痛みと星空

眠れない夜が尽きて、今では暗闇の中をひとり、星を数えて耐えることも無くなった。だからこそ今もなお、あの頃の寂しさは鮮明すぎるほど鮮明に彼女の中に残っていたし、彼女もまた、それを忘れてしまおうとはしなかった。

否――忘れられそうには、なかった。

眠れなくなって初めて知ったことがある。夜と朝が繋がっていること。夜の中にも優しい風は吹き抜けること。夜が、恐ろしいものばかりで満ちているわけではないこと。彼女は何よりその事実に救われていたし、救われてしまいたいと願ったのは、救いを求めなければ、見え透いた孤独に潰されてしまいそうだったからだ。

――なんて身勝手なんだろう。幾度も思いながら毎晩、ぼんやりした意識で唇を噛み締めた。涙すら浮かぶことの無い身体の代わりに自らの心を傷つけて傷つけて。――そうすれば、ほんの少しだけ許されるような気がして。

――なんてずるいんだろう、と、言葉にすることすら出来ないもどかしさを抱えたままで。

「だいじょぶなんて、言って……」

結局、恐怖に打ち勝つことが出来なかった。たったひとりが犠牲になればすべてが救われるとされたこの世界で、ひとつの為に「すべて」を捨てたがる心の奥底を、誰より自分自身が許せない矛盾と葛藤。それを誰一人にさえ伝えられないまま、あの頃はいっそ、少しでも早く心ごと張り裂けてしまえたらと思いもした。

野営地から少し離れたその場所で、コレットは深く息をつく。小高い丘のようになっている草地の上に座り込んで、彼女はあの頃のようにぼんやりと空を見上げた。

この上ない快晴は、それはそれで物寂しいものなのだと知ったのもあの頃だ。幸せな夢を願うことさえ許されない異質な自分と、真っ直ぐに理想を掲げる尊い想い人。あたたかさを失い、幸福な夢を失い、挙句の果てには音さえも失った。残酷な現実を突きつけられるたびに恐怖は強まり、一方的な疎外感に壊れそうな悲しみを背負って――そのたびにどこか、救われたいと願う自分が嫌いで嫌いでたまらなくなる。

――あれは延々と続く、ひどく虚しい輪廻だった。

「なーにしてんの、コレットちゃん」
「え?」

過去を思い返していると、遠くから聞き慣れた声がする。同時に、かつかつと靴の音が近付いた。

「……ゼロス?」
「ありゃ、やっぱ聞こえちゃった?気付かれないよーに遠くから俺さまの愛を囁いちゃおうかと思ったのにな〜」
「おつかれさま。……みんな、寝ちゃったの?」
「……ん。俺さまが見張り当番だからって、あいつら遠慮もナシにさっさと寝ちまった」

警戒心とかないのかね、まったく。心の中でそう呟いて、ゼロスは呆れたようにわざとらしく溜め息を落とす。その言葉の中に信頼が為すそれとは少し異なる含みがあることに、おそらくコレットは気付いてはいないのだろう。

相変わらずの軽口を持ち前の天然ぶりで受け流し、コレットは少しばつ悪そうに微笑みながらゼロスを見やった。燃えるような、長髪の赤が宵の明るみによく映える。

「……もしかして、探させちゃった?ごめんね、私、何も言っていかなかったから……」
「いやー、ぜんっぜん!コレットちゃんのためならたとえ火の中水の中!俺さまどこへだって行っちゃうからさ〜、気にしなくていいって」
「うん。……ごめんね、ありがとう……」

茶化すように笑ったゼロスへ、コレットは複雑そうな表情でもう一度の謝罪と感謝を口にした。そこでふと思い立って、コレットは迷う。感傷が抜けきらないこの心を伝えられる人が、たとえばたったひとり居るとするのなら。

「……ねえ、あのね、ゼロス」

意を決したように名を呼んでから、コレットは一度言葉を切ってしまう。戻らない言葉を悔やみつつ、この期に及んでまだ迷う。

自分の使命に弱音を吐いたりしない、と。そう心に誓ったあの日に、彼女はまだ縛られたままだった。口にすることは許されない。これは必然であり、義務なのだから、と。

「……どした、何か悩み事か?」

言ったっきり、ゼロスはコレットにならって物言わぬ彼女の隣へ腰を下ろす。いつだって他人の機微に聡いゼロスだったから、彼女の迷いを見て取ると、彼はそこから一切の軽々しさを消してしまった。

そこから一瞬。やがて意を決したように、コレットが口を開く。

「ゼロスは、前に私に聞いたよね。神子が嫌じゃないのか、って」
「……ああ、聞いたな。それで?」
「私ね、……神子が嫌だって思ったことはないよ。これはほんとなの。……でもね、でも……心の底では、いつも怖くてたまらなかったのも……それも、本当」

