。

「……なあ、知ってるか?どうしてジャオの奴がエリーゼを知っていたのか」

エリーゼの暗黙の問いかけに答えることもないまま、アルヴィンは矢継ぎ早に真実を口にし続ける。――そうしなければ、いつ語ることを恐れてしまうかが怖かったのかもしれない。何故早く言わなかったのかと、責められることが怖かったのかもしれない。

良かれと思ったこととは言え、意図的に言葉を閉ざし、エリーゼを苦しませ続けたことは事実なのだ。それを思うにつけ、自分の判断に確証が持てなくなる。

それでも、伝えると決めてしまった。だからこそ、アルヴィンは語り続ける。この恐ろしいほど矮小な決意が、弱さゆえに揺らいでしまわないように。

「そ、れは、……お父さんと、お母さんが、……ジャオさんと……」
「そう、知り合いだった。……それはな、お前さんの両親がアルクノアだったからだ」
「……え、……?」

唐突に告げられたそれに理解が追いつかなくなって、エリーゼは意味もない言葉をいくつか放る。だって、でも。わたしは。途切れ途切れのその言葉から、言いたいことをすくい上げてしまうかのようにして、アルヴィンは続けた。

「つっても、父親も母親も、エレンピオス人というわけじゃない。生粋のリーゼ・マクシア人だよ。だからエリーゼは精霊術を使えるし、それについては何の疑問も持たなくていい」

あの二人の霊力野は強かったから、親譲りなんだろ。精一杯に優しく笑って、アルヴィンは震えるエリーゼを抱きとめる腕に力を込める。

「……なんて説明すればいいんだろうな。ま、端的に言えばスパイだったんだよ。リーゼ・マクシアを憎むアルクノアが居るのと同じように、アルクノアを恨む連中なんてのは世の中にはごまんと居る。あいつらはその中の一部だな。当然、名前もルタスと名乗っちゃいなかった」
「それなら、なん、で……」
「……お前さんの父親と昔、ちょっとばかし話したことがある。まだあの二人がアルクノアに上手く紛れてた頃だな。別に親しくしていたってわけじゃないが……まあ、仕事ついでの世間話みたいなもんだよ。いつだったか、娘が居るって話を聞いた」

年幼い娘が居ても組織に身を置き続けるということは、おそらく彼らの恨みは相当に根深いものだったのだろう。アルヴィンは思う。無関係の家族を危険に晒してまで遂げたかった復讐が、いったい何なのかまでは流石に知らない。

けれど、全てを失うリスクを抱えてまで縋りたい憎しみに理解が無いとは言わない。――いや、言えないと言った方が正しいのだろう。今に及ぶまでの長い年月を、誰よりアルヴィン自身がそうやって生きてきたから。

「それは可愛い娘だって自慢してたっけな。ちょっと人見知りなところがあるが、本来は人好きのするいい子なんだと。実家は随分遠いが、そこに娘を思って作った大きな花の庭があるんだって、やたら嬉しそうに話しててな。ま、生き死にの懸かってる俺にとってみりゃ、そんなのはまるで別世界の話だったんだが」
「……っ、……!」
「……前に、エリーゼ姫の実家に行ったことがあっただろ。あの時に気付いたんだよ。……この花。見覚えないか?」

言ってから、抱き付かれたままのエリーゼを一度そっと引き離して、アルヴィンは胸ポケットから押し花になった小さな花を取り出した。そのまま少女に差し出せば、堪えきれずに大粒の涙が落ちる。

「プリン、セシ、ア、……?」
「そ。……エリーゼ姫がくれた花。たぶん、覚えてないんだろうけどな」

ぽつりと言って、アルヴィンはなおも躊躇いがちに投げかける。

「これ以上は、ちょっとキツい話になっちまうかもしれないが……どうする、全部聞くか?」

問いかければ、声にならない言葉の代わりに、エリーゼは小さく大きく首を振った。拭う手のひらでは足りないくらい、ぽろぽろと涙を流して。戸惑いと、不安と安堵と、期待と。たくさんが入り混じったような、ひどく物憂げな表情を浮かべたまま。

