あの日の笑顔にもう一度

「アスベル。……私、ずっと思っていることがあるのだけれど」
 そう切り出したシェリアは深刻そうなふうをして、真っ直ぐにアスベルの瞳を見やる。そんなことは有り得ないのだと、誰より自分自身が心得ている、万に一つの奇跡みたいな可能性。どうしてなのだかこの頃は、それが現実に起こりえるような気がしてしまうから。
「……どうした?」
「今から話すことは、冗談のつもりでも何でもないわ。……そういうこととして、聞いてくれるかしら」
「シェリア……?」
 どうやらただ事ではない様子に身構えて、アスベルはシェリアの言葉をただ待った。それから幾ばくか生まれた間は、シェリア自身、伝えるかどうかを躊躇っていることの証明なのだろう。
「……そうね。どう言ったらいいのかしら……。夢を、見るの。この頃、同じ夢ばかりを何度もよ。……こんな偶然、有り得ないと思うのに……」
 願望がそうさせるにしても出来すぎな、優しげで、微笑ましいあの子の笑顔が――毎晩毎晩、あの声色で私を呼んでみせるから。ありもしない妄想に囚われているだけなのかもしれないと、こんな言葉をアスベルに投げ掛けて、ただ彼を無為に傷付けるだけかもしれないと分かっていても、こうして言葉にせざるを得なくなる。
「……ソフィの」
「え?」
「……あの子の、夢を見るのよ。ここのところ、一度も途切れずに毎晩よ。……夢の中でも同じなの。初めはほんの少しのことしか出来なかったあの子が、今では私たちと出逢った頃より、ずっといろんなことを話すから……」
 私、今のあの子がどこかで生きているような気がして。そうとだけ言ったシェリアに、アスベルは訝しげな表情のままで、シェリアを咎めるようにたった一言「それは……」と返す。
「ソフィが生きてるわけないだろ。……あいつはもう何年も前に、俺たちの目の前で死んだんだ」
「そんなの分かってる! ……分かってるわよ。けど、それだけじゃ納得出来ないから……こんなこと、言ってるに決まってるじゃない」
 こんなこと、冗談にしてしまっては悪ふざけが過ぎる。シェリアはそう思って、アスベルへ訴えかけるかのように視線を投げる。今しがた口にした、その言葉は願望なんかじゃない。あの子は、人でないソフィは、だからこそ今も何処かで生きているのだと。シェリアには、ただただそう思えてならなかった。別に、現実逃避から来る浅慮な空想などではなくて。口にした以上、この言葉は本気だった。
「そう言ったところで、事実は事実だろう。……ソフィは死んだんだ。失われて、もう二度と戻らない。あいつは七年前のあの日、俺たちを世界樹の暴走から守ってこの世界から消えた。俺もお前も知っている通り、今更それが全てだろ」
 マナの制御が上手く行かず、暴走してしまった大樹からアスベルとシェリアを守るため、溢れすぎたエネルギーと自身のエネルギーを相殺するようにして、ソフィは消えてしまったのだ。
 無力に嘆いたのは、悲嘆に暮れたのは、紛れも無い事実であり、また動かしようの無い現実だ。あの時ほど自身の非力を憎み、誰かの死を悼んだ瞬間は未だかつて無いだろう。
「……それは違うわ」
「シェリア、お前――」
「ねえ、アスベル。それじゃああなた、一度でも考えたことがある? どうして私の病気が治って、こんなふうに不思議な力が使えるようになったのか。……死を待つだけの身体で生きていたから分かるのよ。……この力は、お医者様の言うような天性の才能でも、説明の付かない奇跡なんかでもないの」
 どれほど現代医学における最先端の治療法を集めても、あなたの病気は手の施しようがありません、と。死の宣告にも等しい一言を告げられたあの日の弱い自分から、今、こうしてアスベルの隣に立っていられるまでの自分に変わることが出来た理由。それはある人にとっては奇跡にしか映り得ないけれど、アスベルやシェリアに言わせてみれば、きっとこの上ない絆に満ちた贈り物だったのだ。
 世界に消え行く少女からの、再会の願いを込めた優しい力。「またいつか会おうね」と、怯むことなく光に朽ちた、誰もが目を引くあの笑顔も。
「……この力、どんどん強くなってるのよ。……おかしいでしょう? ソフィが最後にくれた力なら、扱いが上手くなるだけならまだしも、強くなるだなんて絶対に有り得ないはずだもの」
 あなたにも覚えがないかしら、アスベル。そう問い掛けて、シェリアは真摯な眼差しで答えを求める。あの瞬間、同じ力を受け取ったのが二人なら、アスベルにもその兆候は出ているだろう。
「俺は……」
 シェリアの言葉を受けて、アスベルはぼんやりとこの頃のことを思い返す。――ああ、そう言われてみれば、思い当たることが無いわけでもない。神経質に時系列を追いながら、アスベルは慎重さを保って口を開いた。
「この間の任務で、暴走した世界樹の残留エネルギーで凶暴化した暴星魔物の分布調査に行ったんだ。その時ちょうど潜んでいた魔物に気付かれてさ。俺が咄嗟に斬った一匹も暴星魔物だったはずなのに、そいつは普通の魔物と同じように簡単に倒れたんだ」
 あまりにも簡単に決着が付いたものだから、あの時はおそらくアスベルが暴星魔物と一般の魔物とを見間違えたのだろうということで結論が出たのだった。暴星魔物と通常の魔物は、見た目にはそれほど違いが分からない。纏っている重々しさと凶暴化の度合いを鑑みて総合的に判断を下す分、正確な特定はなかなかに困難と言える。
「……だが、あの敵は間違いなく暴星魔物だったんだ。上官達には信用してもらえなかったが、決して嘘なんかじゃない」
 つまりはその剣ひとつで、アスベルは暴星魔物を跡形も無く葬り去ってしまったことになる。以前はせいぜい暴星魔物を軽く脅かし、その場から追い払う程度だったその力は、たしかにそう言われてみれば、日ごとに強さを増しているのだ。
「けど、それだけでソフィが生きてるだなんて……」
「それでも、確かめてみるだけの理由にはなるでしょう?」
 もしも再びあの場所で彼女が昏々と眠り続けているのなら、それを目覚めさせるのは他の誰でもない、自分達の役目なのだろうとシェリアには思えた。息衝く力を、生きる力を与えてくれた優しい少女がまどろみから覚めたその時、目の前に広がる風景が、どうか独りきりの悲しいものでは無いように。
「行くのか、あの場所へ」
「ええ。あなたが止めるのなら、私独りでも行くわ」
「まったく……分かった。どうせ言っても聞かないんだろう? 俺も行くから、無茶はしないでくれよ、シェリア」
「分かっているわ。……せっかくこうして生きているんだもの。私を生かしてくれたあの子にもう一度会うまでは、どんなことがあっても死ぬわけにはいかないでしょう?」
 言ってから、シェリアは「それじゃあ、行きましょうか」とだけ言って、アスベルの肯定をつかの間待った。
「……ああ、そうだな」
 それからほんの一瞬の後。アスベルもまた覚悟を決めて、故郷の裏山に向けてシェリアの隣を寄り添い歩く。疑わしき中にも心なしか希望に満ちたその表情は、どこか、大らかな救いを予感させるようだった。