双星紫色

予想外な人物と二人きりになってしまった。そう思いながらも、自分ではどうにもならない無力感は一種、諦観にも似ているような気がする。あれを聞かれてもまずいし、かといってこれを聞かれてもまずい。話せもしない事柄がむやみやたらにあるせいで、全てを見透かしたような彼女と共有するこの空間はとにかく一言、気まずい。

どこまで話せば納得してくれるのか、それとも案外引き下がってくれるだろうか。今頃あれこれ考えてみたところで、今更結果が変わるものでもないけれど。

「まさかこうしてあなたと残されるとは思わなかったわ。……思ったより早く、というところかしら」
「そうですね、ははは……」

乾いた笑いを響かせて、シャルティエは心の中で大きな溜め息を吐いた。彼らのマスター同士の折り合いの都合上、アトワイトと孤立した時間を持つことはシャルティエの予想の範疇には入っていなかったのだ。

本質を追求したがる彼女は別れていたこの千年、何があったのかを問うてくるだろう。それに対して無難に受け答えをするのは良いが、近年のことになればなるほど、話せないことが増えていく。――特に坊ちゃんのこと。間違っても彼女のマスターと坊ちゃんが姉弟だとか、それを坊ちゃん自身が知っているだとか、余計なことを口にしないようにしなければいけない。

「ねえ、聞いてもいいかしら?あなた、目覚めてからは何をしていたの?」
「僕ですか?そうですね、十年前はアクアヴェイルのほうで宝剣として奉られていましたから、特に何ということもないんですが……」
「……でも、あなたは今ここにいるのよね。一国の宝剣ともあろう者が、いったいどういった経緯でこんなところにいるのかしら?」
「あー、いや、それがですね。ある晩にちょっと盗み出されちゃいまして」
「盗み出された、って……それもまた随分物騒な話ね」
「いやほら、僕って剣じゃないですか?あの晩も盗られようとしていることまでは分かったんですけど、分かったからってどうなるものでもなくって。そのまま夜闇を流れ流れ、気付いたらヒューゴ邸所属だったってわけです」

シャルティエを盗み出した当の犯人には彼の声が聞こえていないようだったから、おそらく単純に一本の剣を盗んだという感覚だったのだろう。幾分荒っぽい逃亡劇だったので、本人としては半ば誘拐に近い体感だったのだが、やはりいくら叫んでも届かないものは届かない。一部の人間にしか認識されないソーディアンの虚しさというのを、図らずもあの時思い知らされたのだった。

「それは……オベロン社が盗み出したということ?」
「いえ、どうもどこかのブローカーが実行犯みたいですね。僕を買い付けたのは確かにヒューゴ様でしたけど、犯人自体はオベロン社の人間ではありませんよ」

――たぶん、ですけど。最後の一文を心の中に留めておいて、シャルティエは最低限の事実だけをアトワイトに告げる。そのブローカーの声に今となってはどうも聞き覚えがあるような気がするだとか、やけにジルクリスト家に流れ着く過程が自然だったとか、疑問点は数え切れないほど存在しているのだけれど、今それを話したところで仕方がない。

「なるほどね。それで、あなたは偶然リオンに出会ったというわけ」
「ええ、そういうことです。まったく、あの家でも誰も僕に構ってくれなかったらどうしようかと思いましたよ。危うく本気で目覚めなければ良かったと思うところでした」
「あなたねぇ……」
「……アトワイトはそうやって呆れますけど、あの孤独な僕の気持ちはいくら言葉で説明しても伝わらないと思いますね。ええ、本当に」

出来るだけ茶化すような調子を繕って、シャルティエは本心を気取られないように、巧妙に事実を交えて突き付ける。絶望しようが喚こうが、正気ある限り生き長らえてしまう身体だと言うのに、心だけがやたらと強くできている自分にいったい、もう何度冷笑を贈ったことやら分からない。

道を踏み外したとされる人間の中には、たぶん策略の海に手を引かれて行った者も多くいたのだろう。それほどに懇願が切実めいて、張り裂けてしまいそうなほど痛みに満ちた嗚咽を漏らした人間も居たし、それこそまだ世の道理すら分からないような幼い子供だって、この切っ先は容赦なく貫いてきた。

意思次第でどうにでもなるものだったなら、もう少しまともに拒絶だってしてみたのかもしれないけれど。――残念なことに、拒絶されていたのは僕自身だったのだ。斬る人間も、斬られる人間も、誰一人僕を認知すらしないから、すなわちそれはあの空間の誰よりも僕が無力だったのだということ。

生き地獄という言葉を正しく当てはめるとするのなら、まさにああいう状況の僕自身を言うのだろう。そんなことを今でもふと、思う。

「……それで、そういうアトワイトはどういう経緯でルーティに?」
「私?私は……そうね、簡単に言えばルーティが盗み出した……ということになるのかしらね」
「ははは……」
「随分前から目覚めてはいたのだけれど、遺跡の奥ではたどり着くのも一苦労なんでしょう。なかなか私を手に取ってくれる人が見つからなくて困ってしまって。……そんな時に遺跡の宝を盗掘に来たのがルーティだったってわけ。まったくあの子には呆れるやら、ありがたいやら……」

