アンダンテ

「なーんか駄目だなー。……なんでだろ?」
「どうかしたのか、パスカル?」
「あ、教官じゃん。んーにゃ、別に大したことじゃないんだけどさー」

着工された大紅蓮石の現場監督を務めるべく、パスカルは故郷であるアンマルチアの里から首都ザヴェートへと降りていた。しばらくはこうして宿屋に泊まり込んでいるから、その間の来客は全てこの部屋に通すことにしている。

現れたマリクの疑問に、パスカルは特に何でもない、と言った調子で軽々しく返答する。フォドラの核を巡る旅から二ヶ月ほどが経ったこの頃、パスカルは事あるごとに妙な違和感を感じていた。

それは別にどこかが痛いとか何かが悪いとか、そういう違和感ではない。何となく何かが足りないような感覚、とでも言えばいいのだろうか。漠然としすぎていて一体何が足りないのかは定かではないものの、たしかに何かが足りないような気がしてならず、こうして時々考え込んでしまうのだ。

「ふむ……では、とりあえず。ストラタから書類を預かってきたぞ。パスカル宛だ」
「えー、また書類?あたしこっちに来てから紙とにらめっこしてばっかだよ〜。あーあ、領主続けてるアスベルの気持ちが分かっちゃいそう〜」
「まあそう言うな。ヒューバートからの書類だと思えばいくらか気楽に読めるだろう」
「……へ、ヒューくん?珍しいね〜、何の用事だろ?」

マリクが伝えれば、ぱっと明るくなってパスカルは興味を移す。無邪気とも自由とも取れるその様子は以前から少しも変わらず、マリクは心の中でヒューバートへ嘆息した。

この人物を相手にしようとするヒューバートの忍耐力は相当なものだ。何しろ自由気ままなどという次元をはるかに超えた自由人。姉であるフーリエや妹分のポアソンすら時にさじを投げたくなると語るパスカルだが、本人はさしてそれを疑問にも思っていない。

「あー、ストラタの技術者派遣してくれるって言ってたアレね〜。ふむふむ?ほー、百人か〜。そんだけいれば十分かな。……んで、教官はヒューくんに会って来たの?」
「ん?ああ、会ったぞ。相変わらず忙しそうにしていたがな」
「さっすが少佐だね〜。ヒューくんは毎日「ヒューバート様!」とか呼ばれてるんでしょ?すごいなー。あたしなんてちょーっと「パスカル様」なんて呼ばれるだけでもう耐えらんないよ〜」

「ヒューバート様」の部分をストラタ軍人に似せるようにして語り、深く溜め息をついたパスカルにマリクは笑う。大紅蓮石を用いた工事の現場監督を任されたパスカルは、フェンデルで言えばそれなりの地位を得たことになる。位置づけで言えば総統指揮下の外部機関の長ということだから、当然多くの人間を率いる立場ということだ。

本人はことあるごとに「せめてパスカルさんって呼んでよね」と進言してはいるのだが、何しろ厳しい軍事制度のもとに育ってきたフェンデルだ。厳しい規律を何よりとし、自由な人間を相手にする機会の少なかった彼らは、このパスカルという人間をどう相手にして良いものか迷っているようにも見受けられる。

ただ、その一方で隠れた人気があることもマリクは十分に承知していた。当然本人は露ほども気が付いてはいないだろうが、パスカルに想い人がいるのかどうか、そもそも彼女は相手を作る気があるのだろうか、それならばぜひ俺が、と、関係者の間でまことしやかに囁かれているのは事実だ。

見た目だけならたしかに並とは比べ物にならない美人だし、たしかな知識と技術はそれだけで技術者の心をくすぐるのだろう。細かいところを抜きにすれば、裏表のない人柄は文句がない。長きを疑って生きてきたこの国の男連中にとって、彼女のような振る舞いはある意味理想とも言えるのではないだろうか。

「大体あたし、偉いとか偉くないとか興味ないしさー。ちゃんと工事が進んで完成すればそれでいいわけよ。なのになーんでみんなそこんとこに気ぃ遣っちゃうかな〜」
「それは仕方がないだろう。ここは昔からそういう国だからな。……もっとも、ウィンドルだろうがストラタだろうが同じことだとは思うが」

