Promise

「坊ちゃん」
「……なんだ」
「ひとつ、聞いてもいいですか?」

真剣な話を、しようとする時のその小さな響き。それを受け流すにはあまりにも言葉が強すぎて、手のひらに余って口車に乗る。答えたくないと願えば願うほど答えはすぐそこにあって、それに目を背けさせてくれないことを、この人が何より不愉快に思うことを知っていても。それでも。

「いざとなったらマリアンと僕、どっちを取りますか?」

そうして問いかけるそれがひどく狡いものであると理解していながら、聞かずにはいられないそのたった一文は、案外と繊細なこの人をたぶん苦しめる。たとえ言わずともいつだってその問いは坊ちゃんの中にあって、絶えず答えを探しているのだと。――その自負が傲慢であるとは思わない。それほどに長い時間を共にした。いつも、どんなときも、すべてを分かち合って生きてきた。

「……突然何を言い出すんだ、シャル。その問いなら前にも……」

曖昧に口ごもってしまうその言葉じりを拾い上げることもせず、シャルティエは明確な答えを待っていた。――たぶん答えは知っている。「マリアンを救うために、お前と共に最期まで」。けれどそう在れなかった時の答えを、僕はまだ貰っていない。

「……質問を変えましょうか。マリアンを救うために僕の犠牲が必要なのだとしたら、坊ちゃんは僕を差し出せますか?」

二者択一ですらない、不平等な選択肢が目の前に現れたとき、どうかこの人が戸惑ってしまわないように。投げ掛ける問いに対して僕が欲している答えは、おそらくどこまでも貪欲に彼女を救いたいと願うその言葉。

とんだ自己犠牲だ、と思わないこともない。けれどすべてを捧げても構わないと思える、それほどに僕は入れ込んでしまったから。どこか脆くて頼りのない、強さの仮面をかぶった優しい彼の幸せを、誰より願っているのは僕だろうと言い切ることが出来るほど。それだけは、きっと世界中の誰よりも――たぶん、彼女よりも。

「……どうして今、そんな仮定ばかりの話をするんだ。簡単に答えられるわけないだろう?」
「そうでしょうか?……僕には、なんとなく分かりますけど」
「シャル……!」
「だったら。坊ちゃんが答えられないと言うなら、それでも構いません。……その代わり、僕と約束してくれませんか」
「約束……?」
「もしもマリアンを救うために僕の命が必要になったなら、躊躇わずにこの身を賭してください。大丈夫、それでひとかけらだって恨みやしませんから。……だから決して、躊躇いなんかで一番大切なものを見失わないでください」

ひとつを犠牲にすることを躊躇ってしまったら、結局何も手に出来ずに失ってしまう。僕らはあの少年のように強く出来てはいないから、ひとつを救ってふたつめを生かすことはたぶん出来ない。

所詮人間ひとりの手で救えるものなんて心に背負えるただひとつ程度に過ぎないのだから、それなら坊ちゃんは、心に在り続ける彼女を救えばいいのだと思う。それで傷ついたなら、僕が坊ちゃんを救えばいい。この心に占めるすべての色合いは、マスターである彼に捧げられているのだから。

「……お前を手放さない選択肢は無いのか、シャル」
「最悪の状況を考慮しておくことも必要でしょう?……いつか決断を迫られるかもしれないと坊ちゃんが言ったあの言葉、僕もあながち間違ってはいないと思います。まあ、それがどんな形でやってくるかは分かりませんけど、ね」

言いながら、シャルティエはいつか来るであろうそのときを思い描いてみる。あまり良い気分がしないのは、是非とも気のせいだと思っていたいところだけれど。ただ残念なことに、昔人間であったころの自分の第六感は非常に優れていた方だったように思える。

だからこそ、唐突にこんな話をしてみたのかもしれない。いつかやって来る未来がお世辞にも良いものに思えなくてならないから、後ろ向きな思考に囚われて妙な提案を無理に押し付けて、それで安心してみたかったのかもしれない。

それでもこれが紛れもない本心だから、口にした言葉に後悔というのは特にない。坊ちゃんは、坊ちゃんの信じたように進んでいけばいい。正しければ、ふたりで共に突き進めばいい。間違っていたのなら、ふたりで一緒に背負えばいい。――たとえこの先、何があっても独りにはさせない。何を捨て去ることになっても、その心だけは。

「ね?だから約束しましょうって。もちろん、そんな事態が起こらないのが一番いいってことは分かってるつもりですけど」
「……どうせ何を言っても聞かないつもりなんだろう?」
「はい。それに、坊ちゃんには。……ない、はずですから」
「え?」
「ああ、いえ。何でもありませんよ。どうぞ気にしないでください」
「……そう言われると余計気になるぞ、シャル」

はぐらかされた言葉に不服そうな表情で腕組みをして、リオンはシャルティエに一言そう投げ掛けた。肌をさらう風に冷えを感じて、ほう、と息を吐き出してみる。白く滲んだそれは、瞬く間に世界へと溶けて跡形もない。

「本当に何でもないですって。ただの憶測です。……まあ、絶対に怒らないって約束してくれるなら、……言いますけど」
「……お前はそんなに約束事が好きだったのか?」
「知恵ですよ、知恵。坊ちゃん、約束しておかなきゃすぐにひとりで突っ走って行っちゃうから」

