Calling

これまで気にも留めてこなかったことが、ふとした瞬間興味の対象になるというのはよくある話だ。――いったい、どんな気持ちで彼はいくつもの言葉を使うのだろう。ひとつの呼び名を使わずに、一期一会のようにふらふらと、不確かに。

エリーゼ自身は日頃「そう呼ばれる」ことの理由を、ただ自分が周囲に比べて幼いからというだけの話だと思っていたし、特別それを好きも嫌いもしなかった。いつまでも子ども扱いというのは今ひとつ納得が行かなかったけれど、その呼び方自体に悪感情が混じることはこれまで一度も無かったから。

――だけれど、よく考えてみればたぶん、彼がたくさんの呼び名を持つ理由はそれだけではないのだろう。ただそれとなく受け止めて来たその事実が、一度気になりだすとひどく胸につかえてたまらなくなる。

思い当たるいくつかの答えを振り払って、エリーゼはちらりとアルヴィンを見やった。――いっそのこと、素直に尋ねてしまおうか。思って、エリーゼは小さく吐息する。こんな些細なわたしの疑問、どうせまた適当にあしらおうとされてしまうのだろうことも、今更ちゃんと分かっているのに。

「あの……」
「ん?」
「アルヴィンはどうして、わたしを……」

窓を開け放った小さな一室。明かりも付けずに空の青を眺めるアルヴィンを横目に見ながら、エリーゼは躊躇いがちにそこまでをそっと口にする。

――ううん、これではきっと答えてもらえない。一度出しかけた言葉を思い直して、エリーゼは束の間思案する。それから仕掛けた質問は、それでも、核心を追い求めようとすることを諦めてはいなかった。

「アルヴィンは、どうしていろんな呼び方をするんです、か……?」
「呼び方……名前か?」
「はい。アルヴィンはジュードやみんなのこと、いろんな呼び方をするから……」

無難な一言を選び抜いて、エリーゼはそのまま返答を待つ。――まさかそのまま聞けはしない。「アルヴィンは、どんな気持ちでわたしをお姫様と呼ぶんですか」だなんて。

「……ジュード君ねえ。別に、呼び方変えるのはただの気分だよ。大体、内容次第だろ、そんなんは」

場の空気を読んでるってヤツだよ。外交はノリが大事、ってな。おちゃらけたように少し笑って、当然とばかりにそう答えたアルヴィンに、エリーゼはこと不満そうな顔をする。

「……なんか、納得いきません……」
「何でだよ。いちいち理由が無いと信じられないってか?」
「そういうことじゃない、です……」

アルヴィンのあしらいを込めた言葉にぷくり、と頬を膨らませて、エリーゼは突き詰められない真意を思う。

――ちがう。そういうことを聞きたいわけじゃない。だって、アルヴィンがそれをするのは、いつだって隠すべきことを抱えているせいなのだとわたしは知ってる。飄々と人当たり良くかわせばかわすだけ、アルヴィンの裏側には、別の「本当」が所狭しと連なっている。

「……また、ウソつくんですか」
「おいおい、人聞きの悪い。嘘はひとつも言っちゃいないぜ?」
「……ホントを話さないのも、ウソと一緒です……」
「ん?」
「……なんでもありません!」

投げやりに強くそう言って、エリーゼはどこか翳るアルヴィンの横顔を見て取った。この人は本当に嘘ばかり。そう思いはするけれど、それだけを決して否定しきれない。

積み上げた嘘がどうにもならないところまで来てもなお、アルヴィンはいつもそこから抜け出せない。その痛みの理由が、ことエリーゼにはよく理解出来た。――それをもたらしているのはたぶん、底知れない孤独感。自分が独りきりだと思えば思うほど、誰をも信じられない自分に気付いてしまう。そんな自分をどれほど嫌いになってみても、自分を守ることをどうしても止められない。

何もかもを手当たり次第に傷つけてしまいたいくらいに苦しくなって、思い通りにならない現実を、すぐに誰かのせいにしたくなってしまう。――誰かのせいにすればするほどに、罪を押し付ければ押し付けるほどに、自分を嫌いになってしまうことを分かっているのに。

「……アルヴィンの優等生って言葉は……いつも皮肉、……です」

問いかけに見向きもしないアルヴィンに焦れたのか、エリーゼはぽつり、追撃の一文を投げ掛ける。

どこか余所余所しさをはらんだジュードに対するその呼び名は、いつだってアルヴィンの堅苦しさを乗せて辺りに響いた。彼がこの言葉を口にしようとするたびに、決して分かり合えない部分に線が引かれて、ひどく明確な境界が生まれてしまう。

