境界線

あの男を、恨んでいる。おそらく誰よりも、何よりも。降り止まぬ雪にぼんやりと窓の向こうを見つめてみれば、あの日の景色がふと思い返された。そう、たしかあの日もこんなふうに、ひどく穏やかな雪がちらついていた。

アウトウェイ家の名も無い一家臣の少年が、ロンダウへの謀反を企てたのだと。そう慄くように告げた周囲の人間の反応が、常日頃の小競り合いとは一線を画していることにはすぐに気付いた。それより以前から、その少年のことは知っていた。赤色の瞳を持つ若き豪傑。強い光を宿した、不思議と人を惹きつける少年。何事にも冷静で、とりわけ剣の分野には天賦の才を持つ彼に、あの頃すでに敵は無かったのだと聞いている。言葉を交わすことはそれほど多くは無かったが、父親に付き添った先で何度も顔を合わせるたびに、こちらをじっと見据えていた記憶がある。怒りでも、羨望でもなく、ただ何かを見通すような眼差しで。

思えばその時から、あの瞳に囚われていたのかもしれない。射抜くような深紅のそれは、責め苦のようにも映るのに、確かに希望を見出させもしたものだから。

「……馬鹿げている」

無人の部屋でそう呟けば、自らの言葉の毒気の無さに愕然とする。あの男は仇だ。覇道のために部族の人間を殺し、力で全てを制圧した人間だ。

俺がロンダウの人間だからと、それを咎められたことは今まで無かった。津波を予期した少年の進言を撥ねつけた一族の重鎮を責めはすれど、責任を転嫁するような真似を、あの男は決してしなかった。それがまた、憎らしかった。どんな時も自らの行為を正しいと信じ突き進んで行く。ロンダウ族の掃討も、所詮はその過程で必要に迫られたから実行されたひとつに過ぎない。そうしてそこに一切の私的な感情が交わらないことに、いつも殺してしまいたいほどの怒りを覚えるのだ。

「……入るぞ」

とりとめも無く記憶を呼び起こしていれば、ふいに扉の開く音がする。一言添えられた低音に、俺は振り向かずに神経を尖らせた。――振り向くことなど、必要には値しない。この部屋に断りもなしに踏み込んで来る人間など、ア・ジュール中を省みたところで唯一人しか存在しはしないのだから。

「……何か御用ですか、陛下?」

今しがた思考していた事が事だけに、意識して冷静を取り繕えば、ガイアスは「いや」と一言だけ零し、躊躇いも無くこちらに向かってくる。遠慮の欠片も見られないそれが無粋だと思えないのは、それが慣れた行為だからなのか、それともこの男を相手にしているが故なのか。

――突き詰めて考えたことは、ある。ただ結論を出すのを放棄しただけだ。あの時は。

「通り掛かったので寄っただけだ。……だが、理由を作れと言うのなら、無いことも無い」
「……お聞かせ下さい」
「首都外れの空き地に共同施設を建築したいと民から陳情があった。手の空いている時にでも対応を頼む」
「施設を……了解致しました。手を回しておきましょう」

言えば、それで許しを得たかのようにガイアスはふっと笑って、俺の隣に立ち、窓の向こうの雪を見つめる。

別に、毎度こうして急な訪問への理由を求めているわけではない。だが、無理にでも距離感を測らねば時折、ひどく揺らぐ瞬間があることに気付かされてしまうのだ。古くから根を張り続けた底知れない憎悪が薄れ、越えてはいけない境界線を、いとも簡単に越えてしまいそうになる。

それは、俺にとって何よりの禁忌だ。それでなくてもあの日に一度、俺はロンダウを裏切りこの男に忠義を誓った。それが俺自身にとってどれほど罪深く、同時に赦し難いことなのかも理解している。

――それゆえに、消せない。消してはならない。この殺したくなるほど満ち溢れた憎悪の情を振り払ってしまったら、あとは甘さに堕ちて行くだけだ。この男の隣にあるために、この男を隙あらば殺してしまえるほど近くに在るために、俺自身が強さを保っていられるように。言わば矛盾したこの感情こそが、俺自身の最後の砦だと理解しているから。

「覚えているか、リィン」

そこでふと俺の思考を遮るように、虚を突いて古い名を呼ばれる。確信的なその物言いに、良くは無い予感が駆け巡った。――ああ、また。こうしてこの男がその名前を呼ぶその時、放たれる言葉は決して俺を逃がそうとはしないのに。

