その瞳に映るのは

花咲くラシュアンの外れの森で、ファラは青だけになってしまった空を見上げる。見晴らしの良いこの高台は、手を伸ばせば空にさえ届きそうな錯覚を起こさせるから、意味もないのに手を伸ばして空の向こうを求めてみたりしてしまう。結局それが徒労に終わることを知っていてさえ、空の青に抱かれてみたい些細な願いは消えてはくれないのだ。

「……なーにやってんだよ」

そうして身を乗り出してはひらひらと手を振っていたファラに、遙か下方から聞き慣れた声が掛かる。気がついたファラは「リッド?」と声の主に呼びかけて、今度は青空の向こうではなく、彼に向けて手を振った。

「空がすっごく綺麗なの!リッドもこっちに来てみなよ!」

屈託のない笑みでそう叫んだファラにリッドは「やれやれ」といった様子で首を振って、彼女の進言通りに梯子を伝った。

グランドフォールがあった後にも、何故だかこの高台は一応の原型を留めていた。村から立ち入り禁止の指定を受けるほどたしかに損壊してはいるのだが、およそ近づけないというほどではない。

――この場所はリッドとファラにとって、すべての始まりを告げる大切な場所だった。メルディがセレスティアからやって来て二人に助けを求めた、いわばここは旅の開始地点なのだ。

「……ったく、また立ち入り禁止も無視してずかずかこんなとこまで入りやがって。見つかったら村長が黙ってねぇぞ?」
「大丈夫だよ。バレないように気をつけてるから」
「どうだか……」
「大丈夫、イケるイケる。だって、そういうリッドだってもう十分入ってるじゃない」
「……俺はお前を探しに来たんだっての。別に入りたくて入ったわけじゃねえよ」

言ってから深く溜め息を吐いて、リッドはファラの隣で悠然とたたずむインフェリアの大空を望む。こうしていざ高台に立ってみると、ああ、やはりセレスティアと世界はかけ離れてしまったのだと、至極当然の結論をまざまざと認識させられる。

ここに至るまでに、数え切れないほど多くの出来事があった。時にひどく張り詰めた思いを各々が抱えて、半ば見過ごすように乗り越えてきたものも数多くある。――そして、その思い出の半分は今もなお、遠く離れたセレスティアの大地にあるのだ。

「ねえ、リッド」

「……何もない空って、なんだか寂しいよね」そう呟いたファラに思考を中断させられて、リッドは反射的に「そうかぁ?」とだけ一言返した。

「……ううん、寂しい気がするだけなのかもしれないけど。いつもはね、すごく綺麗な空だなって思うんだ。だけど時々、ちょっとだけ不安になる」

たとえば、曇りがかってしんしんと降り続く雨の日。たとえば、音の無い晴れた夜。

「……ま、生まれたときから空にあったもんだからな。俺だって違和感無いっつーことは無いけどさ」
「うん。……それに、たぶんそれだけじゃないの。わたしたち、セレスティアにもたくさん仲間が出来たでしょ?旅をしていた時は、離れたところにいても空を見上げればああ、みんなもあそこで頑張ってるんだなって思えたんだけど……」

それがね、何だかちょっと。曖昧に言い添えて、ファラは困ったように微笑んだ。とりわけセレスティアに残るキールとメルディが気に掛かるのだろう。

今この瞬間にもチャットがバンエルティア号の改修に取り掛かってくれてはいるが、まだ少々の時間を要すると言われている。何しろ宇宙間飛行に対応するというのだから、改造のスケールは今までとは段違いだ。必ずや成し遂げます、とたいそう意気込んでいたチャットだが、彼女自身も不慣れなインフェリアに落ちてきてしまった身とあって、あまり無理をさせるわけにもいかない。

「……しかし、チャットとバンエルティア号がこっちに落ちて来なかったらと思うとぞっとするぜ」
「そうかな?セレスティアに落ちてたら、キールとメルディにこっちに来てもらえばいいじゃない」
「ああ、いや、それはそうだけどな……」

――そうじゃなくて、お前だよ、お前。心の中で盛大に呆れ返って、リッドは濁した言葉の先を思う。ラシュアンのあのことがあってから、ファラはお節介焼きになったと同時にひどく心配性な一面を持つようになった。いつだったか、リッドが少し野営地から離れていただけで何処へ行っていたのかをしつこく問い詰められたりもしたし、それを遠まわしに咎めると、目に見えて沈み込んでしまって少々扱いに困ってしまったことだってあった。

チャットとバンエルティア号がこちら側へ落ちてきているだけ、まだどうにかなるのだという印象をファラに抱かせることが出来る。実際リッド自身、技術の無いインフェリアに二人きりで落ちてきたところでセレスティアに渡るすべなど思い付きもしないし、そういうことは大方キールの役割だ。そのキールがセレスティアに残っていると思われる以上、正直に言ってお手上げという他無い。

「大体、チャットがいなけりゃあいつらが向こうにいることだって分かんなかっただろ?あいつのエラーラがメルディの声を聞きとれたから、俺たちだってこうして安心していられるんじゃねーか」
「それは、そうだけど……」