「アルヴィン、聞いてますか……?」
「……ああ、聞いてるよ」

ろくに返答もしないアルヴィンをちらりと咎めて、エリーゼは続きを形にし続ける。――そこでようやく振り向いたアルヴィンは、心なしか戸惑っているようにも見て取れた。

「……アルヴィンがジュードをそう呼ぶときは、アルヴィンが自分を嫌いなときです」

自嘲気味に、ことさらに、彼は自分とは異なるのだと、まるで言い聞かせるかのように。

――いつだってそう。黙り込んだまま傍らで、何度も見てきたから知っている。思って、エリーゼはたおやかな翠を青の手前にちらりと向けた。「図星、ですね」。我慢しきれずそう言ったなら、たぶんいつものようにこう返されるのだろう。「そうなのよ、エリーゼ姫の言うとおり」。強い言葉に悪乗りをして場を切り抜けるずるさには、いつも腹立たしさを覚えてばかりだ。

「なーに、エリーゼ姫。そうやって俺を動揺させる作戦?これだからうちのお姫様は……」
「……っ!そういうところが嫌い、なんです……!アルヴィンは、そうやってわたしを……!」

――わたしを子ども扱いすれば、上手く逃げられると思ってるんです。いつも、いつだって。

――だから、だからきらい。子どもの言葉だからと振り払ってしまったままで、取り合ってくれようとしないのは、きっとわたしの言葉が「本当」だからなのに。

「こっち向いてください……!ずるいです、アルヴィンは、すぐそうやって……!」

湧き上がる苛立ちを隠そうともせず、エリーゼは身を乗り出すように声を荒げる。強く視線を合わせれば、示し合わせるように逸らされる瞳。

「……ったく……大人は子どもの純粋な眼差しが苦手なもんなの。……分かってくれよ」
「後ろめたいことがないなら、……大人だって、真っ直ぐわたしを見られるはずです」
「……それ、どっからの受け売り?」
「っ……!……、ローエンが前に、……そう言ってました……」

消え入るような声音でエリーゼは返して、気まずそうに彼女自身が視線を外す。「あの爺さん、ロクなこと教えちゃいねぇ」呟いて、アルヴィンは小さく吐息した。

「自分のことをいちいち分析してる暇はないんでな。生きてるだけで精一杯」
「……アルヴィンは、自分のことが嫌いなんですね」
「まさか。俺は自分のことしか頭に無いような奴だよ、昔からな」
「……ウソつきは、……嫌い、です」

言ってから、エリーゼはいつかの言葉を思い出す。「わたし思うんだけど。エリーゼが「嫌い」って言うときってさ、絶対嫌いになりたくないときだよね」以前レイアによって暴かれたそれは、彼女の言うとおりだいたい本当。けれどそれを認めたくはないから、いつだってこの人に対しては理由を作ってしまう。

――嘘を吐く人はみんな悪人。そういうことにしておけばきっと、アルヴィンに覚える得体の知れない苦しさだって、見ないふりをしていられるはずだから。

「お姫様はそう言うけどな。ミラを見捨ててまでエレンピオスに帰ろうとした性無しだぜ?俺」

要するに自己愛の塊みたいなもの。そんなようなことを言葉少なに語るアルヴィンは、茶化すような笑みを消し去って、自嘲混じりにエリーゼと視線を交わした。

――窓から吹く風が彼女の長髪をふわりと揺らす。つかの間の静寂。からからと、遠くの木々がゆかしく鳴った。

「……でも……そういう自分がもっと嫌いになることだって、あります……」
「……エリーゼ?」
「わたし……ティポがティポじゃなくなったとき……自分のことばっかり可哀想って、思いました。独りぼっちになったと思ったら、真っ暗で……。……だから、自分のことがいちばん大事だったんです」

この世界には父親も母親も、どんな身内も存在しない。幼い頃から実験のために生かされたような自分の存在を、理解してくれる人は誰一人居ない。思えば思うほど、笑い合える優しげな家族が羨ましくて、あたたかな光の下で笑うジュードたちが恨めしくって、自分から孤独に心を閉ざした。

ぜんぶぜんぶ、自分を大切に思いたくて、そうしたはずだった。――それなのに、尊く扱われたいと願うたび、振り払ったその手のひらが、もっと大切な物を傷つけてしまうから。

「ひどいこと、たくさん言ったのに……全然悪いって、思えませんでした」

そういう自分が、すごくイヤでした。どこか切なげに語るエリーゼは、以前よりもほんの少しだけ大人びて、穏やかな笑みをそこに湛える。いつもの何倍も自分のことばかりを考えているはずなのに、いつもの何十倍も自分のことが大嫌いで。

