この木の下で

階段滝の向こうに広がるだだっ広い泉の傍らで、ノーマはひとり空を見上げていた。吹き抜ける夜風が草木をさらさらと揺らして、心地の良い音を奏でては静寂が満ちる。

かねてから、ノーマはこの場所が好きだった。思い出のあふれるこの場所は、その手にあり続けるものも、すでに失ってしまったものさえも、全てを抱いて存在しているような気がしたから。

「なーんか、ついここに来ちゃうのよね〜。ししょー、あたしが墓に行かなくなって寂しがってんじゃないかな。……って、そんなわけないか。ないな、うん。ないない」

ひとり漫才のごとく呟いて、ノーマは静かに息をつく。以前は何かにつけ足を運んでいたスヴェンの墓よりも、最近ではこちらに顔を出すことの方が多くなっていた。それは彼女の長きに渡る師からの脱却を意味しているのかもしれなかったし、ただ単に優先順位が異なってしまっただけのことかもしれない。それでも今までを孤独に生きてきた彼女にとって、たったそれだけのことが、あまりに大きな変化であることだけは確かだった。

今も時折皆で集まるこの場所は、夜になるとあたり一面に満天の星空が広がる。この景色をとりわけ気に入っていたのがノーマ自身で、思い出したように恋しくなってはこうして独り、此処へ足を運ぶようになったというわけだ。

「勝手に持ち出して来ちゃったけど、セネセネとウィルっち怒んないかなー。……ま、いっか。たぶん誰も気付いてないっしょ!」

自分を納得させるようにノーマは少し苦笑して、ウィルの家から持ち出して来た厚みのあるノートを広げる。たくさんの文字で埋め尽くされてぼろぼろになってしまったそれは、仲間たちにとって何よりもかけがえのない、あの頃の記憶そのものだった。

多種多様な筆跡で記される辛くも愛おしい毎日は、自然と彼女に心からの笑みをもたらしてくれる。彼女だけではない。セネルやウィルが同じように時折立ち止まってはぱらぱらとページをめくっていることをノーマは知っていたし、ジェイが人目に付かないところでそれを幸せそうに眺めていることも、クロエが懐かしそうに、少し痛み混じりに笑うことだって知っていた。モーゼスが思い出したように記事の内容へ茶々を入れるのだって、誰もにとってこの日記が大切な繋がりのひとつであると理解しているからだろう。

「さーて、何が出るかなー、っと」

面白がるようにノーマはそれをぱっと開いて、目の前に飛び込んできた文字を読む。まだ日記も随分と真新しい頃に記された、その懐かしい怒りにはとても見覚えがあった。

「あー、これ、ジェージェーが内海港に居た時のヤツ?……あたしたち、ホントろくな出逢い方してないや」

くつくつと笑って、ノーマはページをゆっくりとめくっていく。自身がセネルたちを利用してやろうと思っていた頃の記録。ジェイに騙されて潜水艇の実験に協力させられた日の記録。モーゼスが無理矢理付きまとってきたことや、グリューネを見つけたときの驚きもすべて、誰かの言葉で鮮明に綴られている。

「グー姉さん、か……」

今もまだ懐かしさにはほど遠い名前を、闇夜にぽつりと呼んでみる。とても優しくて、とぼけた仲間。気高くて、あまりにも美しい神様。

時折記されているお気楽そうな筆跡と、どこか思い詰めたふうに記されたその文字は、彼女が消えてしまった今見返すと、ノーマをひどく切なげな心地にさせた。独りで抱え込んで何もかもを守ろうとして、何もかもを受け入れたような眼差しで――何より、あの頃全てを等しく「人間」として守ろうとする彼女の瞳を見ていることが、我侭な寂寞を募らせてしまったものだから。

「……にゃーん?」
「ん?」

そうして過去を遡ることに夢中になっていると、ふいに物陰から音が鳴る。振り向いて、ノーマは驚きとともに口を開いた。

「……ありゃ、こんなところにネコ?どっから来たの、あんた?」
「にゃん?」
「まさかとは思うけど、街からここまで来たんじゃないよね。……野良?飼い主は?」
「にゃー……?」
「……って、通じるわけないか。知ってました。知ってましたとも」

