あの夢の続きを

今日ね、怖い夢を見たの。開口一番言ったソフィに、アスベルは真剣な面持ちで花壇に寄り添ったソフィの横顔を見やる。彼女が植えたクロソフィの花は今年も無事に花を咲かせ、今では風花になるのを待つばかりだ。

「……怖い夢?」
「うん。みんながいなくなって、わたしはひとりぼっちになるの。真っ暗な世界でね、目を覚ましたいのに、目覚められない夢」

「アスベルも、そんな夢を見ることがあるの?」不安げな表情を浮かべてアスベルに視線を移し、ソフィはそっと疑問を投げ掛けた。このところ、ソフィはよく前日に見た夢の話をする。内容はまだ起こるかも分からないような未来の話であったり、旅をしていた頃の懐かしい出来事の話であったり、単純にソフィの好きなカニタマの話であったり様々だ。

大抵はあまり暗い夢を見ることは無いようで、嬉しそうにアスベルやシェリアへ夢の話を聞かせてくれるのだけれど。――時折こうして、思い悩んだようにぽつりと夢を打ち明けることがある。

「手を伸ばしても、そこには誰もいないの。……あのね、アスベル。わたしね、ずっと生きていくことが怖いと思うのに……それが無くなったらと思うと……怖い」

永遠の命で確約されてしまった数々のを別れを恐ろしいと思うのに、それが約束されないことにも恐怖を覚える。まるで子供じみて我侭な考え方なのではないかと思いながら、ソフィは間引いたクロソフィの花束を抱えて、唯一の助けとばかりにアスベルへと答えを求めた。

「うーん、そうだな。死ぬとかひとりぼっちになるのが怖いとか、そういうのって誰にでもあるものなんじゃないか?」
「そうなの?……アスベルも?」
「ああ。俺だって突然世界がそんな風になってさ、おまえとかシェリアとか、みんなが居なくなったらと思うとぞっとするよ」

元来、人は繋がり無くしては生きていけない存在だ。だからこそソフィの言うように、すべてが無に還った世界に自分ひとりが残されるとするのなら、それは想像を絶する苦しみなのだろう。

ある日たったひとりの弟と生き別れることすら身を引き裂くほどの痛みを刻み付けるというのに、得体の知れない孤独をただひとりで彷徨わなければならないなら――たぶん、恨めそうなものをひとしきり恨んでも、まだ足りないほどだと思う。

「それにしても、夢、か。……夢っていえば、最近思い出したことがあるんだ。聞いてくれるか?」
「うん。……なに?」
「俺さ、騎士学校にいた頃、不思議な夢を見たことがあるんだ。ソフィの言った夢とは反対に、俺が見たのは光で真っ白な夢なんだけど……その光の向こうで誰かが俺を呼んでるんだ」
「呼んでる?……アスベルを?」
「ああ。夢の中でひとりきりの俺に、一緒にいるよ、大丈夫だよって、その声が言うんだよ。目が覚めたらすっかり忘れてそれっきりだったんだけど、ついこの間ふと思い出したんだ」

あれは、たしか騎士学校に入って二年程が経った頃のことだ。思いながら、アスベルはあの夢の頃の出来事を思い返す。強くなりたいと意気込んで入学した騎士学校で、ちょうどあの頃大きな壁に打ち当たっていたのだった。来る日も来る日も訓練に明け暮れ、寝る間を惜しんで励んでもどうにも結果が付いてこない。大口を叩いて飛び込んだ世界は思うより遥かに厳しく、アスベルにひどく大きな挫折を味わわせたものだった。

夢を語れる相手はあれど、泣きを入れられる相手は誰ひとり居ない。あの夢を見たのは、アスベルが究極までに支えを欲していたころのことなのだ。

「今思えばその夢を見た後くらいからかな、今までの苦労が嘘みたいに結果が出るようになってさ。もちろん夢自体を覚えてなかったから、その時はその夢のおかげかどうかは分からなかったけど……」

聞き入るソフィに微笑みながら、懐かしさと嬉しさの入り混じった表情でアスベルは語る。――自分を救った光の向こうの優しい声音。たしかに響いたその声の正体は、今ならはっきりと答えることが出来る。

「あ……」
「ん?どうした、ソフィ?」
「……あのね、アスベル。その声は、……もしかして、わたし?」
「ソフィ?もしかして、おまえ……」

覚えてるのか。今から打ち明けようとした事実を先回りに告げられて、驚いたアスベルはぽつりと呟いた。言い切る前にソフィはこくりと頷いて、抱きしめていた花束に目をつむって頬を寄せる。

「アスベルの話を聞いてたらね、……思い出したの。わたしがアスベルたちの中で眠っていたころ、わたしも夢の中で夢を見たの」
「夢の中で、夢を?」
「うん。止まったまま、夢を見たの。とても……あったかい夢」

言ってから、ソフィはたどたどしくもいつものように、夢の話を語り始める。ラムダとの戦いに傷ついたソフィは、粒子となってアスベル達の命を繋ぎ、自らもまたその機能を停止した。それはずっとあたたかな陽だまりに触れているような心地よさだったのだけれど、時折、記憶の海に投げ出されるような感じがすることがあった。

初めてラムダと相対した夜の記憶や、目の前で少女が魔物に殺されてしまった夕刻の記憶。目の前を流れていくそれにはいろいろなものがあったけれど、それとは別に、もっとまっさらな夢を見たことが一度だけあった。その夢にはアスベルの語ったものと同じように真っ白な光が満ち溢れていて、ひとりぼっちのまま夢が終わってくれる時を待っていたら、遠い場所から声が聞こえた。

