止まった世界

「リッド」

後ろ姿を見つけて、呼び止めたのは何となく、のことだった。どうせいつも面倒がられてしまうと分かっているはずなのに、昔から不安になるたびリッドのことを呼び止めてしまうのは、いったい何から来る衝動なのか、実のところ自分でもよく分かっていない。

それでも、ふとしたときに何故だかリッドの声を聴きたいと思ってしまう。たとえば言いようのない恐怖を感じたとき。あの頃の記憶から逃れられないときや、自分がどうしようもなく頼りなく思えてしまうとき。そんなとき、リッドの声を聴くだけで、わたしはたくさんの後ろ向きなわたしを蹴散らしてしまえるような気がするから。

「……どうした?」

わたしの声に気が付いたリッドは、「ファラか」とだけ言って、あの頃のような呆れた表情を見せずにわたしのことを振り向いた。こんなところを目にするたび、やはりリッドは変わったのだということを思い知らされる。

旅に出る前、その日暮らしの事なかれ主義だったリッドは、アイメンの惨劇があった頃から少しずつ変わっていった。剣の腕が磨かれていったのも確かだけれど、それ以上に世界を、誰より仲間を思うようになっていった。

昔のリッドはもっと何事に対しても諦めが良くて、必要以上を望まなかったのだ。わたしはそんなリッドをリッドらしいと思っていたけれど、今思えば、あの考え方自体がリッドの諦め、みたいなものだったのかもしれないなと、思う。

「……ううん。見つけたから、ちょっと呼んでみただけ!」

元気いっぱいなふうを装ってそう言えば、リッドはあまり納得していないような表情で「そうかぁ?」とだけわたしに返す。

「じゃ、ただ呼んだだけかよ。まったく……」

続けたリッドはわざとらしく溜め息をついて、「ま、別にいいけどな」と言い添えてちょっとだけ笑った。

リッドのこの無邪気とも言える笑顔を見ると、わたしはいつもどうして良いかが分からなくなる。リッドの笑顔はわたしをとても安心させてくれるのだけれど、同時に時々、ひどく重い罪悪感に駆られてしまうから。

だって、幼い頃に幼馴染二人を巻き込んで笑顔を奪ったのは、わたしなのだ。忘れてはいけないことだと分かっているからこそ、ずっとずっと、自分にさえもひた隠しにして後悔し続けてきた。ようやく告げられたからといって、許されたからといって、すぐに忘れられるようならもう、とっくの昔に忘れてしまえていたのだと思う。 

「……ねえ、リッド」

口をついて出そうになる言葉をどうにか押しとどめたまま、わたしはやっぱりリッドの名前を呼んでみる。――許さなくていいんだよ、わたしのこと。そうやって言ってみたなら、リッドはわたしに何と言って呆れるだろう。

「ほんっと、煮え切らねーのな」
「え?」
「言いたいことあんなら言ってみろって。今更だろ?ファラが無茶苦茶言うなんてのはもう慣れっこだぜ」

そうしてわたしが黙り込んでいると、リッドは呆れ半分、いたずら半分にそんなことを言い出した。それが何故だか無性に気に入らなくって、素直に受け取れそうにないものだから、わたしはまた幼い頃のことを持ち出しては「あのこと」に繋がる記憶をわたし自身で突付いてしまう。

「なによ、リッドだってわたしが言うことにはいつも怒ってばっかりだったじゃない。あんまり怒らせてばかりじゃいけないと思って、……遠慮してあげたんだから」
「へいへい。けど、そういう遠慮がファラらしくないって言ってんだよ。んで?……どした?」

わたしの言葉を聞き届けたリッドは、てんで何とも無いといった調子でわたしの言葉を振り払って、それでも何があったか聞こうとする。昔なら「もういい」なんて言ってそれっきり、しばらく意地を張って口も利かない毎日が始まるところだったのに。

昔にとらわれて、変われていないのはわたしだけなのかもしれない。思えば思うほど、それが決定事項のように思えてきてしまって、そんな自分がいやになる。

「わたしは、別に……」

大丈夫、なんでもないの。言いかけて、言い切ることが出来ない自分が情けない。

思えばきっと長い間、わたしは自分のことが嫌いだった。誰かに尽くすことで過去の自分を清算しようとして、ずるいと思っていてもそうすることしか出来ない無力なわたしが――そう、とても嫌いで――だけれどリッドやキールを好きでいたいから、自分を嫌いになりきることすら出来はしなかった。

