白色と一輪

「……プレセア」
「え?」
「花の、名前。……私の名前は、花の名前から取られたものだそうです」

路傍に咲き誇るあの花の、何気ない優しさがお前に似ている、と。いつだったか父親のくれた、ささやかな手紙に記されていた一文を今でも決して忘れない。肝心の手紙は、心を失くしたあの頃に燃やしてしまったのだけれど。――それでもその内容は、鮮明すぎるほどによく覚えている。

「妹も……アリシアも同じでした。オゼットには、プレセアとアリシアだけが咲くんです。……父が、あの花のように強くなってほしいと。……そう願って名付けたのだと聞いています」

年中を影に包まれているオゼットでは、太陽を必要とする花々はあまり花を咲かせない。光の裏側で覆い繁る緑色が積み重なるように影を落として、ひたすら、ただひたすらに光の種を奪っていくからだ。

その中で、白と桃色のふたつの花だけが、あの小さな村に彩りをもたらす。昔はこの名前がたしかたいそう誇らしくて、私の部屋にはいつもアリシアが、アリシアの部屋にはいつもプレセアが、隅っこの方に飾ってあったような記憶がある。――ずっと昔の記憶だ。未だ抜け落ちてしまったままの、ずっと昔のひとかけら。

「……笑いますか?」

微笑もうとして、プレセアは自嘲気味にしかならない笑みを浮かべる。問いかけられたその言葉に、傍らのロイドはゆるくかぶりを振った。

「笑うもんか。……似合ってると思うよ、まさにプレセアのための名前って感じだ」
「そう、でしょうか……?」

ありがとう、ございます。予想に反して手放しに放り投げられたロイドの肯定に、少しばかり戸惑ったふうにプレセアはそう返す。

「プレセア……ああ、あの子は昔、それはよく笑う子供だったわ」と。あの村がまだ廃墟になってしまう以前、道行くオゼットの人々はロイドたちに出会うたび、心を閉ざしたプレセアのことをそう評した。

彼女だけが歳を取らないまま年月を経たオゼットには、様変わりしてしまった彼女のことを恐れる者も、哀れむ者も、蔑む者や見て見ぬふりをする者も、とてもいろいろな人が居たけれど。――結局今に至るまで誰ひとり、彼女の味方をしようとする者が現れることは無かった。

今のプレセアにしてみれば、果たしてそれが悲しいことなのか、はたまた怒るべきことなのか、そんなことさえ分かりはしない。一口に「興味が湧かない」と言ってしまえばそれまでなのだが、あまりにも自分自身に関心の湧かないこの感情が、時々ひどく後ろめたいように思えてしまう。

――それでも、この土地に咲く花はとても美しいと思う。

ただひとつ確かな思いを抱きながら、プレセアは青く遠い空を見上げた。

――美しいと思う。アルタミラの風と一緒に、はらはらと空を舞う白色の花だけは。

「うおっ、……っと、ほんとに凄いな、ここの花。ぼーっとしてると花びらに埋もれちまいそうだ」

高く舞い上がるしずくのような花びらに吹かれて、傍らのロイドが感嘆にも似た声を上げる。空の彼方へと光を放って消えてゆく、その姿はさながら雪のようであると、以前どこかの誰かが言っていたような気がする。

――そう、春の雪。白色と桃色の混じり合ったそれは、桜に降り注ぐ雪のようであると。

あれを口にしたのはいったい誰だったのだろうか。その言葉を耳にしたのが五年前だったのか、十年前だったのか、それとももっとずっと昔の話だったのか、そんなことすらもう覚えてはいないのだけれど。それでも今、その言葉は的を射ているようだと、それだけは確かに言える。

「この花は、リーガルさんが植えるように命じたのだそうです。空中庭園より、ぜひこちらにと」

瞳を輝かせて立ち尽くすロイドに、淡々とした口調でプレセアは語る。そのままゆるく瞬いて、流れゆく花びらを一握りほど掴み取ってみた。いとも簡単に崩れ去ってしまうそれは、雪のようであると同時に、さらさらとした砂のかけらのように見えなくもない。

散り行く白光を美しいと思う感性を持ってはいても、それを表現する術をプレセアは知らない。たとえ一言「美しいですね」と言葉にしてみたところでそれが他人に伝わるほどの起伏を帯びるとは思えなかったし、そもそもそれを考えるにつけ、自分が本当にこの風景に感動を覚えているのか、そんなことすら不確かになってしまうのだ。

自分の感情を模索してばかりいると、いつの間にか真実を取り違えてしまいがちだ。まるで押し問答している他人同士を見物するかのように、自分は第三者ぶって感情の枠から外れてしまう。

「ふーん。リーガルもそんなことするんだな。あんまりそういうイメージ無いけど……」

プレセアの言葉を何の気無しに受け取って、少し意外そうにロイドは呟いた。彼女の在りように慣れてしまっているのだろう。初めの頃は重苦しい空気に随分と異を唱えていたロイドも、プレセアの本質を知ってからは淡白な口調を否定することを止めてしまった。

どうなれば救われたと言えるのかが分からないから、最近では救われようと悩むことすら出来ずにいる。すべてがまるで他人事のように思えるのに、それが自分の感情なのだと理解だけは出来る。

