記憶の檻

――泣き出しそうになるのが癪だったから、一人で抜け出して来てしまったけれど。宿の外れに置かれたベンチに腰掛けて、あたしはぼんやりと先程の夢を思う。

寝覚めに残ったのは、もうずっと昔の夢だった。天才と謳われ除け者にされた随分古いその記憶は、それごと原動力に変えて生きてきたつもりだった。そうでもしなければ、物寂しくなりがちなあの年頃の自分が、突きつけられ続ける現実に耐えられそうになかったから、なのかもしれない。

別に心まで壊れてしまう、と思うことは無かった。いつだって自分を裏切る傲慢な大人たちとは違って、魔導器は決してあたしを裏切らなかったから。

どこの誰が手を差し伸べようが、いつ何があたしを捨ててしまおうが、あの子たちだけはあたしを無碍にしたりはしない。見返りなんてそれで十分だった。それだけで十分、あたしはあの子たちから与えられていたのだと思う。

「……なのに、なんで今更」

腹いせに呟いてみても、決して答えは返らない。――分かっているのに答えを期待する自分が非論理的で、なんだか余計に腹立たしい。

あの夢は旅に出る前日、アスピオで一度目にして以来だ。浅いまどろみの中で笑うあたしは、それこそまだ世の中に淡い期待なんかを持っていたりして、何事をも純粋に信じていた。その結果が孤立無縁の変人扱い。本当、馬鹿げていると思う。あの頃あたしが寄せた無条件の信頼が、結局どれほど負の遺産になってしまったかなんて、今ではもう計り知れないくらい。

「……何よ、あれからは一度もなかったってのに」

そう言えば独りではなくなってから、ぱったりとあの夢を見なくなった。辺りを歩けば後ろ指を差され、嫉妬心からのこじつけめいた罵声を浴びせられ、挙句、親の居ないことを持ち出されては疎まれた。

理論を受け入れてもらえず崩壊していった土地もいくつか見てきた。学会のお偉い方は、年端も行かないあたしにあれこれ入れ知恵されるのが不愉快だったのかもしれない。けれど、そんな悠長なことを言っている間に死んでしまった大地が今、結局あたし達に報復している。そんなことを考えれば考えるほど、苛立ちが募って我慢ならなくなる。

――それがエステルの痛みに繋がっていると思うと尚更だ。あたし自身の不甲斐なさにも、つまらない大人の保守心理にも、とにかくうんざりしてしまう。

「現象」に名前が付いているあまり、いつだってあの子ばかりが犠牲の対象にされる。満月の子でなくたって、エアルを消費する原因はいくらでもあるはずなのに。生きて明確な事象を引き起こすと分かるや否や、始祖の隷長はあの子ばかりを攻撃しようとする。

「……お、いたいた」

そんなことを考えていたら、宿から慣れた人影がひとつ。すぐには気付かず驚けば、「なんだよ、化けもんでも見るような顔しやがって」と、いつもの憎まれ口が叩かれる。

「仕方ないじゃない。あんた、黒すぎんのよ」

ユーリの黒髪は夜にまぎれてしまうから、こんな夜更けだと認識が遅れる。服装も常に黒っぽいものを着ているせいで、月に反射する剣や魔導器が無ければすぐに特定することは難しい。

「そりゃ悪かったな。……んで、どしたよ。散歩か?」
「別に。あたしがどうしようと勝手でしょ」
「それもそうだ。んじゃ、オレも勝手に」

言ってから、ユーリはあたしの隣に腰を下ろす。思わず「はぁ?」だなんて不満を口にしてはみたものの、結局呆れてしまって「別にいいけど」とだけ息づいた。

「まさか起こしたっての?あんた」

あたしがあれだけ気をつけて出てったってのに。そう嫌味を含めて付け加えれば、「まあな」とユーリが一言返してくる。

「ちょっとの物音で起きるんだよ、オレ。昔っからな」
「ふーん。浅い眠りは身体に毒よ」
「……それ、おまえが言うのかよ」
「あたしはいいのよ。寿命より研究のが大事」

