影に咲く花

静寂が訪れてふとした瞬間、浮かぶ顔はいつだってひとつだけだ。思いながら、ユーリは月夜を見上げて息づいた。大切なものは両手に抱えて余りある程にあるけれど、身を投げ出して助けてしまいそうなのはたぶん、今後一切一人しか居ない。

そこまで考えて、ユーリは己の思考に苦笑を贈る。今更なのだ。昔から何があっても信じていたせいか、そもそも疑うという行為すらしなくなっている。――裏切られたらそれまでだ、とすら思える。立派な刷り込みだ。それに危機感も覚えない。

「……重症だな」

何事も受け入れつつ、時には撥ねつけながら生きていく。そういう性分のはずなのに、ユーリは彼に対してのみ「拒絶する」ということをしなかった。本人からしてみれば無意識的にではあるのだろうけれど、盲目的に彼を信頼し、必要とあらば疑問ひとつなくその背を預ける。案外と閉鎖的な心のうちを晒す相手は幾人か存在するものの、彼はその最たる対象だった。

彼に対してだけは、不安だとか恐怖だとか、そんなようなものを強がりもせずに開け曝してしまう。前に進み、立ち向かう上で振り払うべき壁を、むしろ彼と居ることで強く認識させられる、とも言えなくはないのかもしれない。

「……っつーか、その時点で負けてるも同然じゃねーか」

ユーリは自嘲しつつ、隣に座す愛犬に聞かせるともつかない語調で言った。夜に似つかわしく鳴いたラピードを横目に、ユーリは続ける。

「ほんとはさ、あいつに関しちゃ勝ち負けにはこだわりねぇんだ。そもそも昔から先走ってるのもあいつの方だしな」

だからむしろ、先を行ってくれないと迷いが生まれる。情けねぇけど。そんなようなことをぽつりぽつりと語り、ユーリは小高い丘に静かにその身を横たえる。

いつだって、目の前を駆けていくのはあいつの方だった。ユーリは思う。たしかに隣に位置していながら、ある部分では有無を言わせず先に行く。まるで自分が行かねばならない理由でもあるかのように、一歩間違えば落ちぶれそうなユーリを心もち先導して――そのくせ、時折振り返ることだって忘れずに。

「ったく、器用なんだか不器用なんだか……」

呟きながら、ユーリはフレンの姿を思う。世間一般に見て、性格的な面ではあれほど真面目で不器用な人間も居ないだろう。決まりごとを馬鹿正直に守り抜き、いっそ規範にすらなってしまう。ユーリはフレンのそんなところに惹かれもするし、呆れもする。

しかし、かと思えば突然心をさらっていくほど細やかな気遣いをしだしたりもする。それがごく個人的に向けられるものだから、そんなとき、ユーリとしては、長い付き合いの割にひどく戸惑ってしまう。

ただ、どちらにせよフレンが概ねの人間に歓迎され、尊敬される人物であることはたしかなのだ。命ある限り付き従い、いずれは対等に在りたいと願う者は多いだろう。それゆえユーリを疎むものすら居るように、フレンはどこか他者に心酔されるような要素を持っている。

「ま、いつかあいつに誰よりも信頼置ける人間が出来たら、……そりゃ喜ぶべきことだわな」
「クゥーン……」

言いながら、ユーリはぼんやり響く否定を思う。

――喜ぶべきことだとは、思う。けれど、心のどこかでそれを良しとしない自分が居るのだ。長い間、同じことを自分自身に教え込むかのように繰り返してきたにもかかわらず、未だに。

思い描いたそれを言葉にはしないまま、ユーリはなおもその意味について問いかける。分かってはいるのだ。自分にとってフレンの存在が手放せぬほど大きすぎることも、おそらくフレンがそれを重荷にはしないだろうことも。開きすぎた立場が言い知れない罪悪感を引っ張り出してくるせいで、毎度こうも最悪の気分になる――それだけのことだってのは。

表と裏、それぞれの役割を担い、支え合うことが叶っていると信じてはいる。それは互いに承知のことだし、ユーリ自身は取り立てて表世界で脚光を浴びたいわけでもない。騎士団に戻る気が無いからこそこうしてユーリはギルドの一員として歩いているのだし、その選択を愚だとも思わない。

「……けど」

それでも引っかかり続けている。ユーリにしてみれば、自分が隣に在ることが、時々ひどく不釣合いな理のように思えてならない。

「別に自分に自信が無いってわけじゃねぇ。つっても、特別あるわけでもないけどな。一応人並み以上にはやってると思ってるとこだが」

それを自負してさえ、その上を行くフレンに立ち並べない。ユーリ自身はフレンの実直な性格にそもそものところで根負けしてしまうから、あれと同程度の努力は無理というものだろう。それならば、手の届く範囲で手を取り合えば良いのだとすらちゃんと思える。

結局のところ、理屈も、立場の違いも、何もかもが問題にならないことはユーリも理解しているつもりだった。それなのに未だ腑に落ちずにいるそれを、上手い言葉で表せない。

――以前、どこかで似たような話を聞いたような気がする。ユーリは思って、訝しげに目を細める。

「そういや前にリタが言ってたっけな。”あたしは所詮魔導師、エステルはお姫様”って」

さすがにそれと同列と言うことはないだろうが。半笑いになってから、ユーリは事の顛末を思い返す。

たしか――そう、エステルが副帝として冠位を授かる式典の際の話だ。ユーリ達凛々の明星は式に参列することを許可されはしたが、「友人」としての出席を認められなかったのだ。あくまでも先の星喰みとの戦いにおける護衛としての功労者であり、付き合いも長いがゆえに特例として「一級使用人」の身分を与えられはしたが、彼ら――とりわけリタにとって、それは決して納得の行く処遇ではなかった。