――あきれた矛盾だと自分でも思うのだ。だけれどそれを離れた位置から見つめているのもやっぱり自分で、考えれば考えるほど、次第に収集が付かなくなってしまう。それに対して苛立つことこそないけれど、ただどこか、空白の隙間で胸がざわつく感覚を抑え切れない。

「うーん……けどさ、なんでこの花なんだ?綺麗だし、この辺りにも似合ってるって思うけど、これって元々はアルタミラに咲く花じゃないんだろ?」

ほんの少しの間を置いて、ロイドは疑問げにそう問いかけた。花の名を知らない人々は、この地を訪れると必ず彼のように疑問を抱く。

――仕方がないことなのだろう。あまり知られていないこの花の名を慈しむのは、たぶんごく限られた人間だけだから。

「それは……この花が、リーガルさんにとってとても大切なものだからです」
「リーガルにとって?」
「はい。……それに、私にとっても」

最後は消え入るようにそう言って、プレセアは手放した花のかけらが空へ消えていくさまを見やる。たとえ大切だという感情が分からなくてもなお、とても大切だと思えるもの。今のプレセアにとって、それに値するものはただふたつだけあった。

おぼろげな思い出しか抱くことの出来ないプレセアにとって、アリシアという妹が存在した事実は何より心の支えだった。それはエクスフィアによって、はたまたリーガルによってもたらされた、残酷ながらも悠然とたたずむ幸福な事実。

ひとりきりだけれど、ただひとりきりではなかった、と。――そう思えるきっかけをくれた真実。

「それじゃあ、もしかして……」

この花の名前は。そう言いかけたロイドを遮るように、プレセアは小さく頷いた。

「はい。……アリシア。……この花は、アリシアの花と言います」

暗がりにも力強く咲き誇る純白の、とても小さく大切な花。口にして、プレセアは真っ直ぐにロイドを見やる。今、この瞬間ばかりは微笑むことが出来そうな気がする。たとえそれが上手く伝わらなかったとしても、この名と共にある時だけは。

「アリシア……」

プレセアの告げたその名前を繰り返して、ロイドは流れ行く白色に目を細めた。初めてその少女を目にしたときの言葉にしがたい悔しさは、彼自身もまた忘れられずにいる。

「……ロイドさん?」プレセアが問いかける。
「ちょっとさ、聞いてもいいかな」上塗りするかのように、ロイドが言った。

「なんでしょうか……?」プレセアはそう答えてから、いつもの希薄な表情のまま、幼いまでに小首をかしげた。他者の感情の揺れを読み取ることに鈍感な彼女は、言葉にされるまで、問いに含まれる無言の意図を掴めない。何かが隠されていると分かってはいても、それを理解出来るほど多彩な感情が、彼女の中に残されてはいないから。

「エクスフィアを使ったことなんだけどさ、プレセアは後悔してるか?」
「後悔、ですか……?」
「変なこと聞いてるってのは分かってる。けどさ、一度聞いてみたかったんだ。……ごめんな、もし嫌な気分にさせたら……」
「……していません」ロイドの言葉にふるふると首を振って、間髪入れずにプレセアは言った。

「へ……?」

どこか間の抜けたような声で、ロイドはそれに問い返す。「後悔は、していないんです」。そう繰り返すプレセアに、何も言えないままで静寂が満ちる。

どう返答しようか言葉に詰まって、ロイドはそっと息づいた。まさか否定が返ってくるとは思わなかったのだろう。以前から目にしていた、感情の欠如によるプレセアの苦悩は本物だったから。

「……してないのか?その、さ。……こんなことになっても」
「確かに……エクスフィアを使ったことで、私は十数年もの時に置いていかれてしまいました。それが戻らないことは、とても悲しい。……でも、そのおかげで皆さんに出会うことができたのだと思います。……私は、そのことを嬉しく思います」

エクスフィアを使うことで変わってしまった未来は、おそらくプレセア自身に関するものに過ぎなかったのだろう。そう思うからこそ、彼女はすべてを受け入れ今を尊ぶ。

たとえあの時エクスフィアを受け取っていなかったとしても、父親が病に伏せる事実は動かしようが無かっただろう。そのせいで仕官に出て行ったアリシアが、プレセア自身の選択ひとつで犠牲にならなかったなどとは到底、思えるはずもなかった。

「ただ、少し……」
「え?」
「リーガルさんには、申し訳なく思います。私が昔の性格のままだったなら、リーガルさんは今よりも、苦しまずに済んだかもしれませんから……」

自責に囚われた人間を、この心は存在だけで追い詰める。思いながら、プレセアはリーガルの悲哀に満ちた眼差しを思い出す。

リーガルがいつまでもアリシアを記憶にすることが出来ないのは、おそらく元来持ち合わせた責任感だけが原因ではない。同じことを経て、なお滅ばずに生きたプレセアだからこそ、アリシアが陥ったであろう状況を目の前に突き付けられているようで辛いのだろう。