一息に吐き出してしまうかのように、コレットは思いのたけを投げかける。口をついて出てくるのは、これまで秘めてきた数々の言葉たちだった。

「私は神子で、いつかは世界を再生するための旅に出なくちゃいけなくて。それをね、理不尽だとか、嫌なことだとか、そんなふうに思ったことはなかった。神子であることは、神さまがお与えになった私の使命だって……ずっとね、それが当たり前だって思っていたから。……旅が終わったとき、私が私でなくなっちゃうこともちゃんと知ってた。……でも、それは仕方がないことだって思ったの。だって、私ひとりのわがままで、シルヴァラントの人たちを犠牲にすることなんてできないから」
「……いつか言ってたな。シルヴァラントを救って、世界を見守れればそれで幸せだって」

強がり混じりに話された言葉。ひどく悲しそうに語られた、あまりにも頼りない幸せ。

「……それは……それは、怖かった、から」
「え?」
「旅を続けるうちに眠れなくなって、……感覚がなくなって、話せなくなって。……とても、怖かったから。気持ちばっかりね、焦っちゃうんだ。どうにもならないって知ってるのに、どんどん当たり前のことが恋しくなるの。……恋しく、なるんだよ」
「コレット……」
「だから、ね。一生懸命思い込もうとしたの。私の心が天使になって壊れてしまっても、誰かが私を覚えてくれていればそれでいい、って。だって、私が天使になることがシルヴァラントを解放することに繋がるんだよ?……それなのに、私が自分の幸せを願ったら、私はシルヴァラントの人たちを裏切ることになってしまうから」

そう、信じてたから。呟いて、コレットは続ける。

「……そうやってね、いっぱい嘘ついたんだ。私は大丈夫だって。みんなにも、……ロイドにも」

でもね?そんなの、私がそう思えば少しだけ楽になれるような気がしたってだけ。ただそれだけ、なんだ。言ってから、返答の隙を与えまいとするかのように、コレットは言葉を重ねて空白を満たす。

「ずるいんだよ、すごく。神子でいることが怖いのに、神子でよかったって思うの。……ロイドにとって、私がただの女の子じゃなくて良かった、って」

切なげに溜め息を落として、コレットはゆるやかにかぶりを振った。驚くほどにすらすらと零れる言葉たちは、これまでコレット自身が必死に留めていたものに他ならない――およそ、彼女にとっては禁忌にも近い感情だ。

日頃より少しばかり口数の多いコレットに驚きもせず、ゼロスは彼女の言葉をただただ静かに聞いていた。少しの間が空いて、コレットは最後に一言こう添える。

「たったひとり犠牲になれば世界が救われる、なんて言われたら……断れないよ。……前にね、ロイドがすごく怒ってくれたの。私だけが犠牲になる必要なんかないって。そんなことで世界が救われても、俺は嬉しくなんかないから、って。……でもね。それでも、私にはだめだった」

神子であることをやめられなかったんだよ。優しくもどこか冷めた口調で、ひどく明確な事実を打ち明ける。まるでそれが一番辛いとでも言うように、コレットは静かに想い人の名を口にする。

純粋無垢なコレットは、どんなことがあっても現実から逃げようとはしなかった。受け入れようとするのだ。何より他者を第一に考え、そのためには自分の思いさえも投げ出してみせる。

そんなところは自分と正反対だ、とゼロスは思う。逃れられないことを知っていても、逃れたいともがく不肖者の自分とは違って。

コレットが精一杯の強がりを見せていたことはゼロスとて察しがついた。神子であること。それがそれほど単純な事象として受け入れられるものでないことは、今更彼自身が一番心得ている。役割は違えど、それぞれの形で命を問われる身の上だ。そう生まれついたからと言うだけで「神子」という役割を演じることを強いられ、命を狙われ――彼らが基準付けた「神子」の偶像を満たすよう、期待という名の監視の目を向けられる。

「……ゼロスは、怖くないの?」
「ん……神子であることがか?」
「うん。命を狙われたりするのは、やっぱり怖いのかなって……」

広義ではコレットもまた命を狙われてはいるけれど、テセアラにおいてゼロスが立たされているような立場――政治利用のためにその身を脅かされる不便さを彼女は知らない。何せシルヴァラントは衰退に衰退を重ねているから、まともに統治体制を維持出来ている大きな都市がそれほど多くはないのだ。みな再生の神子に期待こそすれ、命を狙おうなどと言う輩は居ないにも等しかった。

「俺、ねぇ。……怖くはねぇな。……そもそも、望まれた命でもねぇしな」
「え?」
「んーん?こっちの話。……そーいや、コレットちゃんが天使化してる間に会ったんだっけな、俺たちは」
「あ……うん。ごめんね、いっぱい迷惑かけたよね、私」

悲しげな表情で瞳を伏せるコレットは、ぼんやりとした意識の向こう側を思い出す。縛られ身動きの取れない状態ではあったけれど、あの時だって、決して心自体が離れていたわけではなかった。

自分の身体がどんな動きをしたのかも、自分の心がどう揺れたのかさえ、すべて理解出来るのに自由にはならない。そのもどかしさは、たとえ語りつくせたとしても他の誰にも理解されないもののように思えた。実際コレットの心はプレセアとはまた少し違う囚われ方をしていたし、壊れてしまったように見えていたのだって、いわゆる彼女の器に過ぎなかったから。