そう言って少し笑えば、リオンは曖昧な様子で同じように微笑した。――空を、見上げる。人気のない夜の風景はとても不確かで、此処に居る感覚すら危うくなってしまいそうな、脆い輪郭線を紡いでいる。

「……分かった、怒らない。だから言ってみろ」

諦めてそう落として、リオンは手近な木に背を預けて瞳を閉じた。さらさらと流れる夜風が心もとない感情をことさらに波立てて、そこに残るのは、少しの煩わしさにも似た。

「……シャル?」

返答が無いことを不思議に思って、黒に世界を閉ざしたまま、リオンは慣れた名前を呼んでみる。そこに感じた気配は、戸惑い――それから少しの緊張と、焦燥にも似た余裕の無さ。今更何を問わずとも、まるで手に取るように分かる。――それほどに長い間、二人は傍に居たのだから。

「……僕は。僕は、坊ちゃんが誰かを救いたいと思ったのなら、それに命を懸けても構わないと思っています」
「それは……さっき、聞いた」
「そうでしたね。……それでは、それがどうしてなのかはお分かりですか?」
「……どういう意味だ?」

億劫そうな瞳を訝しげに向けて、リオンはシャルティエを覗き見た。剣らしく明確な表情は窺い知れないが、概ね穏やかな雰囲気を纏っている――その真意が読めなくて、少しだけ不安になる。

そのまま少しの静寂。一瞬の間をその場に打ち上げて、シャルティエは続けた。

「……それはね、坊ちゃんがふたつを選べないだろうって、ちゃんと知っているからですよ」
「な……?」
「坊ちゃんは不器用なお人ですから。選べるものがほんの少ししか無くなってしまったとき、その優しさのせいで立ち止まってほしくないんです。さっきも言いましたけど、坊ちゃんにとって大切なものを見失わないでほしい。……それは何より、僕自身の願いでもあるんです」

そして、やがてその時が来てしまうような予感がしていることを、口にすることだけは決してしないけれど。漠然とした不安感の裏側に確かに見え隠れする凶兆を見越して、伝えられることはすべて伝えておきたいとも何故だか今、思う。

「……ねえ、坊ちゃん?」

確かめるように、名前を呼んでシャルティエは小さく笑った。「……ちゃんと聞いてる」。返されたリオンのそれにどこか安堵して、同じ調子のままで口を開く。

「こんなことを言ったら怒られてしまうかもしれませんが、……スタンと違って僕たちは、たぶん何もかもを救えるようには出来ていないと思うんです。人間だったころの僕もそうでしたけど、持って生まれたようなものなんですよ。ディムロスのように一つ目も、二つ目も三つ目も、欲張ってぜんぶ手に入れてしまうような人間なんてそうは居ません。……一般人は一般人らしく、それなりに特別になることしか出来ないんです」
「シャル……」
「……それでも、誰か一人のためにくらいなら、特別であることは出来ます。それを見逃さないでほしいと僕は思う。……そのためになら、たとえ何を犠牲にしてでも……どうか、振り向かずにいてください」

僕にとっての唯一守りたいと願う存在が坊ちゃんなのだとしたら、坊ちゃんにとってのそれは紛れもなくマリアンだから。どうかそれを貫いてほしいとただ願う。揺らがずに、前を見て――出来るなら、その選択に後悔ひとつすることも無く。

――不器用な僕たちはこうやって、すべてを投げ出してやっとひとつを救えることを自覚するべきなんだろう。シャルティエは思う。その時が来たならただひとつの世界のために、すべてを切り捨てて笑っていられるくらいの気概が欲しい。

坊ちゃんのために必要な犠牲がたとえ僕なのだとしても、僕のために必要な犠牲が、たとえ尊い戦友だったりしても。――それはそれで構わない。そう思うのは、まるで僕があまりにも、人間らしさに絆されてしまった証のようだけれど。

今更それを恥じたりはしない。たったひとつを選ばなければならないのなら、僕は迷わず散り行く道を選ぶだろう。

「それで、どうでしょう?……約束してくれますか、坊ちゃん」

仕上げにとどめの一文を突き付けてみれば、坊ちゃんは苦々しい調子で唇を噛んだ。――本当は答えたくなんてないんだろう。それを痛いほど理解していながら、あえて答えを求める僕も僕だと思うけど。

「確約は出来ないが……せいぜい、口約束くらいならしてやってもいい」
「……そうですか。それなら、それで十分ですよ。だって……」

坊ちゃんは僕との約束破ったこと、一度だってありませんからね。心の中でそう思い描いてから、僕は口先だけで「やっぱり何でもありません」なんて呟いてみる。ああ、これで後には引けなくなったな。そう思いながらも、どこか優越感にも似た感覚が支配して、あまり悪い気はしないのだから始末に負えない。

――僕の行く末、どこまでもあなたと共に。決意を新たにそう呟けば、物言わぬままで坊ちゃんの、僕に向けた微笑が返るのが分かる。

――ああ、やっぱり僕のマスターは坊ちゃんだ。何気ない応酬にそんなことをぼんやりと思いながら――僕らは踏み込むには少し早すぎるような、夜の闇から歩みを進めた。