うつろいの雪

「……懐かしいな」

もう、七年になるのか。そう呟いたアスベルの対極に位置する机に掛けて、ヒューバートは続きをどうぞとばかりに押し黙る。長い長い空白を持った彼らは、それでも旅を続けていく中で、空白の合間にあったことをこれまで何ひとつ尋ねては来なかった。

雪の降り続くザヴェートはとても肌寒く白く、宿の暖炉はここぞとばかりに燃え盛っている。皆は先ほど外へ出掛けて行ってしまったから、今ここに居るのはかつて日々を共にしたラントの兄弟二人だけ。そんなどことなく居心地に難を感じさせる雰囲気の中で、アスベルは先ほどの言葉を絞り出すようにこぼしたのだった。

「なあ、ヒューバート。昔、雪が見たいってごねてお前を困らせたことがあったな。覚えてるか?」

続けてアスベルの放った言葉に改めて注意を向けたヒューバートは、少しだけ瞳を伏せて記憶の片隅に残る景色を呼び起こす。まだあの家に暮らした幼い頃、すぐに何かを欲しがったアスベルは、どうせ行き先のない願いとばかりに弟である彼へと随分な無理難題を押し付けていた。

何事にも真剣ながら、興味の対象があちらこちらへ移ろいがちな兄のそれをいつも話半分に受け取っていたヒューバートではあったけれど、あの頃は別段それを嫌悪するような情が湧くわけでもなかった。そう、むしろあの頃の彼は、それすらも兄が自分を必要とする瞬間としてひどく大切に抱いていたものだ。

「……覚えていますよ。あの時、兄さんはぼくに雪を降らせてみろと言ったんでしたね」

雪が見てみたい。雪ってのはきっと真っ白で綺麗で、何にだって染まってやしないんだ。あの日夢見がちにそう語ったアスベルの瞳は、曇りも無く現実すべてが希望に満ち溢れ、いつだって爛々と輝いていた。

あまりにも無鉄砲で、周りが見えていないからこそ失うことの無かった究極なまでの純粋さ。それは薄れてしまいながらも小さく大きく、七年経った今もなお、彼の中には紛うことなく存在している。誰より彼を知る弟――ヒューバート自身がずっと昔に失ってしまった何かを、兄であるアスベルは今も持ち続けているのだ。

おそらくこれが家柄でなく単純に性格の違いなのだろうことは、ヒューバートとて十分に承知していた。非現実的な何かのためにその身を厭わず捧げる兄と、頑なに現実を吟味して生きる術を探す彼とでは、語るまでもなく何もかもが違いすぎるのだ。

「……俺、あの頃はまだ、雪は誰にとってもただ綺麗な飾りみたいなものなんだと思ってた。けど、フェンデルに――ここに住む人にとっては、必ずしもそうじゃないんだな」

祈れど願えど一向に降り止まぬ雪は、この地に生きる人々にとって障害にしかなりはしない。けれど大輝石が無いと生きられないこの世界では、雪を手放すことすら許されはしない。共存を図っては立ち塞がる壁に絶望する人々を、アスベルたちは経由してきた港や街で、もう幾人ほども目にしていた。

「……この世界に恵まれた土地は、そう多くはありません。寒さを凌ぐ方法を探している人々も居れば、今日の飲み水を手に入れるために走り回っている人々もいます」
「ウィンドルではそういうことを心配する必要は無かったけど、代わりにあの国はいつも内政が不安定だった。……今更安全な土地なんて、本当はどこにもないのかもな」

釣り合いの取れない世界には争いが生まれ、争いがさらなる争いを呼ぶ。皮肉にもリチャードが世界中の大輝石の原素を抜き取り始めてから団結を始めた世界は、人々の姿としては本来の理想形に近付いてはいるのだろう。

けれど、手を取り合った挙句にすべてが滅んでしまうのでは何の意味もない。心を閉じてしまった親友を今、傍らの兄は救いたいとばかり懸命に願うけれど。もう傍らの弟はそれを現実的ではないと心で嘆く。どちらも大切なものを守りたい気持ちに変わりはないというのに、現実をあまりによく見渡せてしまうその性質は、ヒューバートにとって必ずしも良い結論をもたらしはしなかった。

何事にも本質を追い求めるアスベルにとって、おそらくリチャードは被害者だ。理由あって引き起こされた行動ならばその行いに罪はないと、たぶん彼は心から認識しているだろう。それでいい。純粋で真っ直ぐな兄はそのままであればいいと、ヒューバートは無言のままで切に願う。

それでもかの国王の――リチャードの行いは、対外的には紛れもなく大罪に違いはない。だからこそ、そう。いつかどうにもならなくなったその時は、兄ではなく自分が終わりを導いてやればいい。それが彼の遠く見据えた今後における「現実」だった。

