君と未来の約束を

「ねぇリッド。帰ったら何が食べたい? そろそろ晩ご飯の時間だから、帰ったら何か作ってあげるよ」
 振り向いたファラはそう言って、リッドに向けて屈託の無い笑みを浮かべる。――ああ、見慣れたいつもの笑顔だ。受け取った視線にぼんやりとそんなことを思ってから、リッドは「そうだなぁ」と考えるような仕草を取った。
「んじゃ、ファラのオムレツが食いてぇな」
「オムレツ? うん、それなら今朝近所のおじさんにもらったばっかりの新鮮な卵があるから、とびっきりのやつを出してあげられるよ」
 そうと決まったら、早く食べてほしくなってきちゃった。リッドが食べてるところを見るの、わたしすっごく好きなんだ。ちょこまかと飛んだり跳ねたりを繰り返しながら、ファラは愉快そうにリッドへ一言二言そう語る。
 ――明るさの固まりみたいなふうをして、抱えているのがあれほど後ろ暗い記憶だなんて、一体誰が考えると言うのだろう。つかの間冷めた想いでファラを見やって、リッドは内心息を吐いた。
 一見すると無理をしているふうには見えないのに、リッドは時折ファラに危うさを感じることがあった。時に本人すら気が付かぬほど必死に覆い隠している苦しさが、どういうわけか手に取るように分かってしまうのは、たぶん、これほどの距離で彼女を見続けてきているせいなのだろう。
「なあ、ファラ」
 リッドはファラの名前を呼んで、再び前を見据えていたファラを振り向かせる。きょとんとしたその様子が妙に愛おしく思えてしまって、ほんの僅かだけ口角を上げてみれば、ファラは意味が分からないといった様子で立ち尽くしてリッドを見やった。
 ――この笑顔を守り続けるのは自分の役目だ。ファラのためにというよりも、おそらく自分がその明るさに救われたからこそ彼女を守り続けたいと思うだけの、ひどく個人的で傲慢な願い。
 それでも、今さらこの平穏を手放したいとは思えなかった。重い過去を背負った彼女が、たとえそれを乗り切れないと嘆く日が来ようと構わない。らしくなく悩んで、進み方が分からなくなって、いずれ立ち止まったところで構わない。
 たとえばこの願いが傲慢ならば、彼女の持つ無謀さがやがて取り返しの付かない後悔になってしまわないための手助けに、ほんの少しでもなってくれるのならとさえ思う。
 ――そう、そのために、まずは伝えなければならないことがある。思って、リッドはファラを手招きする。
「ちょっとこっち来いよ。……さすがに村帰る前じゃねぇとな」
 村の中で見知った顔に出会う可能性があるのでは、やりづらいことこの上ない。息を吐いてからファラが歩み寄るのを見やって、リッドはファラに掛ける一言目を考える。
 そもそも洞窟で掛けたあの言葉を、ファラはどういった意味で受け取ったのだろう。何とはなしに思いはすれど、それを考えること自体、リッドにとっては野暮なことだった。お人好しで鈍感なファラのことだ。大方「これからもよろしくね」とか、「俺はいつでもお前の味方だ」とか、そういった類の認識でしかないのに違いない。
「お前、洞窟の中で俺が言ったこと覚えてるか?」
 これから幾年の月日が経っても、傍を離れないための自らへの決意と。おそらく当人が自覚していない美点に惹かれてやってくるであろう、未来の不愉快な影への牽制を込めた些細な言葉を。
「リッドが?」
「ああ。……お前は大して気にしちゃいないんだろうが、悪いけどあれ、本気だからな」
 簡潔にそうとだけ言い切って、リッドはファラの様子を窺う。ぽかんとして思考が追いつかないというふうのファラに、「思い出せねぇなら、面倒だけどもっかい言うぞ」とリッドの声。
「洞窟の中の……」
 対するファラは、歓喜に沸いた洞窟の中での出来事を思い返していた。デュークを倒し、人間が滅びずに済むとようやく落ち着きを得た頃、リッドと何を話しただろうか。これでマナの枯渇も元通りになるね、とか。尻拭いをするのは大変なんだからな、と愚痴を聞かされたりもした。そう、その時たしか――。
「わたしの尻拭いをするのはリッドの仕事?」
「あー、いや……ま、そりゃ確かにそうなんだけどよ。言いたいのはそこじゃねぇって」
「もう、なによ。気になるじゃない」
 話題に取り残されていることが気に食わないのか、不満げに頬を膨らませるファラに苦笑してから、リッドは至極真面目な表情を繕った。一度で伝わらないのなら、その孤独に響いてくれるまで何度でも。この世界で唯一、あらゆる自由を犠牲にしてでも失いたくないと願ったもののためになら、この程度の労を惜しむ気になどなれるはずもない。
「……ファラの面倒を見るのは、一生俺の仕事」
「え……?」
「そう言ったんだよ。言っとくけど、どこのどいつにもお前の面倒見させるつもりはねぇからな」
 こうまで深く関わって、こうまで深くファラを知って、今さら他の誰かに引き渡したいとは思えない。
 ――所詮、つまらない嫉妬かもしれない。それでも独りよがりでないのなら、傍に居続けてやりたいと思えた。有り余る笑顔で手を取って走るその姿が、いつか暗がりに引きずり込まれそうになってしまったその時、今度はこちらから手を差し伸べてしまえるように。案外と脆く優しいその心根が、あずかり知らぬ未知の世界で、人知れず壊れてしまうことの無いように。
