それでもあなたが好きなのです

人間、極限まで感情が昂ぶっている状態になどそうそうなるものではないし、そもそもキールは今まで、研究対象に対して以外にそれほどまでの込み入った感情を抱いたことは無かった。だからこそグランドフォールの時のことだって、後から思い返した自分の行動には随分驚かされたものだし、いざこうしてセレスティアに落ちてきてみれば、やはりあの時のように易々と大それた行動を起こせるわけもない。

しかし、近日のこの状況は否が応にも「そのこと」を意識させる。何しろメルディと同じ家に二人きりと来れば、意識するなという方が無理というものだろう。お互いに一歩を踏み出せない曖昧な状態のまま、ちょっとしたことにも言い争い、気遣い合い、またどことなく不確かな空気に包まれる。その均衡が破られたのは、いい加減不安定さにも拍車が掛かってきた頃のことだった。

「……なあ、キール。メルディ、キールに聞きたいことあるよ」
「……何だ」

朝から続いていた資料整理も一段落し、サイカロ茶を淹れて一息。意を決したように口を開いたメルディに、キールは出来るだけ興味ないふうを装って一言だけそう返した。

「あのな。メルディは、キールのことスキよ。……キールは、メルディがことキライか?」
「な……と、突然なにを言い出すんだ。大体、ぼくがいつおまえを嫌いだと言った?」
「だって、キールがメルディに話す、とってもつらそう。……だけどな、メルディもそう。怒りたくないのに、なんだかうまくいかないよ。なんでかな」
「……そんなこと、ぼくに聞かれても……」
「……メルディ、ほんとはちゃんと話したいよ。でも、キールが顔見ると、なんだか……」

その先を濁して、メルディは言葉と裏腹にキールを見やる。キールは彼女の「好き」がどういった意味での「好き」に値するものなのか、今まで直接確かめたことはなかった。無論キール自身がそれをメルディに告げたことは無かったし、とにかく微妙な距離のまま、今を壊すことを怖れて少しの時を過ごして来てしまったのだ。

簡単な言葉のはずなのにいざ言葉にしようとすれば縺れてしまう、それはキールにとってあまりに厄介な代物だった。けれどメルディにとってもまた、自覚したそれを明確に告げるには恐怖の壁が高すぎた。近付けば近付くほど、いつか不要だと言われてしまう気がして怖かったのだ。愛していたはずの母親に捨てられたあの頃の痛みも、今では随分和らいではいるのだけれど。

受け入れてくれていたはずの人間に敵意をもって突き放される感覚――それを思い出すたびに目を閉じて震えずにいられるようになったのは、誰よりキールの存在があったからだ。そのあたたかさに自ら切り込んでいくほどの勇気がどうしても、メルディには浮かばなかった。――だけれど、そうも言っていられない。そう思ったからこそ、メルディは今こうしてキールに尋ねている。

「……なら、ぼくにも聞きたいことがある」
「えと……なにか?」
「その……どういう、意味だ」

やっとのことでそれだけを言葉にして、キールは己の情けなさに内心吐息した。これでは受け身どころの騒ぎではない。思いつつ、上手く言葉が出てきてくれない自分にひどく苛立ちを覚える。こういうことに対しては、書物で得た知識など得てして何の役にも立ちはしないのだ。

「んーと、キールこそ、どういう意味か?」
「……だから、おまえはどういう意味でぼくに好きだと言ってるのかを聞いてるんだ!」

とうとう気恥ずかしさに耐えられなくなったのか、キールは真っ赤になってものの一息にそう言った。問われたメルディは一瞬だけぽかんとして、それからすぐにほんのりと頬を紅色に染める。

「……スキは、スキよ。キール、わからないか?」

心もとない声音でそうとだけ言って、メルディは勢いよくキールの胸に飛び込んだ。突然のことに慌てたのか、後ろのめりになりそうになりながら、キールは何とか体勢の維持に努める。

「リッドや、ファラとはちがうよ。メルディ、リッドにファラが大好き。……でもな、キールはそれとはちがうスキだよ。キールが一緒、あったかくて、くすぐったいな」

言い切ると、メルディは黙り込んでキールの返答を待つ。やがて抱きついたままのキールに抱きしめ返されて、メルディはやや不思議そうに顔を上げた。

「キール……?」
「なんだよ……」
「ん?」
「おまえ、簡単に誰にでも好きだとか言うから、ぼくが今まで聞けなかったじゃないか……」

人なつこいメルディは、程度の差こそあれすぐに他人に開けっぴろげな態度を取ろうとする。それが臆病さに裏打ちされた無邪気さなのだと分かってはいても、未だ量りかねることは数多い。

「……それじゃ、キールはメルディがことキライじゃないか……?」
「誰が嫌いなもんか!ぼくも……ぼくも、おまえと同じ気持ちさ」

半ば自棄にも近いふうにそう告げて、キールはそれでもどこか冷静にメルディを見ていた。「それ」を言い出すのなら自分から。そうでなければメルディはいつまでも、シゼルに見捨てられた恐怖から逃れられないかもしれないと。――そう思っていたのに、やはり強い。弱いからこそ、こうして時折ひどく強さを見せる。