猫を相手に虚しく自問自答して、ノーマはがくりとうな垂れる。そこから動く様子の無い猫は、人馴れしているのかその場にごろりと身を伏せて、無垢な瞳をノーマにじっと向けている。

「むむむ、てこでも動きませんってかー?うーん……。……うん、そっか。……ねぇニャー子。あんた暇ならさ、……あたしの独り言、ちょっとだけ聞いてよ」

微笑して、木陰で膝を抱えるようにノーマはだらりと体勢を崩す。ニャー子と呼ばれた猫は肯定のように一度だけ小さく鳴いて、相変わらず身体を丸めてそこに居た。

「あたしさ、ししょーが居なくなってからずっと、エバーライトを探すことばっか考えてて。そんなんだから、ぶっちゃけ周りの人のことなんてどうでもよかったの。目的のために役に立つなら誰とだって仲良くするし、そうじゃなければハイさようなら。……だってその方がさ、簡単でいいでしょ?……そう思ってたんだ。ずっと」

師の遺志を継ごうと決めたその時から、ノーマの行動理由はいつだってただひとつだった。エバーライトを手に入れる。そのためなら見ず知らずの他人を踏み台にしたって構わないと思えたし、実際、何人もの好意を踏みにじって来たことも事実だ。

無理を通して失敗を重ねて、そのたびに何度も同じ場所へ舞い戻る。あの森にセネル達が現れたのは、己の無力さにいい加減、嫌気が差してしまいそうな頃だった。

「お人好しそうな三人組がタイミングよく森に入ってきてさー。あー、これで死ななくて済むわ、ラッキーあたし!って思って。……あの時はみんなのことなんて、そんなふうにしか思ってなかったのにね」

いつ死んでも悔いの無いように生きる。師であるスヴェンの信条を受け継いだつもりでいたけれど、実際に危機に直面するたびに、果たせない誓いが脳裏を過ぎって落ち着かない日々が続いた。

ノーマがセネル達に協力することになったのは、元はシャーリィの持つブローチが目当てだったからだ。それさえ手に入ればいつも通り別れを告げるつもりでいたし、何より面倒ごとが嫌いなノーマだったから、見切りを付けるタイミングだって間違えるつもりは毛頭無かった。

「……でもね、駄目だったよ。離れられなくなっちゃった。みんなといるとさ、あたしにもここでやれることがあるかも!なーんて思っちゃうわけ。バカみたいでしょ?……絶対向いてないのにさ、正義の味方だなんて」

こそこそと遺跡の宝を頂戴して、大義名分が無ければ盗人と大して変わらないようなことをただ、トレジャーハンターと名乗って誤魔化していただけのようなものだったのに。

いつしか仲間がたくさん出来て、失えないものになって、まるで副産物みたいに世界まで救った。ノーマは思う。向いてないし、ガラじゃない。今でも確かにそう思う。正義の味方ぶるだなんて、笑い飛ばしてしまえるほど、自分の本質に似合ってはいないのだ。

「……あたしはね、ニャー子。運命なんて信じてなかったけど。……セネセネ達といると、そんなのもアリかなって思うよ」

出逢った頃は、皆がこれほど大切な存在になるだなんて想像もしていなかった。ぶつかって、傷つけ合って、また笑って。そんな小さな時間がどれほど大切なものかなんて、知ろうとさえしていなかったから。

「みんながいなかったら今頃あたし、ぜんぶ投げ出してたかもしんない。……みんながいても、なんにも、なんにも見えなかったんだよ……。いくら強がったって、だめなものはきっとだめだからさ」
「にゃーん……」
「絶対言わないけどさ、……あたし、みんなにはホント感謝してるんだ。ししょーの見つけたエバーライトをあたしも見つけられたのは、あたしを手伝ってくれたみんなのおかげだから」

瞳を伏せて、優しげにノーマは笑う。一言も、二言も、三言飛び交ってさえ、最後には必ず自分を助けてくれる、あまりに尊い仲間たち。出会い頭の事故みたいな偶然で出逢って、偶然みたいな困難を、必然みたいにみんなで一緒に乗り越えて。