「リ、リッド……?」
 そんなリッドの言葉を受けて、まさにパニックと言って差し支えないほどに、ファラは目に見えて動揺する。どこぞの学士のように回りくどい言い方をしていては、この鈍感お転婆な少女にはいつまで経っても伝わらないだろう。リッドのそんな直球勝負は、どうやら思うより遥かに効き目があったらしい。
「つーか、俺がお前の面倒見なかったら誰がファラの面倒見るんだよ。ホイホイお前に付いていける奴なんてどう考えてもいねぇだろ」
「それ、は……」
 それきり押し黙って、ファラはリッドの言葉の意味をかみ締めるように立ち尽くす。ああ、もう。こんな、何でもないような瞬間に、突然そんなことを言うなんて。
 ――ああ、それでもリッドのこの言葉は、間違いなくわたしが幼い頃から憧れていて――それからいつかは来るのだろうと漠然と予感していた、幸福の只中に追いやられてしまうような、魔法のような一言なのだ。
 リッドがくれるこの言葉は、もっと夢見がちで特別なものなのかと思っていたけれど。――いざ受け取ってしまえば、舞い上がってしまうというよりは、安心感の方がなぜか強くて。何だかとても、不思議な感じがする。
「……で?」
「え?」
「どうなんだよ。……俺が一緒に居るのは嫌か?」
 そうして一連の言葉の終わりに、ひどく優しい声色でリッドは問う。答えを焦らない大らかさと、それなのに時々強引に手を引いて行ってくれるその力強さは、昔からずっと変わらない。
 ――そう、言葉になんてしなくても、なんとなくずっと一緒に居るものだと思っていたから。約束を求めるような言葉をちゃんとくれたことに驚いてしまって、尚更、ひどく愛おしい。
「……ううん。嫌じゃないよ。リッドと一緒だから、わたしは安心して前だけを見ていられるんだ」
 それはね、きっとこれからも変わらない。穏やかな様子でそう言って、ファラは突然の告白にも戸惑うことなく一言返す。きっとこの先も、ひた走りながら、呆れられながら、自分はリッドの隣に居るのだろうと。そんな未来を思い描けてしまう以上、この想いを否定する理由はどこにも無かった。
「……ファラ」
「わたしね、嬉しかったんだ。変わらなくていいんだって、リッドがわたしに言ってくれたこと。……ううん、それだけじゃないの。リッドが今までずっとわたしを支えてきてくれたこと、ちゃんと分かってるから」
 他の誰かに晒すことが出来ずに誤魔化してしまう不安も、リッドの傍でなら、自分で気付いて窘めることが出来る。不器用な優しさで、たしかな言葉で、どうにもならなくなる前に救いの手を差し伸べてくれるのは、いつも必ずリッドだった。
 ――そう、他の誰とも違うたったひとりは、リッドだけ。思ってから、ファラは勢い良くリッドに抱きつく。
「うぉっ、おい、ファラ!」
「うーん、こうしてみるとわたしより全然背高いなぁ。昔はわたしの方が高かったときもあったのに」
「……そりゃ、いつまでもガキじゃねぇってことだろ」
「……うん、そうだよね。いつまでもあの頃のままじゃいられないことは、なんとなくわかってたけど……」
 まだずっと幼い頃は、ただただ純粋な感情で、お互いはずっと一緒に居るものなのだと思っていた。一度心を通わせてしまえば、それが途切れることなど有り得ない。そう信じて小さな世界を生きていた。
 それが揺らいでしまったのは、自分自身が悲劇を招いたあの日のことだ。ファラは思って、一瞬だけ切なげなふうに視線を落とす。あのままリッドと疎遠になって、今もお人好しの意味を履き違えた毎日を送っていたのなら、今頃どうなっていたのだろう。それを考えると、ほんの少しだけ怖くなる。
「……よかった、リッドが傍に居てくれて。……こうして当たり前みたいに居られることが、きっとね、すごく素敵なことなんだなって思うよ……」
 抱いている感情は、ただの「幼なじみ」だったあの頃とは少し違ってしまっているけれど。それでも互いの変わって行く先が、これからも共に在る未来で良かったと、そう心から思う。
 ――そうしてファラが見上げれば、真剣な眼差しでリッドがそれを見下ろした。――衝動に委ねて熱を重ね合わせれば、つかの間、静寂が満ちる。
「なんか、……変な感じ。こういうのって、その……」
「慣れねぇ、ってか? ……なーに、すぐ慣れるって。……じゃ、そろそろ行くか? 早いとこ帰って、ファラのオムレツ食わなきゃなんねーからな」
「え? あ……、ちょっと待って、リッドったら!」
 余裕の表情を浮かべたまま、先を行くリッドをファラがぱたぱたと走って追いかける。案外と足早なリッドに手こずって焦ってみれば、やや行って、リッドが振り向き立ち止まった。
「……ばーか。んな急がなくたって、お前を置いて行ったりしねぇよ」
 「ほら、手」。そうとだけ言ってリッドが手のひらを差し出せば、意図を悟ったのか、ファラがその手に自らの右手を重ねる。
 ――そうしてよく晴れた陽だまりの下を二人、未来へ向かって歩き出す。その手のひらに伝わるぬくもりが、穏やかに、うららかに、新たな幸福を謳っていた。