「……お前さんの父親と母親はな、アルクノアへの裏切りに失敗しちまったんだ。対立側の仲間を引き入れようとしていたのがバレて、そのままどっちの組織からも切られちまった」
「……っ」
「ルタス夫妻を最後に手を掛けたのがジャオだよ」
「ジャオ、さん、が……?」
「ああ。……けどな、それだって、別にジャオが殺したくて殺したわけじゃない」

目の前の瞳が戸惑いに揺れるのが分かって、アルヴィンは付け足すようにそう言った。疑問符を浮かべたままのエリーゼへ、言葉を選んで説明を続ける。

「当時まだアルクノアの一員だったジャオは、元々ルタス夫妻と交流があったらしい。ま、本当の名前は裏切った後でいろいろ調べてから分かったんだろうけどな。ギリギリまでかばい立てした挙句、あのおっさんは迫られたのさ。『夫婦を殺すか、アルクノアに粛清されるか』……ってな」

その当時から、アルヴィンは組織に寄り添って行動しているというよりは、定期的に来る連絡をもとに仕事をしていたようなものだった。それゆえ当時伝わってきた情報といえば、ルタスという名前でもなければジャオという構成員の名前でもなく、「裏切り者が出たため、幇助未遂の男が禊のために粛清した」程度のものだったのだが。

「俺がもうちょいアルクノアと連絡とってりゃ、エリーゼ姫に会った段階で分かったはずだったんだが」

アルヴィンがエリーゼに初めて出逢ったときは、それこそ増霊極を自在に操る少女、という程度の認識しか持っていなかった。その名前を聞き及ぶでもなく、当然ながらジャオが何らかの事実を語るというわけでもなかったために、まさかエリーゼがあの時の少女だなどとは予想だにしていなかったのだ。

正真正銘エリーゼがあの夫妻の娘であり、研究所で出逢った少女なのだと確信したのは、モン高原のあの家があった場所で、咲き誇るプリンセシアを目にした時だった。

「プリンセシアの花を植えたんです。たとえ私たちがいなくても、いつまでも健やかに育ってくれますように、って」。夫と微笑みあって愛おしそうにそう語られたそれだって、当時はほとんど話半分に聞いていたから、別段娘の名前を尋ねたりなどはしなかった。その花の名前が頭の片隅に残ったのだって、単純に物珍しさからのものだ。たまたまだと言っていい。

「それが、まさかこうまですれ違い続けるなんてな。もう少し気付くのが早ければ、……なんてのは、ま、言い訳にしかならないが」
「わたし、が……。なにも、おぼえて、ないこと……」

それも、なにか、知ってるんですか。そうたどたどしくこぼして、エリーゼは小さな肩を揺らした。話そうとすればひゅう、と喉が鳴って、とてもとても息がくるしい。

「それは……」
「知ってること、……っ、おしえて、ほしい、……です……。わたし……。わたしが、ちゃんと、いた、こと……」

知っていたい。それがどんなに苦しいことでも、悲しいことでも構わないと思えた。過去がほしかった。ずっとずっと。誰にでもあるもの。愛されていても、いなくても、当たり前にあるもの。

それを知らないことが、たまらなく怖くて苦しかったから。からっぽの自分が怖くて、逃げ出し方もわからなくて。誰かのせいにしてそれを埋めるたび、どんどん崩れていく景色が何よりも恐ろしかったから。

「後悔しないか?」
「知らない、ほうが、……ずっと、つらい……です」
「……そっか」

ほう、と長く息を吐いて、アルヴィンは泣きながら揺れる翠の瞳に目を伏せた。秘め続けてきた罪悪感がまた少し、痛む胸のうちを切り裂いてゆく。

「たぶん、な。ティポはお前さんに与えられた増霊極の一つ目ってわけじゃない」
「え……?」
「あの施設では、とにかく子供を使った増霊極の適合実験を繰り返してたからな。合いそうな増霊極をいくつか使わせてみて、より結果のいいデータを取ってたんだろうさ。……けど、合わない増霊極なんてのは身体に毒だ。何が起きるか分かりゃしない」
「じゃあ、わたし、は……?」
「正確なところは何とも言えないが、増霊極との適合に失敗すると、マナの制御の関係で記憶障害が起こることがあるらしい。……元々が脳と連動させるもんだからな。そりゃ、失敗すればそれなりのリスクはあるんだろ」
「……そう、です、か……」