言ってのければ、ユーリは苦笑して視線だけをこちらにやった。この言葉に嘘はない。元々いつまであるかも分からない寿命を延ばそうと躍起になるより、今解明出来そうな謎に向き合った方が有益だ。世の中の疑問は増えていくばかりだと言うのに、それらはすべからく、こちらの都合に構ってくれはしない。それなのに、短い一生で紐解くことの出来る理論なんてあまりに少ないから。

――それにしても。

「……警戒心が強いのね。あんた、意外と」
「は?」
「普通、寝食を共に出来るレベルになると感知感覚は鈍るのよ。つまりは身内として一括りにするようになるわけね。あたしのあの物音で気付くって、相当だわ」

通常、これほど長く付き合いを重ねれば、ちょっとやそっとの所作が他者にあったところで、それほど気に掛けて生活することは無くなる。相手を思いやる以前に、自分自身が安心してしまうのだ。言うなれば相手の機微に気が付きやすい、というのは、何より自分の警戒心が強いことの証明になる。

「これでも騎士団に居たんでな。そのせいじゃねぇの」
「だから、その反射的な反応自体がすでに外敵に向けられるもんだって言ってんのよ。安全性が約束された閉鎖的な空間で些細な物音に共鳴すること自体、そもそも一定の境界を超えてるってこと」

もちろん、野営となれば話は別だ。ほんの少しのざわめきにすら気を回し、小さな変化も見逃さずに夜を過ごすことは、各々の自衛手段として必要不可欠に違いはない。一般的にはそれも見張り番を立てることで軽減されはするのだが、この様子を見る限り、ユーリにとってそれはあまり意味を為さないのだろう。おそらく。

――そう。手っ取り早く本質を知る方法がある。たとえば。

「ユーリ、ちょっとこっち」
「あ?……って、おい!」

ぱし、と小気味良い音がして、ふいに近付けられたあたしの手を、強い拒絶を滲ませたふうにユーリが払う。

「思った通りね。もうちょっと控えめに振り払ってくんない?痛いんだけど」

わざとらしく両手を音立てて払えば、訝しげな顔をしてユーリはあたしを見やった。

「……おまえが突然手出して来るから悪いんだろうが」

飛んでくるユーリの正論を無視して、あたしは今しがたの結果に少しの満足感を覚える。

警戒心や猜疑心の強い人間は、必要以上に相手との接触を退けたがる傾向がある。もちろん突然の行為だけあって、少しくらい仰け反ったりする程度は当然の反応ではあるのだけれど、やっぱり今のは少々度を超えている。そんなところ。

「今のが証明。否定しても無駄よ」

この実験は汎用的で、手軽な割に正確性を求められるのがいいところだ。本質的な状況を鑑みつつ、相手との距離を測るのに有効な手法。実証なら、認めたくはないけれど、あたし自身で済んでいる。

「それだけじゃ意味わかんねぇって。つまりどういうことだよ?」
「簡単なことよ。本人が相手との距離を感じていなくても、潜在意識下で溝はいくらか生まれてるの。恣意的に反射的な事象を引き起こしてやると、相手への拒絶が強ければ強いほど、ヒトはそれを強烈に回避しようとする、ってだけ」

ま、気にすることないわ。あたしもだから。言えば、ユーリは言葉を選び損ねたのか黙り込む。

「誤解の無いように言っとくけど、あたしは別にあんたも、皆のことも嫌いじゃないわよ。……だけど、あたしがそれを許すのはエステルだけ。受け入れられないのよ、残念ながらね」

言いながら、先ほど見た夢を思い出して陰鬱な気分になる。あの頃手を取っては裏切られたせいで、今ではほとんど全ての手のひらを受け入れられなくなってしまった。別にそれを不自由だと思ったことはないけれど、自らに課せられた数々の痛みが今もなお、あの子以外の手を触れることを許さない。