ひとりの人間の妹を殺してしまった、という罪悪感も手伝っているのか、時々リーガルは瞳の底を、暗く静かに歪ませる。ただ、もがいても決して抜け出せないような苦しみの中から救おうと試みるにはあまりにも、プレセア自身が傷付き過ぎているのだとも知っていた。

「……優しいんだな、プレセアは」
「……優しい?よく、分かりません。何をどうすれば優しく接したことになるのか、何一つ……」
「それじゃあきっと、そのうち分かるよ。ゆっくり取り戻していけばいいさ」
「……はい、そうだといいのですが……」

頼りなげな一言を落として、プレセアは数々の思いを巡らせる。――優しさの定義が分からない。他者を思いやり、自分本位になることなく、誰かのために行動すること。理屈ではいくらでも並べ立てることの出来るその言葉たちは、現実になろうとするそのたびに、意味を損なって空回りばかりしてしまう。

「……ロイドさん」

尋ねたところで、この人は答えを持っているのだろうか。思いながら、プレセアは渦巻く疑問を言葉にしようと彼の名を呼んだ。優しさのかたまりのようなその強い意志は、いったいどこから来ているものなのだろう。それだけが、何を差し置いてさえもいつも不思議で。

「誰かに優しくしようと思うのは、何故なのでしょう」
「……プレセア?」
「人間とは、誰しも自分を優先に行動する生き物です。……私にも、それは分かります。ですが、ロイドさんやコレットさんは、自分を犠牲にしてでも誰かを救おうとしています。……それが何故なのか、私には分かりません。……私には」

――心が欠けているから、答えを出せずにいるのでしょうか。そう続けようとして、言葉はロイドに阻まれた。

「分からなくないさ」
「え……?」
「プレセアはちゃんと分かってるよ。じゃあ聞くけどさ、オゼットで攫われたコレットを助けようと思ったのは何でだ?」
「それは……私のせいでコレットさんが……」
「うん、だからさ、そういうことなんじゃないかな。プレセアが本当に自分だけを大切にするって言うなら、助かって良かったって喜んで、それで終わってもよかったはずなんだ」
「でも……」
「プレセアは被害者だ。俺たちに攻撃したことだって、別にプレセアがやりたくてやったわけじゃない。……それはコレットだって分かってたことだと思うしさ」

それでもコレットを救いたいと願ったのは、紛れもなくプレセアの意志だ。掛け値のない、純粋に誰かを思う気持ちに突き動かされた行動。

「……理由を、求めてはいけないことなのでしょうか」
「別に駄目じゃないと思うけどさ。あんまり意味ないと思うぜ?そういうの。考えてたって何にも出来なくなっちまうだけなんだし、たまには考えるのを止めてみるのもいいって思うけどな」

――なんて、リフィル先生に怒られちまうかな。苦笑しながら、ロイドは「今のは内緒にしてくれ」と人差し指を立ててそう言った。

茶目っ気たっぷりのその様子を見せられるたび、いつでも少し戸惑ってしまう。プレセアは思う。空白になってしまったままの一部分が満たされていくのを感じると同時に、そこにはいつだって、対処の出来ない明確な戸惑いが生まれる。

――自分とはあまりに違いすぎるから、言葉のひとつひとつをどう受け取っていいのかが分からない。あえて表現するなら、この感覚が意味するのはそんなところなのかもしれない。

「……ん?これ、何だ?」

流れ行く思考に身をゆだねていると、ふいにロイドの声が虚空に落ちた。プレセアが振り向けば、そこには身を屈めて花を見つめるロイドの姿。

「どうか、しましたか?」
「あ、いや……これさ、この花だけ桃色なんだ。これもアリシアの花なのか?」

心から疑問げにそう呟いて、ロイドはプレセアを手招きして問いかけた。誘われるまま近付いて、彼女は絶句する。――ここにあるはずの無い花が、どうして。

「プレセア……?」
「え?」
「これ、プレセアの花、です。……桃色の……間違い、ありません」

アルタミラに咲くはずの無い、もうひとつの大切な花。本来ここには咲かないはずの、ひどく見慣れたその色は、かつて誇らしくてたまらなかったあの面影。

「どうして……」
「これがプレセアって言うのか。……うーん、それじゃ、オゼットからここまで飛んできたんじゃないか?ほら、植物ってとんでもない距離を旅するって言うからさ。……プレセアもアリシアと一緒に咲きたかった、とか」

なんてな。にこやかにそう言いながら、ロイドはプレセアに笑いかける。白色に満ちたこの丘で、一輪の桃色はとても美しい。

「……ええ。……そう、かもしれません」

ロイドの言葉にそう言って、この日初めてプレセアは笑った。花の咲くようなその笑顔は、やっぱりどうして飛び出たものなのかは分からない。懐かしかったのか、ただただ単純に嬉しかったのか、そんなことすら満足に理解出来はしなかったけれど。

「どうしてかは分かりませんが……そうであれば、いいと思います」

そう呟いたプレセアに「そっか」とだけ返して、ロイドはもう一度だけ優しく笑う。

――青空に吹き抜ける白色に、ひとひら桃色の花びらが散った。純白によく映えるその色は、泣きそうに微笑んだ、彼女の髪色によく似ていた。