ようやく告げられた真実に少しだけ声を震わせて、エリーゼはそれでも顔を上げる。

少し、投げやりに言いすぎたか。それを悔いそうになったアルヴィンに反して、その表情は、涙ながらに穏やかだった。

「それじゃあ、わたし、は……。覚えてないのは、わたしだけ、なんです、よね……?」

――ちゃんと、わたしを覚えていてくれた人がいて。父親と母親がいたことも事実で、研究所にいたことも間違いのない本当で。これまで思い込んできた記憶は作り物なんかじゃなくて。その言葉で、過去を埋めてしまっても。その言葉を、わたしの本当にしてしまっても。

「……ああ。父親も母親も、ちゃんとエリーゼを大事な娘だと思ってたよ。研究所にいたのも本当だ。なんたって俺が会ってるんだからな。それは保証する。……ま、俺なんかの言葉を信じてくれるんなら、……だけどな」
「信じ、ます……。……アルヴィンは、ウソつき、だけど……」

こんなに優しい嘘を吐けるほど、意地悪じゃないって知ってます。言葉に詰まりながらそう言って、エリーゼはもう一度、涙がこぼれないように強く唇を噛み締める。つんと胸の奥が痛い。張り裂けてしまいそうで、満たされて溺れそうで、優しくてあたたかくてつめたくて。

「――っ、だめ、です……。なか、ないって、思ったら、……また涙、出て、……」
「……今日は随分と泣き虫なお姫様だこと」
「うれしいん、です……。ほんとのこと、何にも……っ、わから、ない、ままだって、……思ってた、から」

望んでも願っても、与えられない答えなのだと思っていた。叶わない想いだと、失うことが運命なのだと、諦めて捨てきってみせるつもりだった。

それができなくって、よかった。ほしがって、よかった。心から思って、エリーゼは目の前のアルヴィンを見やる。アルヴィンがいてくれて、よかった。全部がウソじゃなくて、本当によかった。

「ありがとう、です……」
「ん?」
「アルヴィン、が、アルヴィンで、いて、くれて、……よかったって、思います」
「……はは、何だそりゃ。今更俺に惚れ直したか?」

なんてな。冗談だよ。ひどく優しくそう言って、アルヴィンは無防備に泣き続けるエリーゼの目元に触れる。びくり、と一瞬肩を揺らしたけれど、エリーゼも特別抵抗はしなかった。

「そんな顔してちゃ、お姫様台無し」
「今は、……いいん、です」
「……ん。そうだな」

そうしてアルヴィンがほっと息づけば、泣きっぱなしの翠の瞳が今日初めて、とてもとても穏やかに笑った。

誰かが救われることで、自分も初めて救われる。その連鎖を今になって思い知らされる、こんな自分はやっぱり狡くてどうしようもない人間なんだろう。思いながら、アルヴィンはそれでも安堵に逆らわない。それを受け入れるのもたぶん、立ち止まらずにいるための第一歩なのだろうから。

「つながってたん、……ですね。……ちゃんと」

わたしも。呟いて、エリーゼは未だに埋まることのない記憶を思う。

この空っぽはきっと、埋めようがないのだろう。本当はずっと、わかっていた。あれほど長い旅をしても、どんなにたくさんのものを目にしても、大切なはずの思い出は何ひとつ戻ることがなかったのだから。

――それでももう、大丈夫。穏やかなままで、エリーゼは思う。なにも持っていなくても、それが嘘偽りでないと知ったから。そう信じられる言葉に出会うことが出来たから。

エリーゼはもう一度ゆるく微笑んでから、ぐい、と流れる涙を拭った。泣いて泣いて、そうしたらなんだか無性に可笑しくなってしまって。見上げれば、アルヴィンも同じようなふうをしてエリーゼを見下ろすものだから。

そのまま何もない部屋で、まだ何もないままの二人で、意味もないのに笑い合ってみる。それからいつもみたいに大嫌いなふりをして、いくらか憎まれ口を叩いてみれば。

あたりまえみたいなその光景が、どれだけあたたかいものかを思い知らされる。

――やっと積み重ねた幸せの分だけ、笑えた気がした。