思考を重ねながら、途切れたままの会話に少し居心地悪そうに部屋隅の時計を見やったヒューバートは、続いて気付かれないように兄の様子をちらりと窺う。視界に入ったそれは、黙り込んだままどことなくぼんやりとした、何かを切り出さんとして迷っている時の表情だった。

「ヒューバート」
「……何ですか?」

直後、ヒューバートの予想と違わず思いつめたような響きで弟の名を呼んだアスベルは、ぴたりと視線を合わせてほんの僅かに息をつく。続けて覚悟を決めたように口を開いた彼の言葉は、やはり想像に難くはないそれだった。

「少しでもいい。……ストラタのこと、そろそろ話してくれないか?」
「またあなたは。すぐにそうやって興味本位で……」

首を突っ込むんですね。既に一度目ではないその言葉に、いつものやり取りのように返答しようとしたヒューバートへ、アスベルはそれを制してひどくゆるやかにかぶりを振った。今度ばかりは諦めるつもりが無いのだろうか、アスベルは少しだけ怒ったような、それでいて穏やかな口調で続ける。

「……なあ、ヒューバート。俺はあの日、たった一人の弟のお前と、親父に何も知らされないまま突然離れ離れになってさ。それから俺も家を出て、一人前の騎士になりたいなんて思って。……そうしたら、気が付いた頃にはあっという間に七年なんて経ってた。……俺が家に戻って久しぶりに再会したお前は、自分を捨てたとラントの家を憎んでいたな」
「それが何だと……」
「あの時……ラントでお前に負けたとき、力の無い俺は何も守れないままラントを去った。……俺の中での俺とお前は、まだろくな話も出来ずに別れたままなんだ」

あのときあの場所に、かつてあったはずの兄と弟の姿はどこにもありはしなかった。だからこそ七年前のあの日、突きつけられた二つの事実に家を飛び出したアスベルは、まだ本当の意味でヒューバートに再会していないような錯覚があったのだ。

告げられて、ヒューバートは瞳を逸らしてしばらくの間言葉を無くす。彼にしてみても事情は一切変わらない。ストラタがラントへ進駐したあのとき、唯一あの場に存在したのはストラタの軍人であるヒューバート・オズウェルと、力無き領主のアスベル・ラント。逃れられない立場に置かれた、ただ二人の青年だったのだから。

「……そう、ですね。そう言えないことはない……かも、しれません」
「まだ俺達には知らないことがたくさんある。……話していないことが、いくらでもあるんだ」

悲しげにそっと呟く、消え行きそうなアスベルの言葉をごく自然に拾い上げて、ヒューバートは自嘲気味に微笑しながら頷いた。そのまま「分かりました」と一言置いて溜め息を落とした彼は、まるで独り言でも放つかのように静かに過去を語り始める。

「……七年前の話です。ラントを出て、あの人に……父さんに連れられて到着したバロニアの宿には、身分の高そうなストラタの貴族が待っていました」
「……それって、お前の」
「ええ。名はガリード・オズウェル。ぼくの養父であり、ストラタの権力者でもある男です」
「ガリード・オズウェル……」

少しだけ忌々しげに口にしたヒューバートとは対照的に、その言葉自体を理解しようとするかのように、アスベルは彼の養父の名を今一度だけ繰り返す。以前ストラタで出会ったその人は、権力を何より第一に考える、ある意味では典型的な貴族だった。

「あのときまだ何も知らされていなかったぼくに、会って早々あの人は言いました。今日から君はめでたくオズウェル家の跡取りだ。君の才能に期待しているよ、とね」

初めは理解が追いつきませんでしたよ。そもそも、家を出されることだって予想もしていませんでしたからね。つとめて無感情にそう語るヒューバートは、その瞳に、怒りと言うよりは少しの失望が入り混じったひどく複雑な色を浮かべている。

七年前、二人が最後にお互いの姿を確認したのはあの王城へ続く地下だった。すべての始まりがすべての終わりに呼び名を変えて、また始まりに形を変えたあの場所。彼ら兄弟がソフィに出逢い、あの日、リチャードを追って得体の知れない何かに出逢ったことで、ようやくすべては始まった。もちろん、あの頃彼らはそんなことを知る由も無かったけれど。

ソフィを失い、痛みに眠り込んでいる間に別れてしまったヒューバートのその後を尋ねることに対して、アスベルには今この瞬間になってもなおまだ少しの躊躇いがあった。他者を出来る限り受け入れずに生きようとする、再会するまで予想だにしなかったヒューバートのあの姿は、おそらく離れていた七年の彼なりの結論なのだろうから。

「あの家に暮らすようになってからは……そうですね。鍛錬に勉学と、息つく暇もない毎日を過ごしていましたよ。しかるべき地位に就きさえすれば、あの人から文句が出て来ることはないんです。……所詮名声に縋る悪人ですからね。ある意味はっきりしているとも言えるのでしょうが」
「ヒューバート……」

