紫色の祈り

見渡す限りに広がる荒廃の地には、静かに朽ちたままのヒューマノイドが誰の手に拾われることもなくその身を横たえていた。夕焼け色の空がいつまでも明けない、この風景自体が夜のようなフォドラの出で立ちは、まるで時の流れすら存在していないような印象を抱かせる。

少しの時を超え、少女が再び立ち尽くしたこの街は、以前に比べてとてもとても空虚に過ぎた。それは彼女自身が心を持ったことによる相対的なものでもあるのだろうけれど、それでもその心にはひどく痛みを感じさせたし、自らの意義に影をも差した。

一度割り切ったはずなのに、ここにいると心にそれをも超えるざわめきを覚えてしまう。彼女はヒューマノイド。心を持ったヒューマノイド。機械でありながら、その振る舞いはまるで人間のそれのように繊細でやわらかだ。

けれど、それでも――。ふとした瞬間彼女は思う。突き詰めてしまうのなら、どこまで行っても所詮、自分もまた機械仕掛けの人形ではないだろうか、と。

「フォドラ……変わらないね」
「ここはずっとこのままです。直す人も作る人も、誰もいませんから……」

倉庫区付近に並んで立ったソフィと彼女似のヒューマノイドは、広いばかりの施設をぐるりと見渡して、少し悲しそうにそっと笑った。主を失ってしまったこの場所は、これから先、長い時間の果てにすべてが朽ち終えるのを待つだけだ。いずれ機械仕掛けの命たちが刻限を迎えたその時、この星は誰が惜しむことも無い、悲しい終わりを迎えるのだろう。

かつて生まれたばかりのソフィにとって、テロスアステュ――この街はいわゆる「街」そのものだった。元より与えられたデータの中にこの街が「街」以上のものであるとは記されていなかったし、兵器として生まれた彼女には何より優先すべき使命があったから、彼女にとってそれは何の意味も持たないただの「単語」に過ぎなかった。

けれど今心を過ぎるのは、いずれ消えてしまうこの街に対する言いようの無い寂しさだった。ただひとつ、彼女が帰りつくと決めた場所は生まれ育ったこの場所ではないけれど。それでも故郷の温かみが今では分かる。同朋が命尽き、だんだんと手入れが行き届かなくなり、この街が少しずつ雑然とした廃墟へと近付いても、その気持ちに偽りは無かった。

「……フォドラは、消えちゃうのかな?」
「え?」
「アスベルたち、言ってた。このまま誰もいなくなったら、この星は消えてしまうだろうって」
「それは……はい。確かに、このまま誰の手も入らなければ……」

困ったように告げるソフィ似の、彼女と同じく心を持ったヒューマノイドは、ひどく無表情に「そっか」と呟くソフィを不安そうにちらりと見やる。大方その表情からは何の感情も読み取れはしなかったけれど、黙り込んだままの彼女が一瞬だけ目を細めて俯いた瞬間を、傍らの彼もまた見逃しはしなかった。

心を持たないヒューマノイドは、その身に苦しみを感じることはない。だからこそ、使い倒され壊れてしまうその瞬間まで、ただ黙々と与えられた役目を全うし、仕えるものにそのすべてを捧げることはある意味彼らの「幸せ」と言えるのだろう。

もちろんそれに誰が疑問を抱くこともありはしないし、究極を言えば、そもそも幸福の概念など彼らには無い。結局はどれもこれも人間が便宜上呼び名を付けただけのもので、人間がいつでも都合よく生活する、ただそのためだけに彼らは存在しているのだから。

「……わたし、最近思うの。この街のヒューマノイドは……可哀想」

でも、そう思うのは、いけないことだと思う。そう付け加えたソフィは葛藤に苦しげな表情を浮かべて、人工的に笑みを湛え続ける目の前のヒューマノイドを痛ましげに見送った。

自分と同じ存在に自ら優劣を付けることに、彼女にはまだ些かの抵抗があった。心を持ったからといって、どこまで行っても彼女自身が機械の域を出ることは無い。それなのにいざ一人前に感情を有してしまえば、何も感じない仲間たちが空虚に見えて仕方が無かったのだ。

「……いけないって、どうしてでしょう?」
「だって、わたしの方が、本当は普通じゃないから」

そもそも本来ならば、彼女も今頃此処には居ない。もっとずっと昔――それこそ何百年も昔、心など持たずにラムダと相打ち役目を終えて、ただ消えていくだけの運命だったはずなのだ。

彼女がただのヒューマノイドだったあの頃なら、当然それに何の苦しみを覚えることもないはずで。きっとあの頃の彼女ならば自分が消える瞬間でさえ、今しがた目の前を横切った壊れかけのヒューマノイドと何ら変わらず、「任務」を終えたことのみを確認してそれっきりだったのだろう。

「でも、それを言うなら私も普通じゃないですよ。おんなじじゃないですか」
「うん。……だけど」

少し口ごもって、ソフィはその先を少し躊躇う。かつてアスベルに叱責された言葉をもう一度口にするには、想像以上の勇気が必要だった。心からそうと思い込んでいるわけではないと知っている今でさえ、アスベルは彼女のこの言葉をどこまでも嫌う。

やがて思い切ったように言葉にしたそれも、これまでよりは少し控えめに語られた。

「……わたしはね、本当はここにいるはずの存在じゃないから」

アスベルたちに会わなかったら、わたしはひとりだったから。そう微笑したソフィにどう返答しようか戸惑って、同じように心を持った彼女似のヒューマノイドはそのまま無言を貫いた。