「……この景色は、お前を下した日によく似ている」
「……っ」

俺の自問を見透かしたようにそう言って、ガイアスはどこか挑発的なふうに俺を見やった。二人きりの空間でのみ音にされるその名前は、鍵を掛けたはずの俺の感情をいつも強引にこじ開けてしまおうとする。その度に、この男もまた、対等な一人の人間であることに気付かされてしまう。

――抵抗、出来なくなる。それをされる度に、全てを壊してしまいたくなる。あらゆるしがらみを忘れて、囚われようと思い続けている憎しみがこの男自身に増幅させられて、まるで制御が利かなくなってしまう。

「……俺はまだ、忘れてはいない」

敗北の屈辱も、お前が一族に加えた制裁への恨みも。言葉を繕うことも忘れて言えば、隣に立つ男は動じもせずに少し笑った。

「当然、解っている。俺を恨むなとも言わぬ」

それに値するだけのことはした。間違っていたとは思わぬが、割り切れと強いるほど非情であるつもりも無い。そう語るガイアスの一言、一言が重く響いて、その度に、自分自身が耐え切れぬほどの負の感情に満たされていくのが分かる。

「……っ、アースト……っ!」

とうとう我慢がならなくなって、俺は勢い任せに飛び掛かり、目の前の男の首元を掴んだ。ああ、まただ。いつもと変わらぬ無表情。まるで俺のことなど見透かしたように、抵抗するでもなく、ただ俺の目を見て黙り込む。諭すでもなく、咎めるでもなく、受け入れるでもなく。ただそこに在ることを示しているかのような、明瞭で力強い、赤。

「力を込められないのは弱さだな、リィン」

馬乗りになられながら尚も冷静に笑うこの男がどうしようもなく空恐ろしく、疎ましく、そして何より愛おしい。いっそ剣を手にしていたなら、思い切って振り下ろせただろうか。――そこまで思いはすれど、答えは否だと理解してもいる。剣を突き付けることなど、もはや数え切れぬほどに試みている。心からこの男を殺したいと切望し、喉元に刃を突きつけ、力を込めれば全てが終わるところまで持っていけたことも、数度とは言え過去にはあった。

――そう、殺せないのだ。どれほどこの男を殺めてしまいたいと願っても、殺してやりたい本能の、さらに奥底の部分が必死にそれを否定する。必要な男だ、と警鐘を鳴らす。世界にとってではない。「この男はお前にとって必要な存在なのだ」と。

「お前が道を違えでもすれば、すぐにでもその首を落としてやる」
「……ならば間違いをなさねば、お前は俺を殺せまいと?」

それほど俺を恨むにもかかわらず、なおも手を下せぬと、そう言うのか。微笑して、目の前の男は俺に向かって片手を伸ばす。頬に触れられる感覚がして、飛び退きそうになる衝動を寸前で諌めた。

「っ……!」
「……いいだろう。ならばリィン、お前はその痛みを忘れるな。憎しみを持ち続けろ。……そうして俺をその憎しみで縛れ」
「アースト……?」
「お前はお前の正しさをもって俺を断罪して構わぬ。その代わり、俺が道を違わぬうちは、俺の手となり足となり、その智略をもって、何があろうと俺を生かせ。……今まで通りに、な」

にやり、と笑って俺に触れる手を離したガイアスに、少しの安堵を覚えかけて一瞬。ふいに力が掛かって、身体ごと軽々と引き倒された。

「何を……!」
『この身をもってお前の忠誠を受け止めよう。リィン・ロンダウ』

聞き慣れた言語を耳元で囁かれ、驚きからそのまま身動きを取るに取れなくなる。その声色をひどく心地よく思えてしまう自分に失望して、けれど矛盾したままどこか、高揚感に満ちていくのが分かる。

――ああ、本当に他人を捕らえるのが上手い男だ。思って深紅の瞳に視線をやれば、ガイアスは余裕の表情で俺に視線を返してくる。

俺に自分を縛れと申し立てておきながら、誰よりもこの男は俺を縛る。果たして自覚があるのか、それとも無いのか。それさえどうでも良いと思えるほどに、強く心を囚われる。

『……全て陛下の御心のままに』

まるで儀式のように、新たに約束を取り交わす。それでこの想いの複雑さが変わってくれるわけでも、ましてや積み重ねた恨みが消え失せることすら、何ひとつが有り得ないことだと分かっていても。