「……キール、あのな。……セリシアがメルディが家に泊まったとき、メルディほんとはアイメン発ちたくなかったよ」
「ああ……おまえがガレノスに会いに行ったときか?」
「はいな。……キールがセリシアと二人、メルディとても嫌だった。でもな、ワガママ言うは駄目よ」

まだほんのりと赤らんだままのメルディは、ここぞとばかりに秘めた言葉たちをキールに告げる。つまらない嫉妬心でセリシアを嫌いになりそうな自分がいやだったこと、ガレノスの家でネアに冷たく当たられるたび、キールやリッドやファラのことを考えていたこと。そして、そのとき一番最初に浮かぶのは必ずキールだったということ。

一見惚気話にも見て取れるそれが少し不安混じりであることに気が付いて、キールは抱きしめる腕に力を込めた。セリシアや、ガレノスやネア。彼らが呼び起こさせるものは、必ずしも幸せな記憶ばかりではない。

「そういえばおまえ、セリシアを嫌っていないのか?ガレノスをほったらかしにした挙句、勝手にティンシアに発つような奴だぞ?」
「ううん。セリシアが旅に出た、いとこに会うためよ。それは仕方がないこと」
「……メルディ」
「……それにな。ガレノス死んだのは、セリシアのせいじゃないよ」

何かに怯えるようにしっかりとキールに抱きついたまま、メルディはぽつりとそう言った。――今更その意味が分からないキールではない。ああ、やっぱりそう思ってたのか。そんなありふれた感想だけを思い描いてから、キールは「そうじゃない」と言い聞かせるように口を開いた。

「キール……?」
「ガレノスが死んだのは、別におまえのせいじゃない。ネア……いや、ネレイドか。あいつのせいだろう。何でも自分のせいだと思い込むのはおまえの悪癖だな」
「……メルディ、まだなにも言ってないよ。なして分かるか?」

そうして不安げな調子を振り払えないまま、メルディは弱々しくキールを見やる。ガレノスが死んだのは自分のことを守ったから。そうでなければ生きながらえていたかもしれないのにと、何度も何度も繰り返して――けれど、それは誰に告げたことも無かったというのに。

「おまえは分かりやすいからな。リッドやファラでも気が付くだろ」
「……そかな。前にメルディが具合が悪かったとき、キールが一番に気がついたよ。リッドが試練のときもそう。メルディが試練が壁に近づくの怖かった。……あれも、気がついたのキールだけ」

闇の極光術の素質を持ったメルディにとって、真の極光術にまつわる場所は禁忌でもあった。実際強い力に拒絶されてしまって、優に数メートルを吹き飛ばされた最初のことがあってから、二度目の扉に近付くことが怖くて仕方なかったのだ。

結果的に危険も伴うそれをせずに済んだのは、キールが機転を利かせてメルディを試練の扉へ行き着く前に連れ出してしまったからだった。別にそれだって、キールにとってみればメルディの様子がおかしいことを察する程度、わけないものだったのだけれど。要するに意識するしないに関係なく、あの頃にはとうにメルディのことを気に掛けてしまっていたのだろうとキールは思う。

「なあ、キール。メルディは、キールがこと信じるよ。……だから、キールは急にいなくなったりしないか?」
「……メルディ?」
「バリルが死んで、シゼルが死んで、ガレノスが死んで、……みんなみんな、メルディがこと守って死んでしまった。極光術フリンジしてアイメン落ちたとき、ひとりはとても怖かったよ。……もうひとりは嫌だよ。メルディが大事な人、誰にもいなくなってほしくないよ……」

必死に泣くまいと堪えながら言い切って、メルディはキールの胸に顔をうずめる。誰かを信じるたび、いずれ誰かを失くす痛みを味わわなければならなかった悲しみはいったいどれほどのものなのか、キールにはおよそ想像も付かなかったけれど。

「……まあ、せっかく自分達で救った世界だからな。ぼくは自分の目でこの世界を見、生き抜くんだ。そしてこの手でインフェリアとセレスティアの未来を開きたい。……だからそう簡単に死んだりはしないさ」
「……ほんとか?」
「ああ。そうだな……リッドあたりに言わせれば『セイファートに誓って』となるんだろうが」
「ワイール!……けどリッドは、あんまりセイファートを信じてないな」
「まあ、そうだろうな。あいつなりの掛け声みたいなものだろう、あれは」

溜め息混じりにキールが言えば、泣きそうな表情でメルディは笑って、ゆったりとした動作で顔を上げた。

視線が絡んで、お互いのそれがふと真剣味を帯びたそれに変わる。それから一瞬――どちらからともなく、唇が触れ合った。

「ん……」

優しく触れるだけのそれを終えてから、名残惜しそうに距離を開ければ、気恥ずかしさに混じって満ち足りた恍惚感が心の奥を支配する。抱き合ったままの安堵感と幸福感と、様々な衝動がない交ぜになったそれは、同じ場所へ留まっていた二人に新たな一歩を踏み出させるには十分な感情だった。

「キール、メルディな……」
「あぁ、ちょっと待った!……今度は、ぼくがちゃんと言う」
「……うん」
「……好きだ、メルディ」
「はいな。メルディも。……メルディも、キールがとっても大好きよ」