こればかりは皇帝ヨーデルの一存でどうというわけにも行かなかったらしい。何しろ城の重鎮によって取り計らわれたこの儀式は、誰よりヨーデル自身の戴冠のためのものでもあったから、下手な口出しは無用のこととされていた。

「あん時はすごかったな。リタの荒れようが尋常じゃなかった」

エステル自身がそれを知らないことについては救いようがあるのか無いのか、ともかく、あの時のリタは修羅のような面差しをしていた。思い返して、ユーリは寒々しい感覚にとらわれる。どうもその催事に関してのエステルの世話係に、身なりも良く優しげな女性が抜擢されてしまったことで、リタは余計に苛立ちを募らせたらしい。

それに対して無謀にも横槍を入れていたのがレイヴンだ。当時傍観するばかりだった仲間達としては、その場に屍が残ってもおかしくはないと踏んでいたほどだったのだが。

「おっさん、何て言ってたんだっけな」
「ワゥーン?」

言ってから、ユーリは彼が放った決定的な一言を思い出す。何気なく放たれたそれはこれまたリタのプライドをさらさらと抉り、慣れない言葉の威力にやり込められて、リタ自身が消沈してさえいた。

――あれと同じだ、まさしく。今の自分は。

「ちっ、……よりにもよってそれかよ……」

この瞬間名の付いた焦燥感の真相に、ユーリはばつの悪そうな表情でひとりごちた。自分は決してそんな感情を覚えることは無いと思っていた。少なくとも今よりずっと余裕ある態度のまま、もう少しまともに渡り合って、割り切るところは割り切れるものだと信じきっていたのに。

「……嫉妬なんてみっともないわよ、か」

――分かってるっつの。無言のまま胸中で悪態を付いて、ユーリは複雑さに心を委ねる。そう、言われてしまえば答えはそれだ。迷うことも無い、この靄がそのどうしようもない感情の所為だと理解が及ぶ。

いつか自分ではない、隣に立つかもしれない他の誰かの存在に手を焼いているのだ、要するに。どれほど代役を名乗って心ごと誤魔化してみせようと、それ自体が自分を縛る枷になる。救いようの無い自己愛ぶりだ。失笑して、ユーリは息づく。

「あいつだけは捨てられねぇみたいだな、どうも」

大切なものにもかかわらず、諦めてしまわなければならないものは数多い。けれどその中で常日頃、他のどれよりも最優先事項に設定されている事柄が誰しもある。何を犠牲にしても失えないもの、何を敵に回してさえ救いたいと願うもの。それがユーリにとってはフレンだった。それだけのことだ。

「なんだって茨の道を行くかね、オレも」

手近なところでそんな相手を見つけられていたら、これほど深刻な悩みには至らなかったのだろう。思いつつ、それも無理な話とユーリは自身の考えを否定する。何しろ幼い頃から行動を共にし、今もなお手放しで信頼を置いてしまえる相手など、今更他に出来るわけもない。作ろうとも思えはしない。

フレンのことはユーリが誰より分かっていると思っているし、ユーリ自身、自分のことを誰より理解しているのはフレンだと思ってもいる。その認識が揺らぐことはないし、これから変わることもおそらく決して無いのだろう。

――結局、隣を歩いていくには嫌でもその背中を追いかけていくしかない。存在自体がとんだ行動理由だ。他人に突き動かされて流れ行くことを良しとしないユーリではあったけれど、こればかりは拒む気にもなれないのだろう。どれほど立場を違えても、同じ目線から物事を見据えていたいと思うのは、それを許されていたいと願うのは――抗いようのない欲求なのだ。今となっては。

「……ったく、自分に呆れるな」

困ったように少し笑って、ユーリは隣のラピードに視線をくれる。どこか嬉しそうに鳴いた愛犬の様子に、受け入れられているらしいことを感じて安堵する。

「ありがとよ」

頼もしい横顔にそうとだけ一言言って、ユーリは再びぼんやりと、止むことを知らない藍色の月夜に見入ってみせる。

進む道が違うもの同士、相容れない事柄なんてごまんとある。それでも壊れずにあるこの絆は、今更どうなるものでもないことを信じていたいとユーリは願う。他の何者をも踏み込ませないような、絶対的な位置を彼は求めているのだ、いつだって。ただ、どうしようもなくそれを深読みした挙句、自分ですら理解できていないというだけの話で。

「どうしようもねぇのな、マジで」

こうして一端に気付かされるだけで、これほどレイヴンの言葉ひとつが胸に刺さる。苦笑して、ユーリは頬を撫でる外気に目を閉じた。おおらかな心で進めと声を大にしがちなユーリ自身、こと一点に関してはこれほど視野の狭い存在でしか居られない。

「ワン!」
「……けど人間そんなもん、ってか。ま、それもそうかもな」

いずれにせよ、近すぎる分だけ余計に遠いと思わされる、至極贅沢な悩みなのだ。思いながら、ユーリは人の良い笑みを浮かべるフレンを思う。下を探せばいくらでもいるだろうし、そもそも下町で燻っている間に見放されなかっただけでも穏やかさの権化だ、フレンは。

「そんじゃ今まで通り、オレはオレの道を行きますかね」

これからも、ただがむしゃらに。そうすれば、いずれ道の交わる時も来るだろう。とりあえずとばかりに結論付けて、ユーリは長きに渡る自問自答の全てを終える。

ただ、それまでは出来るなら、どうか――。

「……お得意の無謀な特攻隊長のままでいてくれよ、フレン」

その隣にどうか、彼を諌める影が現れないことを。