屋敷に連れられて最初の日、父であるアストンの目が完全に届かなくなってから、養父に浴びせられた言葉の数々をヒューバートは今でも忘れていなかった。

今となっては一体彼の言葉の何に悲しみを抱いて、何に絶望したのかも分からない。けれど、切り刻むようなその傷は今も確かに癒えてはいない。ただ言葉にしていないだけで。決して傷つくことなどはしないと、そう強がることが当たり前になっているだけで。

「……ただ、あなたにひとつ伝えなければならないことがあるとすれば」
「ん?」
「……いえ、止めておきましょう。あまり良い気分のする話ではありませんから」
「いいのか?言いたいことがあるなら言っても……」
「いえ、構いません。……それより、兄さんはどうしていたんですか。騎士学校に居たんでしょう?」

はぐらかすようにアスベルの過去を問うたヒューバートは、続けてあの日の光景を静かに思い描いていた。不安げに居住まいの悪い部屋へ佇んだ小さな子どもに向かって、今しがた去ったばかりの本当の父親を、あの男は躊躇いもなく貶して見せたのだ。

『君の父上は君を捨てたのだよ。跡継ぎにもならない子どもなど必要ないと判断したのだろうね、可哀想に』
『……と、父さんはそんなことしない!』
『だが、現に君はこうして身勝手にラントの姓を奪われた。違うかい?』
『っ……!ぼ、ぼく、は……』

十を過ぎたばかりの子どもに向けるには些か酷に過ぎるであろうそのやり取りは、やがてラントの家族すべてに対して及んだ。父上は領主にもなれずに持て余した次男を疎ましく思ったのだろう。母上はそんな君に情けを掛けて優しくしていただけだ。きっと、心の底では扱いに困っていたのだろう、と。

『……君の兄もきっとそうだね、ヒューバート?』

それまで必死に否定を続けていたヒューバートも、止めにかかるガリードのこの言葉にだけはすぐに返答することが出来なかった。いつも自分から追いかけているばかりだった兄は、もしかすると本当に自分を疎ましく思っていたのだろうか。

考えれば考えるほどに思い当たることだらけの記憶は、良くないと思いながらも疑心をひたすら呼び寄せる。お前は付いてくるなよ、邪魔になるだけなんだからさ。そう少し不機嫌そうに言い放つ兄の姿ばかりが浮かんで、すべてが偽りに思えてしまう恐怖が今ではただ忌々しい。

もしかすると何もかもを疑うことを覚えたあのときから既に、もう昔のようには戻れなくなってしまっていたのかもしれない。本当は誰にさえ愛されていたと知っていたはずなのに、甘言に乗せられラントをひたすら恨んで生きてきた。

父の死を看取れず、それを心から悲しむことすら出来ず、立場上とは言え兄に故郷を捨てさせた。父と養父、その両方に反抗することで、あらゆるものを失った。ストラタへ来て得たものは多いけれど、捨ててしまわなければならなかったものも今となっては数多い。

「……ヒューバート?」
「何ですか、兄さん?」
「いや、なんかぼーっとしてたからさ。心配になって」
「ちゃんと聞いていましたよ。七年前に屋敷を飛び出して騎士学校へ行き、騎士になりたいと頼み込んだところから……ぼくと会う前までのことも」

今こうしてどれほどの言葉を用いて語り合えど、彼の兄はヒューバートの苦しみを直接に知ることは無いのだろう。ただ彼自身もまた、アスベルなりの苦しみを直に知ることが出来るわけではない。別々の時間を生きてきた彼らは、希望のために刃を振るう兄と、現実のために刃を振るう弟とにその立場を二分した。

けれどそれさえも越えて今、再び道は繋がっている。もう出逢うことも出来ないと悔いるばかりだった少女との再会を果たすまで、彼らは痛みや苦しみや、決して言葉には出来ない、心に重く滲むたくさんのものをただ孤独に乗り越えて来た。それがみな、今では同じ方向を向いて戦っているのだから。

「この七年、いろいろなことがあったんだ。……本当に、いろいろなことが」
「ええ。……そうですね」

だけど俺達は今ここにいる。それだけは変わらない。確かめるようにひとり呟いたアスベルに、ヒューバートはやれやれとばかりに溜め息を吐いた。変わりませんね、あなたは。そう諦め気味に微笑を浮かべたその様は、けれど、どこかで安堵を覚えているようにも見える。

「……お帰り、ヒューバート」
「おや、今更出迎えの挨拶とは。いささか暢気ではありませんか?……兄さん」
「あのな、それはお前のせいで――」
「……冗談ですよ。……ただいま帰りました、と言っておきましょう」