「……フォドラ、前より息苦しくなったね」

天候さえ変わらないこの星は、以前来た時よりまた少しだけ息苦しさを感じさせる。雨の降らない大地は乾き、巣食う魔物さえいつか朽ち行く運命は、おそらくもうどうすることも出来はしない。彼女はこの場所と運命を共にすることも無く、いずれいま在るべき場所に帰り着くだろう。

それに言い知れぬ罪悪感が湧き起こるのだって今更、自分勝手だと思わずにはいられないのに。

「アスベル、言ってた。もう、次は来られかもしれない、って」
「え……」
「パスカルがね、言ってたんだって。フォドラの空気が薄くなりすぎて、もう人間は立ち入れなくなるだろうって」

旅をしていたあの頃から、フォドラがいずれ人間を寄せ付けなくなる未来は予想されていた。けれど実際にその時が来ると、これ以上何をしておきたいのか分からなくなってしまう。辛うじてソフィが最後に立ち寄ったのは、研究所のあの場所――彼女が生まれたあの部屋と、いまはとても懐かしい、幼い少女に出逢ったあの場所だった。

「……それは?」
「66号地区でもらったの。ブローチ……すごくね、昔に」
「へぇー。綺麗な色ですねぇ……」

今から考えてみれば、彼女はとても変わった子だったと、ソフィは思う。遥か昔――まだ活気があった頃のフォドラでは、ヒューマノイドは人間に従って当然の存在だった。中には感情を持たない性質を良いことに殊更に無碍に扱う人間もいたし、出来の良い者は金銭で各地を売買され、そのたびに傷が目立っていくことだってあった。

それが当たり前だった過去のこの世界で、あの少女はソフィを「人間として扱う」と言ってのけたのだ。それがどれほど尊いことか、今なら痛いほどによく分かる。

「……その子はね、魔物に襲われて死んじゃったの」
「そうだったんですか……」
「このブローチは初めてフォドラに来たとき、みんなが探してくれた。……すごく嬉しかった」

依頼を出したときから既に、何百年もの時を超えた今になって、これが見つかる可能性が著しく低いであろうことは十二分に覚悟していた。今更になって贈り物の大切さが身に沁みて、見つかったと知ったそのときは、彼女は悲しみにも似た安堵を覚えたものだった。

「……本当はね、今でも時々、わたしは存在していてはいけない気がするの」
「え?」

ラムダの消滅を命じた彼女も、守るはずだったこの街の人々も、今では跡形もなく消え去ってしまった。元より消えるために生まれた自分だけが、未だこの世に生がある。それに対する罪悪感が何ら必要の無いものだと知っていてもなお、植えつけられた概念はなかなか薄れてはくれない。

「わたしがもっと早くラムダを消していたら、この星は滅びなかったかもしれないから」
「そんな……」

エフィネアに送り出された数百年前から今まで、幾度もの戦いを繰り広げたけれど、結局彼女ひとりでラムダを消し去ることは出来なかった。その間にもフォドラの荒廃は進み、いま、ついに終わりを迎えようかというところまでやって来ている。

ソフィがエフィネアに発ってからのフォドラ荒廃に関して、彼女に直接的な責は無い。けれど、より迅速にラムダを殲滅し、エメロードの目覚めがもう少し早かったなら、この星の結末が変わっていたかもしれないことにもまた違いはなかった。

「……でもね」

淡々とした物言いの間に短く否定の言葉を挟んで、ソフィは一瞬躊躇った様子を見せる。少しして、意を決したかのように彼女は続けた。

「でもね、それでもわたしはアスベルたちと居たい。……生きて、いたいよ」
「……ソフィさん」

切実な響きを持って、ソフィは胸の辺りに手を組み、祈るように瞳を閉じた。大切な人たちの傍に生きることを望む彼女は、今日でこの地を永久に去る。これから先、二度とこの地にめぐり合えなくなってしまったとしても、彼女は帰るべき世界を、もう持っているから。

「……胸を張って帰ってください。ソフィさんは自由なんですから」
「……いいのかな、帰りたいって思っても」
「はい。ラントというところが故郷だと思ったなら、そこがソフィさんの故郷だって思います」
「そうなの、かな。……うん。……ありがとう」

殲滅するべき相手が眠ってしまった今、彼女は自分自身で生きていく意味を見出さなくてはならなくなった。それは確かに希望にあふれた未来を掴み取ることの出来る、彼女がとても幸運であることの証明ではあるけれど、同時に新たな強さをも必要とさせる。

選び、前へ進んでいくこと。流されずに自分を持ち続けること。簡単に見えて難しいそれらは、今まで運命に縛られてきた彼女にとってさらなる難題となることだろう。悲しみに泣くことすら知らない純朴な彼女はこれからきっと、数え切れぬほどの困難にぶつかるに違いない。絶望を知って、立ち上がることに疲れて、いつか涙を覚える日だって来るだろう。ああ、けれど、それでも。

「……頑張るね、わたし」
「はい。お気をつけてお帰りください。そしてまたいつかエフィネアのこと、お話ししてくださいね」
「うん。……約束、する」

一度優しげに頷いて、遠くからの耳慣れた声に、ソフィは手を振り彼女に似たヒューマノイドに背を向ける。いつか帰って来られたら、作れなかったあの子のお墓を作りに行こう。

そしてたくさんの幸せを、誇りを持って伝えられるように。