いつでも予防線を張って生きていることに気づかされたのは、レイスに出会って疑問を投げ掛けられてからのことだった。あの頃のわたしは、ラシュアンでのことをとっくに過去にしてしまったつもりでいたのだ。目の前にある痛みから逃げ続けていたことに気付かずに、誰かに世話を焼きたがるのはわたしの性格なのだと決め付けて、いつだって真っ直ぐに走っていけているつもりでいた。

「……ねえ、リッド。リッドは……わたしのことを許さなくても、いいんだよ」

音にした声が弱っていくのを自分でも感じながら、気付けばわたしはリッドにそう告げていた。許すとか、許さないだとか――そんなことをわたしが口にするのは傲慢だと分かっているけれど、それでも言わずにはいられなかった。

わたし自身のことは、今更どうだって良かった。ラシュアンでほとんどの罪を黙って被った、リッドのことが気になった。あの時のことがあってから、リッドはわたしよりもずっと、あの村で快く思われていないことをわたしは知ってる。――知っていて目を瞑っていた。わたしも同じだけ罰せられている気になって、わたしの罪をとことんまでに見過ごした。だから何より、今はそれだけが気になった。

「……んなことまだ気にしてたのか。いいって、俺は別に気にしてねえよ。大体、レグルスの丘でのことはファラのせいじゃないってはっきりしただろ?それならそれでいいじゃねえか」
「良くないよ。……わたしのせいかそうじゃないかなんて、それはね、もういいの。……だけどやっぱりわたしがレグルスの丘にリッド達を連れて行かなければ、長い間あれがリッドのせいになることもなかったもの」
「そんなの、連帯責任ってやつだろ?ファラも、キールのやつだって、一緒に散々絞られたじゃねえか」
「嘘。……わたしね。リッドが村長に言われたこと、知って――」
「――今すぐにでも出て行ってもらいたいところだが、まだ子供だ。仕方ないから今はこの村に置いてやる。村の人間に災いしかもたらさないような奴が、追放にならないだけ幸せだと思え。……か?」
「え……」
「ま、たしかにあれは割と来たけどな。けどさ、いいじゃねえか。俺もファラも、結局は追放されずに済んだんだ。今は疑いも晴れて、ネレイドの野郎も消えちまった。後ろ暗いことなんか何もねえよ」

「そうだろ?」言いながら、食い下がるわたしにリッドはやっぱり優しく笑って、わたしの頭をニ、三度撫でた。過去にこだわったってしょうがないだろ。過ぎちまったことは取り戻しようがないんだから、これからのことを考えようぜ。ぽつりぽつりと降らされる言葉たちは、どこか重みがあって、いつだってわたしの心に心地よく響く。

「……リッドは、強いね。キールもメルディも、旅の中ですごく変わった。変わってないのなんてわたしだけかも!なーんて、……ちょっと思ったりして」
「ばーか。ファラは変わらないからファラなんだろ?それに、キールもメルディも大して変わっちゃいないぜ?セレスティアで会ったあいつら思い出してみろよ。キールは研究に没頭、メルディは誰彼構わず抱きつくわ、ソディの量は相変わらずだわ……」

言いながら、リッドはセレスティアの料理を思い出したのか、少しがっかりしたような表情で溜め息をついた。メルディが特別料理下手というわけではないのだけれど、インフェリアンにとって、セレスティアの料理は根本的に味が濃すぎる印象を抱かせる。

「ふふ、そうだね。……ありがとね、リッド。わたし、リッドがいるからいつも頑張れる気がするんだ」
「なんだよ、いきなり」
「ほんとだよ?不安な時にね、リッドの声を聴くと安心するんだ。……だから余計、怖かったの。わたしのせいでリッドまでラシュアンの人達に疎まれることになって……それをわたしの弱さのせいで黙って見過ごしたことが、わたしは許せなかった。許せなかったはずなのに、あの頃のわたしはそれを許しちゃったから」
「……だから俺がファラを許さなくても仕方ない、ってか?」
「うん。……でも、だめだよね。それも逃げてるだけなんだって、ちゃんと分かってるんだ」

「もう、ちゃんと前に進まなきゃ」わたしは自分に言い聞かせるようにそう言って、自戒の意味を込めて少しだけ首を振ってみる。いつまでも、止まった世界に生きているわけにはいかない。自分を守ってくれる大きな殻に頼っていたら、いつか大切なものを見失ってしまう気がするから。

そんなことをぼんやりと考えながら、わたしは「うん、きっともう大丈夫」なんて、強がる子供みたいに笑って見せる。隣を歩くリッドはそんなわたしに「そうだな」と一言だけ笑って呟いて、ラシュアンの高い空に向かって一度、大きく強く伸びをした。