「謝るのはナシ。……って、ロイドにいつも言われてんだろ?」

こつん、と額を小突かれて、コレットの表情が驚いたようなそれに変わる。

「あ、あの。……そうだよね、ごめんね……」

再び放たれた謝罪の言葉にゼロスは小さく笑みだけを返して、呆れを含まない溜め息をそっと落とした。

謝ることが癖になってる。あいつ、いつも自分が悪いと思い込んで、何でもないことでもすぐに謝ろうとするんだ。いつだったかロイドが語ったそのままに、コレットは申し訳なさそうな顔をして額に触れる。

――ああ、本当に何もかも、正反対だ。

秘めたまま、ゼロスは重ねてそう思う。大きく出ることで小さな自分を隠そうとする矮小な自分と、最初から傷つくことを受け入れようとするコレットと。

けれどやはり似ている。どこか自分が罪深い存在だと感じていること。神子と呼ばれるがゆえにもたらされる疎外感と、尊いと称されることへの拒絶。課せられた偶像に満たない自分へ幻滅し、それゆえ感じるひどく重い劣等感も。

「……よし。言いたいことは全部言ったか?」
「え?あ、うん。全部……かな」

たぶん、きっとそう。心の中で呟いて、コレットはふわりと笑った。

「そっか。……んじゃー言っとく。あのな。世の中っちゅーもんは結果オーライならそれでいいの。過程がどうあろうと、蚊帳の外の人間なんて俺らのことを案外気に掛けちゃいねぇんだ。……コレットは神子だが、逆に言えば、世界の人間にとっちゃコレットはただの神子でしかないわけだろ?……コレットって人間を知らないヤツに世界の救い方を指図される必要はねぇし、押し付けられた旅のやり方を少しくらい変えたからって何ら非難されるようなことでもない。……だから全部ひっくるめて、あんまし気にすんなって。……な?」

コレットに向けて、そしてそれは何より己に向けて。ゼロスは慰めにも似た語調で演説する。それにこくんと頷いて、コレットは微笑んだ。――共感にも似た痛みが混じる。

「……ゼロスは、優しいね」
「そうか?」
「うん。……たぶん、私なんかよりずっと」

諦めてしまえず、無情にもなりきれず、自分で抱えた痛みに潰れてしまいそうなほど。

「あー、さすがにそれはねぇんじゃねぇの?大体俺は……」

言いかけたゼロスに、コレットが言葉を挟む。

「……逃げてばっかりじゃないよ」
「へ?」
「だいじょぶ。……ゼロスは、ちゃんと前を向いて歩いてるよ」

どこか決然とした様子でそう言い放つコレットに、驚いたふうにゼロスは間の抜けた声音で問い返した。意図するところを問いたいというよりは、どうして、と問いかけたい気持ちが強くなる。

「……何かに向き合う気持ちがあるから苦しいんだよ。……逃げられないと思う優しさがあるから、心が悲鳴を上げて痛いって思うの」

だからゼロスは弱くなんかないし、ずるくなんてないよ。言い切って、悲しげな表情のままでコレットは微笑む。

「……自分じゃなければ、そうやって言ってあげられるのに。自分を許してあげようとすると、どうしてダメになっちゃうんだろうね……」

抱えていることは、たぶん似たようなことなのに。思いながら、コレットはどこか満たされない空虚感に答えを見出す。

やっぱり、駄目なのだ。神子の立場で痛みを共有することは出来るけれど、それを苦し紛れに逃してやることくらいは出来るけれど、すべてを振り払うほどの力がお互いには無い。たぶん誰が自分の求める答えをくれるかさえも彼らはちゃんと知っていて、それでも助けを求められない、どこまでも不器用な存在なのだろう。自己満足のような痛みに浸ることで必死に自分を奮い立たせているような、ひどく不器用な。

「……ごめんね、こんな話ばっかりで」
「気にすんなって。……俺さまこそ情けねぇ。女の子が落ち込んでるってのに助けてやれなくってさ」
「ふふ。でも、今まで誰にも言えなかったことだもの。話せただけで十分うれしいよ?」

たとえ力が足りなくても、それだけは決して嘘じゃない。
――嘘じゃないと、ゼロスに伝わればいいけれど。思いながら、コレットはにこりと笑う。

「そろそろ私たちも寝よっか?この時間なら、もう魔物を気にしなくてもいい頃だから」
「……ん?ありゃ、そーだな」
「おやすみ、ゼロス。……ありがと、私の話を聞いてくれて」
「いえいえ、お気になさらず。コレットちゃんという愛らしいハニーの為ですから。……んじゃ、俺さまは先に戻るとしますか。……おやすみ、コレットちゃん」

最後にいつもの調子に戻って、ゼロスは一足先に野営地へと姿を消した。去って行くその背中には、少しだけ痛みが滲んで物悲しい。

「……いい、天気」

その場にしばし留まって、コレットは星を数える。ひとつ、ふたつ。澄み渡って満天の星空は、自らの立場がどれほど変わったところで何一つ変わりはしない。

「……私は、自分を許せるかな」

許しても、いいのかな。呟いて、コレットは想い人の名を心に描く。

ささやかに響いたその声は、夜空に浮かんで静かに消えた。