「セネセネはさ、リッちゃんのことで頭いっぱいで、他のことなーんにも考えてないようなヤツだったけど、……でも、セネセネなりにずーっと一生懸命だった。最初は何マジになっちゃってんの、このニブチン!なんて思ったけどさ。最近はもう、『ああじゃないとセネセネじゃないなー』なーんて思うようになっちゃったよ」

「……毒されてるってやつ?」そう話すノーマは高揚気味に少し笑って、一度閉じた日記を抱きかかえるようにして手元へ寄せた。口を開けばいくらでも出て来る仲間の話を、どうしてなのだかこの子猫に話して聞かせたくて仕方が無かった。

「クーはね、ホントに頑固だから、あたしが見てないとすぐ無理する。ホントは辛いくせに『私は大丈夫だ!』なんて大真面目に言うの。苦しいときは苦しいって素直に言ってくれりゃーいいのにね。……って、それはあたしも人のこと言えないか」

クロエの苦しみや悲しみにひとりで立ち向かおうとする姿勢は自分と似ている。ノーマにはいつもそう思えてならなかったし、実際、重なる部分はいくつかあった。クロエの背負っているものはノーマとは比較にならないほど重かったけれど、それでも、本質的な部分で彼女たち二人はどこかが似ている。

クロエは苦しみや悲しみを隠し通す術を知らないから、結果的に周囲の人間が一早く気付いてやれるというだけの話。一度隠し通すことを覚えてしまったら、もう一度さらけ出すには想像以上の勇気が必要になる。ノーマがかつて限界までを抱え込み、とうとうどうにもならなくなってからようやく、仲間たちに想いの全てを話すことが叶ったように。

「……あたしたちってさ、みんな、ちょーっとずつどっか似てんのかもね。……ジェージェーもそう。反発ばっかしてたけど、あたし、ジェージェーの言うこともちゃんと分かってたよ。……ただね、認めたくなかっただけなんだよ。無謀なことに向かって一生懸命な自分と、いつも自分に皮肉を浴びせる冷静な自分がいること」

真っ直ぐに走り続けていなければ駄目になってしまいそうな弱い自分だからこそ、あえて小さなことから目を逸らし続けて生きてきた。きっと皆が皆、自分の不得手から目を逸らして、補い合って、こうして日々を過ごしているんだろう。自分ひとりで完璧を求める必要が無いことを教えてくれたのは仲間達だけれど、それを教えてくれた彼らもまた、自分が不完全であることを知っている。

「あの頃は何度もウィルっちに絞られたしね〜。……って、それは今もか。ウィルっちはオヤジだからさ〜。すーぐ怒るのは、まぁ、仕方ないんだけど。見てよ、このページなんてあたしとモーすけの恨み言で埋まってるし」
「にゃん!」

日記を眺めていると、その度に初めて読む字列があることに気付かされる。その日に担当した人間の手を離れてから、誰かがそっと思いの丈を綴ってみせるのだ。内容の加筆は次の日すぐに気が付くこともあったし、誰にも分からないようにささやかに書き残されて、今頃になって発見されることもあった。

おそらくこの日記を一番読み込んでいるであろう、ノーマだけが知っている言葉たちもいくつかあった。セネルを傷つけたあの夜に、ずっと昔、二人が出会って間もない頃のページに「ごめんね」と記したクロエのこと。仲間たちの決意が連ねられているページの少し手前へ、小さな字で「ありがとう」と、そう書き記したシャーリィのこと。

「……ところであんた、ホントに暇なんだね。あたしの話なんて流したっていいのよ?……生まれたての子猫様には、ちょいと重すぎる武勇伝だからさ」
「……にゃう。にゃん……」
「……ヘンなの。会ったこともないのにあたし、あんたのことは嫌いじゃないよ。なんかね、あったかい感じがする。……どこかで会ったことあるような、そんな感じ」

でも忘れちゃった。どこでだったかな。そんなことを呟きながら、ぱらりとめくった日記から小さな物音。ぱさり、と音を立てて落ちた小さな便箋は、数枚の綴りになっていて見覚えが無い。

「何これ?」

短く声を発して、ノーマはそれを拾い上げる。訝しげに開いて――しばしの静寂。

「これ、って……」戸惑ったような、絶句したような声音で、ノーマは強くそれを握り締める。握り締めるその手が少しだけ震えていることを、月しか知らない。月と子猫しか知らない。