――そう。きっと、この気持ちと一緒。アルヴィンはずっと、こんなふうにぐるぐると、いつまでも。

「……呼び方も一緒に居る時間も、一定してなきゃしがみ付かずに済むからな。そんだけだよ」

そこから一瞬。観念したようにアルヴィンは言って、窓際から、彼を見据え続けるエリーゼへと視線をやった。彼が話し始めたことに驚いたのか、エリーゼがほんの少し、こくり、と首を傾げる。

「その気になりゃ変えてだって生きていけるもんだろ、名前なんてのは。別にそう取り立てて気にしたもんでも……」
「でも、……それでも、すごく大事、です。ティポがずっとティポなのは、ティポって名前が、ティポに付いてたからだから……」

あの時みたいに、名前だけが存在を繋ぎとめてくれることもある。だってそうしなければティポは、ティポの全てが別物になってしまっていたかもしれないのに。

――それを否定しようとするアルヴィンはたぶん、何かに縛られることが怖いだけなのだろう。そんなようなことをおぼつかない頭で考えながら、エリーゼはひたむきにそれを伝える術を思う。そのうちふと思い立って、彼女は再び真摯にアルヴィンへと翠色を向けた。

「あの、アルヴィン」
「ん?」
「アルヴィンは、アルヴィン、なんですよね……?」
「おいおい、急に何だってんだ?そりゃ当たり前だろ、お姫様」

俺のあまりの美男子っぷりに目が眩んじゃった?おどけたようにそう言って、アルヴィンは頬杖をついたまま、気付かれないように嘆息をする。

「むぅ……そういうことじゃないです……」
「……はいはい。わかってるよ、エリーゼ姫」
「あ……。……そう、ですよ。……エリーゼ、です」

――そう、エリーゼ。わたしの名前はエリーゼ。だけれど、アルヴィンがわたしをそう呼ばないときだって、わたしはわたしが呼ばれていることを、ちゃんと分かっているんです。

「……アルフレド」
「な……?」
「……ほら、やっぱり返事する、です」

慣れない名前をゆるやかに呼んで、エリーゼは満足そうに彼を見据える。不意を付かれたアルヴィンは、身動き出来ずにしばしそのまま。

「……それは、それがアルヴィンの名前だって、アルヴィンが思ってるから、ですよ」

「……そうですよね?」含み無く、にこりと笑ってエリーゼが問いかける。
「……ったく、おたくと来たら本当に……」そう答えてから、アルヴィンは困ったように溜め息を落とした。

「……名前を変えたら繋がりがなくなるなんて、そんなのウソです」

アルフレドはアルヴィンで、アルヴィンはやっぱりアルヴィンなんです。まるで謎掛けのようなことを呟いて、エリーゼは幸せそうになお微笑う。

いくら呼び方を変えて距離を取ろうとしてみても、その人を想って語りかけている時点で大きな空白になどなりはしない。ひとところに留まらないことでどれほど深入りしていないつもりになったって、最後に残るものが何なのかをきっと、彼らは無意識に分かっているから。

「ねえ、アルヴィン、知ってますか?」
「おいおい……この上、まだ何かあるってか?」

いい加減諦めたようにそう言って、アルヴィンは嬉しそうに微笑むエリーゼを見やる。

傍らに彼女の大切な友の姿が無い光景にも、もう随分慣らされた。そんなことを思うと同時に、エリーゼが少し、もったいぶって口を開いた。

「……アルヴィンが真剣なときは、みんなのことを名前で呼ぶんですよ」

――咄嗟に口をついて出る言葉こそが何より心を映す鏡になるのだと、以前、旅の途中で誰かが言っていた。ジュードをかばうときも、ミラを心配するときも。レイアに謝罪をするときや、ローエンに皮肉交じりの労わりを投げかけるときだって、そう。

そんなとき、アルヴィンは必ず彼らのことを、彼らに与えられたただひとつの名前で呼ぼうとするのだ。――もう長いこと、エリーゼはそれを知っていた。もちろんそれに気がついたのは、自分に対してそうであることを意識してからのことだったけれど。

「……気づいてなかった、ですか?」目を白黒させるアルヴィンへ、小さく優しげに音がこぼれる。
「……参ったね、こりゃ」憑き物が落ちたように呟いて、アルヴィンは苦笑混じりにエリーゼの頭を撫でた。

――結局全てはひとつに返る。ああ、つまりはそういうこと。

「エリーゼ」
「はい……?」

ふと思い立ったようにその名を呼べば、じわり、心ごと満たされた感覚に落とされる。

「……いいや。呼んでみただけだよ、お姫様」

言ってから、アルヴィンはエリーゼをそっと抱き寄せて、その腕にほんの僅かに力を込める。「……サンキュな」そう囁いて垣間見えたのは、盛大に驚いたその後で、花が咲くように破顔する翠の瞳。

――つられるように小さく笑みを浮かべてみれば、決まりきったその名前がふと、ひどく愛おしく思えたような、気がした。