ファラは言って、再び少し不安げな表情で何もない空を仰ぐ。どうにか連絡が取れたとは言え、チャットがセレスティアからの声を受け取れたのはその一度きりで、その後すぐにエラーラは機能不全に陥ってしまったらしい。もしかすると向こうで何かあったのかもしれないから、出来るだけ改造を急ぎますとそれっきり、チャットはバンエルティア号に掛かりっきりで姿を見せない。

「んな心配そうな顔すんなって。キールも一緒だって言ってんだ。そう大変なことにはならねぇよ」
「うん。……いまごろ何してるんだろうなぁ、キールとメルディ……」

遠いセレスティアを思うたび、まず最初に脳裏に浮かぶのはあの映像だった。おそらくリッドも同じなのだろう。まるでタブーのようにその地の話題が閉ざされてしまうのは、思いが溢れすぎて上手く語ることが出来そうにないからだ。誰ともなく黙り込んで、そのうち誰かがしょうもないきっかけで沈黙を破ってしまう。――いつだってそんなことの繰り返し。だからあの炎の夜の出来事だけは、未だにはっきりと言葉にして振り返ったことが無かった。

「……でも、アイメンに……帰ってるよね、きっと」

あそこはメルディの家があった場所だから。決意したように瞳を伏せて、ファラは禁忌にも似たその地の名前を声にする。ほんの少しの住人だけが生きるあの集落は、いったいどのくらい元の風景を取り戻せただろう。思い描いてみようとしても、炎に焼かれて不完全なままの、暗澹とした町並みだけが浮かんで上手く未来を描けない。

「ねえ、リッド。ヒアデスは、闇の極光術の力であんなふうになっちゃったんだよね?……なら、ヒアデスはアイメンがああなることを望んでなかったんだって、……思ってもいいのかな」
「さあ、どうだかな……。そう思いたいとこだが、俺にゃわかんねーや」

何せ過去の記憶のヒアデスはバリルを裏切り、結果的に命を奪い、シゼルの暴走を後押ししてしまった。あの時すでにネレイドに支配されていたと見るには、裏切りの理由が少し私利に走りすぎている気もしなくはない。あるいはあの瞬間だけネレイドと利害が一致して、意識が混在していたりしたのかもしれない。

考えられることが多すぎて、今となってはどれが真実かなどまるで定かではないのだ。――ただ出来るならメルディのために、ファラの言うようなヒアデスであれば良いとは願う。

「わたしに特別な力があったらなって、ちょっとだけ思ったこともあったけど……」
「やめとけやめとけ。特別なんてロクなもんじゃねーよ」
「でも、リッドはその力で世界を救ったでしょ?わたしが同じ力を持ってればグランドフォールだって起こらなかったかもしれないのになって、……ちょっと悔しかったんだ」

不安を押しのけたようにほっと笑って、ファラは「だって、いつも見てるだけだったんだもん」とリッドへ視線を合わせる。対するリッドは「いーんだよ、ファラはファラで」とぶっきらぼうに一言返して、高台の淵に身を乗り出した。

「大体キールに言ってみろよ、それ。『ぼくはごめんだな』なんて突っ返されて説教されるのがオチだぜ?」

あいつ、表舞台には向いてねえからな。そう言ってリッドが笑えば、ファラも「そうだね」と納得したように笑う。本来であれば裏方に徹する性質のキールがあの旅に最後まで同行したこと自体、二人にしてみれば驚くべきことなのだ。

リッドはキールの旅の完遂がメルディにあることをどことなく理解していたけれど、そのことにファラが気付いているのかどうかは分からない。――いや、たぶん気付いてはいないんだろう。思い直して、リッドは改めて自らの明日を思いやった。

「さて、いつまでもこんな所に居たらそのうち誰かに探されちまう。……そろそろ行くか?」

言ったリッドに、「あ、待って。もう少し。……花を摘んできたから、もうちょっとだけ待って」焦ったようにファラが答える。

「花ぁ?花なんて、何に使うんだよ」

呆れたような驚いたような、曖昧な調子で問いかけたリッドに、「前にレイスに聞いたんだ」と言いながら、ファラは一抱えもあるラシュアンの花を空に乗せて投げ入れた。

「こうして高台から風に乗せるみたいに花を投げるの。……古くからある弔いの方法なんだって」
「弔い?……ふうん」

弔い、か。たしかにファラの好きそうな伝承だよな。ぼんやりとそんなことを思いながら、リッドは風にはらはらと散っていく色とりどりの花を望み、何も無い空に祈るファラを見つめる。

この旅の中で命を落とした多くの人間のためにより、それを目にして傷ついたファラが、この儀式みたいなもので少しでも癒されるなら良いと思う。――思ううち、ファラが祈る手を解いてリッドのことを振り返った。

「……お待たせ!ごめんね、行こっか?」
「いーけど、村長に見つかったらファラのせいだかんな」
「大丈夫だよ、村長の家に出ない道から行けば」
「……村長が運良く家にいてくれれば、だけどな」

ったく、鉢合わせたらどうすんだ。ふう、と小さく息を吐いて、リッドはファラの後から高台の梯子を下る。

――まあ、それもファラらしいか。そのまま諦めたように呟いて、リッドは先を行くファラの背中を追いかけた。