「……何よ?」
「いいや。いろいろあったんだな、と思って」
「それはあんたもでしょうが」
「オレは騎士団も自分から退役してるしな。別に迫られて身動き取れなくなったわけでもねぇ」

軽薄な調子で笑って、ユーリは夜闇に視線を流す。

勝手な推測だけれど、ユーリが唯一ふいの接触を許すのはたぶん、ユーリの親友だけなのだろう。正義に貪欲で行動力もある割に、ひどく頑ななこの牙城を崩すなら、並大抵の存在では及ばない。

「ねえ」
「ん?」
「ついでだから、……あたしの独り言、聞き流して行ってくれない」

急に思い立って言えば、ユーリはくすりと笑って「どうぞ、お嬢様」と心にもない調子でおどけてみせる。何故今話す気になったのかは分からない。あるいは、どうしても答えを欲しているのかもしれない。懐かしいほどに痛みに満ちたあの夢の、真理を。

「さっき、夢を見たのよ。……懐かしい夢だったわ。そして忌々しい」

語りだせば、ユーリは視線もそのままに、黙ってあたしの言葉に耳を傾ける。「夢、ねぇ……」そう呟いた一文が無感情に中空へ消えてから、あたしは続けた。

「小さい頃からあたしの周りの人間、恨み妬みの醜い奴らばっかだった。どうせ自分から動こうともしないくせに、ほんっと……どいつもこいつも」

利用できるものは徹底的に絞り上げ、必要が無くなれば簡単に廃棄してしまうような奴らだった。人間性のかけらも持たないような奴らばかりが蔓延る下賎な外界が、あたしは昔から嫌いだった。

「そんなんだから、あたしは一人で研究さえしていられればそれで良かったのよ。誰かの顔色窺うのも裏切られるのも真っ平。それなのにあいつら、今度はそれを責めるわけ。ガキのくせに生意気だ、とか何とか言って。……何だか知らないけど、いい迷惑だわ」
「出すぎた杭は何とやら、ってやつか?ま、よくある話だな」
「……あたしに親が居ないのは話したわね。それを盾に研究成果ごと横取りされそうになったこともあったわ。面倒見てやるからその技術寄越せ、ですって?ほんっと、バッカじゃないの。こちとらあんた達に面倒見てもらわなくたって、食い扶持くらいなんとかするってのよ」

思い出せば思い出すほど苛立ちが募るのが分かって、そこで一度言葉を切った。怒りの合間にせりあがる別の感情が煩わしくて、その波が去ってくれるのを少し待ってみる。会話が途切れてもユーリは特段気に留めたふうをせず、こちらも見ずにあたしの言葉を待っている。

――酷いものだったのだ、思い出せば出すほどに。罵倒の限りを尽くされた自分自身を、別に可哀想だと感じたことは無い。異端を排除しようとするのはある意味人間のあるべき姿だし、それゆえに、あたし自身が非凡であると自惚れることだって出来た。

それでも、突然こうして思い出す。過去のものとして割り切れない理由が分からない。思い当たらないのだ、どうしても。

「……こんなの、所詮は過ぎたことだわ。なのにこうして思い出す。……どうしてよ。本当、意味わかんない」

何度考えてもそれがあまりにも合理的ではないせいで、答えが霧散してしまう。記憶が都合良く動かないことだって十分心得ているつもりだけれど、あたしの中でのこの件は、あまりにも無価値で無色なのだ。とにかく、どこまでも。

「……トラウマ、ってやつか」
「え?」
「気付いてねぇんなら気付いておいた方がいいんじゃねぇの、そういうのは」

後で厄介だからな。そう当然のように呟いたユーリの意図を理解できず、あたしは答えに逡巡する。

「……どういう意味よ?」
「知らないうちに抱えてるってのは誉められたもんじゃねぇってことだよ。ま、そういうのは大概本人も気に病んでるとは思ってねぇけどな」
「トラウマ、ったって……あたしは別に……」