「……それはね、アスベルの声。わたしを忘れないよって、アスベルが言ったの」
「俺が……?」
「あの時はわからなかったけど、今ならわかるよ。あれは、アスベルの声だった」

それから少しして、ソフィは再び裏山の森に降り立った。すべての記憶を失って、あの頃顔も知らないアスベルとシェリアのことを、どうしてだか守らなくてはいけないような気がして、守った。

「わたしがここにいるのは、アスベルのおかげ。アスベルがわたしに声をかけてくれなかったら、あのまま二度と目が覚めなかったかもしれない」
「え……そうなのか?」
「うん。アスベルが夢の中で呼んでくれたから、わたしは行く方向を間違えなくて済んだんだよ」
「そっか……。でもさ、それならお互い様ってことだよな。本当に、ずっと一緒だったんだ。……七年も、気付かないままで」

命を落としたのだとばかり思っていたソフィは、アスベルやヒューバートやシェリアの命を守り、それぞれの中で生き続けていた。あたたかな心の中に静かな息吹を永らえさせて、長い時の先、再びめぐり合うために。

「……でも、俺のほうが借りがでかいよな。あの時聖堂に行こうなんて言わなけりゃ、おまえもあんなことにならずに済んだかもしれないんだし……」

言ってから、少し神妙な面持ちでアスベルは目覚めた時の喪失感を思う。ソフィが死んだ、と告げられた時の、償いようの無い絶望は、父であるアストンが死したと知らされたあの瞬間によく似ていた。

「ううん、そうじゃない。わたしがアスベルたちを守らなかったら、わたしはラムダと対消滅してた。……アスベルの全部がわたしを守ったの。だからアスベルが気にすること、ない」

ふるふると首を振って、少し焦ったようにソフィは言った。確かに聖堂でラムダと出会わなければ、いずれどこか他の地でラムダと出会い、同じような攻防を繰り広げたことだろう。あの事故が起きたのは、広義に見ればアスベルのせいではない。言うなれば、アスベルたちは巻き込まれてしまった不運な子供に過ぎないのだ。

――けれどもし、花の咲き誇る裏山でソフィに出会わなかったとしたら。それを考えると、アスベルはいつも一抹の不安と多大な安堵を覚えるのだ。選び取らなかった未来はきっとひどく孤独に満ちて、今をどう生きていたかなど到底分かったものではない。ただ――ただひとつ、ただふたつ、確かなことがある。

「結果的におまえを守ったのが俺なら、俺の大切なものを全部、守ってくれたのはおまえだよ、ソフィ」
「アスベル……?」
「シェリア、さ。子供の頃に病気だったのはおまえも知ってるだろう?」
「うん。シェリア、いつも苦しそうだった」
「……ほんとはさ、シェリア……いや、俺も後で知ったことなんだけど、大人にはなれないだろうって言われてたんだ。医者もさじを投げてたらしい。奇跡でも起こらないことには回復は難しいだろう、って」

旅が終わってからしばらくして、シェリアにそれを告げられた時は、アスベルはひどく後悔したものだった。シェリア自身は薄々それを勘付いていて、だからこそ、本当は誰にも行ってほしくはなかったのだと。ただの我侭かもしれないと分かっていたけれど、ひとりでこの街に死んでしまうのが嫌で、行かないでと言わずにはいられなかったのだと。

そう言葉にしたシェリアは、「ごめんなさいね」と一言だけ謝って、ほんの少しだけ怖かったのだと泣いていた。自分がここにいるのは奇跡以外の何物でもないのだと。だからこそソフィのことは、全てに代えても守りたいのだと、そんなことを語りながら。

「……全部終わってからそんなこと言われてさ。俺、本当に不甲斐無いったら無かったな」
「もしシェリアが居なかったら、アスベルはどうしてたのかな。違うお母さんを家に呼んだ?」
「どうかな。それこそ家を継ぐなんてまっぴらだって、全部放り出して家出してたかもな」

冗談交じりに言いながら、アスベルはシェリアの居ないラントを想像してみる。居て当たり前の存在が忽然と消えてしまう虚無感は、もうこれ以上味わいたくはない。

「……そうしたらきっと、ヒューバートと会うことももう二度と無かったのかもしれない」
「シェリアがいないと、ヒューバートも、もう会えなかったの?」
「ちょっと違うけど、まあ似たようなものかもな。……なんか、変な感じだよな。兄弟なのに、別れたっきり何十年も会わないままなのが普通になるかもしれなかったなんて」

そう、それだって、ソフィという存在が繋ぎとめてくれた奇跡のような絆なのだ。たったひとりが全ての欠片を繋いでくれる。失ってしまったら、何もかも失ってしまうほどの――小さくてとてつもなく大きい存在。それがソフィだ。尊くて、愛しくて、全てを懸けて守りぬけるほど大切な。

「だからさ、俺の大切なもの全部、守ってくれたのはおまえなんだ、ソフィ。だからやっぱりお互い様、だな」
「お互い様……おあいこ?」
「そう、おあいこだ」

そっか、よかった。アスベルの言葉に花が咲くようにふわりと笑って、ソフィはクロソフィの花束を抱えて立ち上がる。――ふいに、視界がぱあ、と明るく馳せた。

「あ……風花……?」

ぽつり、言い放たれた言葉にアスベルも花壇を見やってから、すぐに庭に広がる大空を仰ぎ見た。次々とまばゆく光る紫の花々。空へ打ち上げられたそれらはゆらりと穏やかに空を舞って、どこか遠くの地へとその種を運ぶのだろう。

――風に吹き上げられた紫が、太陽に照らされて白々とした光を放つ。その光はどこか、二人を救った幸福な――まるであの夢の続きのような、ひどく凛とした輝きを放っていた。