「……あ、やだな、泣いちゃいそう。我慢しろ、あたし」
「にゃあ……?」
「あたし、これ……自分の目で見たこと、ないんだよ……。グー姉さんが居なくなったってこと、思い知らされるのが怖いから。笑って別れたまんまでさ、あのとき見送られたのはたしかにあたしたちの方なんだって、そう思っていたくて……」

懐かしい文字は思いのほか整って、神様だと名乗られた時のことをノーマはそっと思い出す。他人行儀に言葉を振り払おうとしたグリューネの本質は変わっていなかったのだ、と。そう最後に知ることが出来て、それだけで随分救われる思いではあるけれど。

「……ずるいよね?ひとりで頑張って世界救おうとしてさ、ホントに救って消えちゃうの。こんなちょっと出掛けてくるみたいな書き置き残して、……ホント、グー姉さんらしいよ……」

別れの挨拶を記したその手短な数枚の便箋は、あのころ過ごしたいくつもの思い出を鮮明に蘇らせる。数奇な運命に手を引かれて出会った彼らの終着点は、少しだけ、物悲しい別れを交えてまだ見えない。

「あたし、大好きだったんだ、グー姉さんのこと。……初めて会ったときはほんと、何も覚えてなくて心配になるばっかりだったけどさ。……でも、優しいんだ。誰よりも優しかった」

泣きたくなって胸に飛び込めば、頭を撫でて「ノーマちゃん、大丈夫?」と返してくれる。たったそれだけの触れ合いが、いったいどれだけの安心感をくれたことだろう。思いながら、ノーマは少しの涙に笑んでみる。

どんなに辛くても苦しくても、抜けっぱなしでほのぼのとした笑みを忘れない。そんな単純な女神様を、いつしか誰もが愛するようになった。それだけに、別れが辛くてたまらなかった。それがどうしようもないことだったとしても、ずっと一緒に居たいと思うばかりで。

「……でも、ちゃんと生きてくよ。ここはグー姉さんと一緒に守った世界だもん。旅が終わったとき、叱られないように頑張らなくちゃね」

そしていつか、あの少しとぼけた笑顔で「おかえりなさい」と言ってもらえるように。聞かせ足りないあれもこれもを、いつかうんざりするほど聞かせられるように。約束を忘れないように。――どうか、抱き締めてもらえますように。

「ね、だからあんたも強く生きて……って、……あれ……?」

「……ニャー子?」ノーマが子猫の名を呼べば、そのまま答えは返らない。つい先ほどまで傍らにいたはずの存在が忽然と姿を消していることに気がついて、つかの間、ひどく戸惑う。

「何よ、もしかして行っちゃったの?やけに人に慣れてたっぽいし、何だったんだろ、あいつ……」

疑問いっぱいにノーマが呟けば、満ちる月の光が仰々しく風に揺らぐ。

「……ねえ、グー姉さん。あたし頑張ってるよ。あれからさ、またいくつか新しいお宝見つけたの。……そうやって珍しいものいっぱい集めて、いつかそれを研究できたらいいなって思ってる。なーんて……やっぱさ、あたしってこんなんだから、まだまだ上手く行かないことも多いんだけど。……あーあ。こんなことばっかしてたら、……グー姉さんに会えるのは、きっとずーっと先なんだろうなぁ……」

ねえ、それでもあたしのこと忘れないでね。いつかちゃんとおかえりって言ってね。いつかあたしがおばあちゃんになって、何にもわかんなくなって、セネセネたちのことも、グー姉さんのことも、あたしが全部忘れちゃっても、それでも――。

『……大丈夫よ、ノーマちゃん』
「え……?」

そこでふと、ノーマの祈りをさえぎるように、柔らかな風が泉を凪いだ。幻想のようなせつなさで、ノーマの願いの傍らを、まだあどけなさの残る小さな白猫が駆けていく。

夜色に溶けてそれっきり、どこか凛とした白猫がそっと置き去って行ったのは――。

「グー姉さん……?」

――まるで全てを洗い流して行くかのような、優しい一輪の白色だった。