そこまで言って、一旦は治まったはずの衝動が再び駆け巡っていくのが分かる。

――記憶に触れれば触れるほど、痛みの波に呑まれて泣きたくなる。毎度、毎度欠かさずそうだ。悲しいと思ったことなんて無いはずなのに。そうならないように、あたしは独りを選んだはずだって言うのに。

「泣いてもいいぜ?見なかったことにしてやっから」
「誰が……っ」
「あんま無理すんなって。限界まで行ってどうにもならなくなるよりマシだろ」
「あんたにだけは、……言われたくないセリフだわ」
「そりゃどーも」

噛み付くあたしを軽くいなして、それでも、ユーリはそこを動こうとはしない。ただ傍に居て、あたしの選ぶ答えを待っている。――ただ、答えを出すことが大事。その結論の中身がユーリにとっては何ら意味のないことも、あたしはちゃんと知ってるつもり。

思ううち、湧き上がる苦しさをとうとう留めきれなくなった。今まで理解しようとせずにいた事実に、突然、気付かされる。――悔しさ、とか。焦り、とか。苛立ちだってもちろんある。

――だけど、一番はそれじゃない。

そうして一粒落ちた涙を皮切りに、あたしは声を殺して叫ぶ。

「だって……っ、寂しいなんて、言ったら……負けた、みたいで悔しい、じゃない」

誰の後ろ盾が無くたって、独りで生きていけるって見せ付けてやりたかったの。堪えきれなくなった涙を何とか抑えようと力いっぱい瞬いて、あたしは続ける。

「足りないことが分からないんだから、……仕方ないでしょ。最初っから、何も持っちゃいなかったんだもの」

家族なんて無いも同然だった。顔も覚えていない。声も定かではない。はじめからこれほどに足りないのなら、余計に持っているもので補うしかない。

なのにそれさえも否定されてしまったら、それ以上、一体どこにあたしの出る幕があると言うのか。

「理不尽なのよ、いちいち……!本当、バカみたい……どいつも、こいつも……」

手に入らないものを持たないことに異を唱えて、他人が少し持ちすぎたものを羨んで、排斥しようと必死になる傲慢な奴ら。それに真っ向から抗えなかったことが悔しくて、何故だか、ひどく悲しい。

情けなくも震えた声でそんなことを言い切れば、聞き終えたユーリが「ご苦労さん」と、ほんの少しだけあたしへ笑う。必要以上に子ども扱いされるでもなく、かと言って戯言と片付けてしまうのでもなく、ひどく単純なその言葉は、今のあたしに心地よく響いた。

「本当、馬鹿よ……こんな余計なことまで、……話すつもりなかった、のに」
「ま、たまにはいいだろ。仲間なんだし、な」
「……他言したら、酷いわよ」
「はいはい、分かってますって」

そのくらいの約束は守るから、心配すんな。言いつつたじたじな様子のユーリを見やれば、それに交えて少しだけ、満足そうに笑っているのが見て取れる。

――言葉にしたら、どうしてだか気持ちが軽くなった気がした。こぼれ落ちる涙を拭って、あたしは真っ直ぐ前を見据える。

「進めそうだわ。……これなら、少しだけ」
「そっか。そりゃよかった」

んじゃ、そろそろ戻るとしますかね。頃合よく言ったユーリにあたしは立ち上がって、未だ明けない宵闇を歩く。

「ごめん。……ありがと」
「ん?」
「何でもないわ。行くわよ。朝にならないうちに」

そうしてほとんど音にならないままその言葉を口にしてから、あたしは気分良く星の浮かぶ夜を見上げた。

弱さを、受け入れてしまうことはまだ怖い。けれど、それでも――。思いがけず晴れ出した心の霧が、いつかまた――どこかで新しい手のひらを掴ませてくれるような、気がした。