失笑しつつ、マリクは言った。どの国の軍においても上官にため口を利くなど自殺行為だ。パスカルにしても理解してはいるのだろうが、彼女の場合、実情にというよりはそのシステム自体に文句を付けている、といったところだろう。

「ん、そだそだ。ヒューくんに連絡しておかなくっちゃね。どれどれ……教官から書類受け取ったよ。派遣ありがと、っと」

チャカチャカポン、ほいっと。独特の効果音を口にして、パスカルは通信機の送信ボタンを押下する。

「通信機か?」
「そうだよ〜。どうせ近々会いに行かなきゃだけどさ、一応ね」
「なんだ、ストラタへ行くのか。現場を空けて大丈夫なのか?」
「んー、たぶん大丈夫でしょ。こっちの作業は当分先までみんなに指示してあるからいーけどさ、あっちはあたしが行かないとちんぷんかんぷんだろうし」

ホントは暑いの苦手なんだけどねー。少しうなだれて、パスカルはだるそうに溜め息をついた。

以前ストラタの大蒼海石のもとへ向かった時も、パスカルは砂漠の暑さに負けて黙り込んでいたことがあった。生まれも育ちもフェンデルのパスカルにとってはストラタの暑さは身に堪えるらしい。マリクは以前ストラタに暮らしていたこともあって慣れたものだが、たしかに初めて経験するあの暑さは気の滅入るような心地がする。

「首都に入れば気温を気にする必要はあるまい。あそこは大輝石のおかげで砂漠の中でも涼しいままだからな。……ときにパスカル。ヒューバートに会うのは何時ぶりだ?」
「へ、あたし?えーと、最後に別れたときから会ってないよ。二ヶ月ぶりくらいかな〜」
「ほう……」
「あ、でも通信機で連絡くれたりしてるから、顔見てないのが二ヶ月くらいかな〜?この間は珍しくお姉ちゃんに怒られないなーと思ってたら、「ちゃんと栄養のある食事をとってください!」ってヒューくんに怒られちゃった。うーん、なーんでバナナパイばっかり食べてたってバレたのかなー」

口元に手を当てて、考え込むような仕草でパスカルは唸る。口うるさく声を掛ける、ヒューバートのその意図が分からないのは当人くらいのものなのだろう。

見栄を張りがちなヒューバートだからして、当然本国ではそのような態度を見せたりすることは微塵もない。むしろ、本国ではいわゆる「デキる男」で通っているヒューバートだ。こんな自由人ひとりに振り回される様子を部下たちが目撃したとしたら、おそらくギャップに驚くどころの騒ぎではないだろう。

「ま、あいつもパスカルが心配だったのだろう。俺が会ったとき、パスカルは相変わらず遺跡に篭りきりだと伝えてあったからな」
「心配性だな〜、ヒューくんは。大丈夫!バナナパイで人は死なないよ〜」

あっけらかんと言い放ったパスカルに、場の空気が一瞬凍る。どれほど時を重ねても、マリクは未だにずれた空気を瞬時に是正出来る境地には至っていなかった。

「いや、そういうことを心配しているのではないと思うがな……」
「あ、それともバナナの鮮度を気にしてるのかな?うーん、さすがのあたしも賞味期限切れのはちゃんと捨ててるのにな〜」
「……全く。変わらんな、パスカルは」

諦めたように笑って、マリクはそれ以上追求することを止めた。冗談めいたパスカルの真剣な言葉をまともに受け止め、その上言い聞かせることが出来るのは彼女の姉か、もしくはヒューバートくらいのものなのだろう。

「……そういえば、俺が入ってきたばかりの時に呟いていたあれは一体何だったのだ?えらく悩んでいたようだが」
「あー、あれ?んー、この辺がもやもやーっとして、ぐちゃぐちゃーっとしてパーンな感じ?」
「……全然分からんな」

盛大に吐息して、マリクは頭を抱えそうになる。大抵の場合、パスカルの比喩は当人にしか理解する術はない。

「つーまーり、最近なーんか足りない気がするんだよね〜。ずっと変なんだよ。お姉ちゃんに怒られるのは相変わらずだし、アスベルたちにはこないだ会ったばっかだし、工事してるのだって毎日だしさ。そりゃ「パスカル様〜」は耐えらんないし、資料整理もキライだけど……んー、何て言えばいいのかなー」

そうじゃないんだよ。とにかくなーんか足りないの。心から疑問だというふうに語るパスカルの言葉を聞いて、マリクは人の悪い笑みをニヤリと浮かべた。

パスカルの言うように、アスベル達は先日このザヴェートを訪ねてきている。ソフィとシェリアも同行していたが、用向きはフェンデルとストラタの架け橋として、ラントの往来基準をさらに緩和する件の同意書を総統に提出することだったそうだ。

リチャード率いるウィンドルの一行が大紅蓮石の原素を利用することについての説明を求めに来た際、パスカルはリチャードとも顔を合わせている。フーリエは研究所へ帰っているものの頻繁に顔を出しているし、ポアソンもまた、里の仕事の合間を縫って様子見に来ている。

――となれば、やはり理由はひとつだ。

お前のしてきたことも存外無駄ではなかったかもしれんぞ、ヒューバート。そんなことを内心呟いて、マリクは腕を組みパスカルを見据える。

「そうだな、それはストラタへ行けば分かることかも知れんぞ」
「はえ……なんでストラタ?」
「……さあな。何事も実践してみなければ本当のところは分からないものだ」
「ぶー、教官のケチー」
「ケチなどではない。俺はお前のことを思って広い心でだな……」
「いーや、ケチだね。……そっか、わかったよ。教官はもうおじいちゃんだからすっかり頑固になっちゃったんだね。かわいそうに……」

あからさまに見え透いた泣き真似をして、パスカルはマリクへ憎まれ口を叩く。今や何ら遠慮のない間柄は、目に見えずとも、各々にとってたしかな形で築かれている。誰が誰へ何を言っても揺らがない信頼。さながら家族のようだと自負するのは、おそらくマリクだけではないのだろう。

「……それはいいとして、提供が決まったんならストラタ行きは早い方がいいよねー。っても、押し掛けちゃさすがにまずいかな〜」
「それはまあ、そうだろうな」
「ヒューくん絶対怒るもん。ほんっと、ヒューくんってカリカリするの好きだよねー。もっと笑えばいいのに。……って……ん?」
「どうした?」
「んー、前にもどっかでそんな話をしたような……」

あれはどこだっただろうか、ふとパスカルは思う。いつになく真剣な調子で話しかけてきたかと思えば、あまりにも突飛な質問をされたような。あれはたしか――。

「あ〜、星の核かー!」

思い出して、パスカルは弾けるように手を叩き、声を上げる。そう、あのときヒューバートはパスカルへ「自分の笑った顔が見たいか」と尋ねたのだ。パスカルはそれに「別にいいよ」と答えたし、そのときはたしかに言葉どおり、それは彼女自身にとって特に興味のある事柄ではなかった。

――それでも今、何故だかヒューバートの無性に笑った顔が見たい、ような気がする。

「うーん、しばらく会ってないからかな〜。変なの。……でもヒューくんのことだからさ、きっとまたしかめっ面だよね〜。こーんな感じで!」

言って、パスカルはきりりと表情を歪めてみせる。険しいふうをしたそれはお世辞にも似ているとは言えないけれど、どことなく的を得ているようにも思えなくはない。

「さーて、んじゃ、あたしはストラタ行きの日程でも調整してきますか!」
「……あまり部下を困らせるんじゃないぞ?」
「大丈夫だよ〜。ちゃーんとお伺いたててくるからさ。んじゃまたね、教官!」
「ああ、ヒューバートによろしく頼む。俺はしばらくフェンデルから出られそうにないんでな」
「ほいほい、まっかせて〜」

挨拶を軽く交わして、パスカルは宿の個室を飛び出していく。残されたマリクは、物思いにふけるかのように微笑してこう呟いた。

「ここまでよく頑張った……と言いたいところだが、野良猫の難しいところはここからだからな。……ヒューバート」