小さく嘆息しつつアトワイトは言うけれど、止むに止まれぬ事情があることだって知っていた。彼女の暮らす孤児院は随分と貧しく、清貧を貫くことすら難しいほどに金銭や物資が不足しているのだ。近年は不安定な世界情勢から支援者もあまり集まらず、ことさら苦しい生活が続いていると聞く。

「僕としては……坊ちゃんには少し、申し訳ない気持ちもあるんですよ。僕さえあの家に流れ着かなければ、少なくとも神の眼に関わることは無かったはずでしょう?」
「それは……どうかしら。……どちらにしても関わっていたような気がするけれど」
「……アトワイト?」
「資質のある人間の元には必ず何らかの形で使命が行き着くものよ。当人がいくら嫌がったとしても、そういう運命にある以上、おそらくリオンも神の眼から逃れられなかったんじゃないかしら」
「うーん……そういうものなんでしょうか」
「そう思うわ。嘘と思うなら……シャルティエ、私たちが良い例でしょう?」

天地を分けた戦いの最前線に身を置くことになったのは、意志が先立ったのか運命が先立ったのか、今となっては知る由もないけれど。それでも、それはどことなく定められた道筋に引き寄せられて奮いたてられた結果、のようにアトワイトには思えていた。

ルーティ達もまた同じなのだろう。生き方や方向性などまるで多種多様な人間が、揃い踏みして同じ方向へ歩もうとするのは並大抵のことではない。神など別段信じてはいないけれど、いわば大きな流れのようなものが世界にはあって、それが引き合うことでもたらされるものはあると思っている。

「……それで?」
「はい?」
「十年前に盗み出されて、それからずっとあの屋敷に居るのよね。けれど、アクアヴェイルに居た頃は奉られていただけ?衆目に晒されるような身分の剣なら、いろいろと忙しかったのではないの?」

そうして素朴な疑問を投げ掛けるアトワイトに、シャルティエは心の中で息づいた。――宝剣。宝剣として奉るだなんて、結局は体の良い世間への贖罪の道具でしかないのに。

「ええと……すみませんが、その件にはお答えしなくても構いませんか?」
「……ええ、答えたくないと言うのなら別に構わないけれど……。どうやらいろいろあったようね、あなたにも」
「それはもう、気が遠くなるくらいにいろいろと。ずっと眠っていただけのアトワイト達と比べれば、僕なんてたぶん百倍くらいは苦労してると思いますよ」
「全く……。その通りみたいね。その言葉を信じるに足りるほど、どうやら立派な皮肉屋になっていらっしゃるようだから」

怒るというよりは呆れたふうに言ったアトワイトへ、シャルティエはほんの少しの苦笑を返す。あの頃のことは、金輪際誰一人に話しはしない。たとえ何処からか漏れ聞こえることがあったとしても、徹底的に知らぬふりをして過ごしてしまえたら。そしてどうかその記憶が、後世の何処にだって残らないように。悲しい所作が二度と為されないように。――そう、そうなれば良いと思う。

「そうだわ。ねえ、シャルティエ?リオンは実際どんな子なのかしら。私は彼とあまり接する機会が無いものだから……ほら、いつもルーティがあんな調子でしょう?迷惑が掛かってはいない?」

そうして物思うシャルティエに、ふと思い出したような調子でアトワイトが問いかける。本人を目の前にしては到底問うことの叶わない質問が、そういえばひとつだけあったのだ。

「ああ、そのことでしたら心配ありませんよ。坊ちゃんは素直じゃありませんから……つい誰にでもああいった態度を取ってしまうんです」
「でも……何と言うのかしら。そうね……ルーティにも言えることなのだけれど、ルーティに対しての彼の態度、少し異質ではない?」

心から嫌っているというふうでもないのに、決して近付こうとはしない。甘えているというふうでもないのに、突き放しきれているようにも思えない。とても不思議なその関係の名前が、これだけ生きてきてもアトワイトにはまるで見えてこなかった。それは自身がリオンをあまり知らないせいなのかもしれないし、単純にまだまだ経験不足だ、というだけの話なのかもしれないけれど。

言われて、傍らのシャルティエはどう返答しようか言葉に詰まる。あまり悠長に悩んでいては怪しまれてしまうから、結局、一瞬の空白に何とかそれを留めておいた。

「そうですね……坊ちゃんは、本当に興味の無いものに対してはとことん冷たいお人ですから。少なくともルーティのことは嫌いではないんだと思いますよ。ただ、スタンのように力を競い合う、って感じでもないですし……かと言ってフィリアのように旅の同行者と割り切るには……うーん、何と言えばいいんでしょうね」
「……何にせよ無視できない存在、ってところかしら?」
「ええ、まあそういうことだと思います。たぶん坊ちゃんなりに気に掛けていると思うので……失礼を言ってしまっても大目に見てあげてくださいね」
「あら、それはこちらのセリフだわ。ルーティもあれでリオンのことは嫌いではないと思うんだけど……何せ口の悪い子だから。あんまり愛想尽かさないでやってちょうだいね」

二人揃って苦笑して、各々のマスターの気難しさを思いやる。ああ、事実を知っているだけ余計似ている。とりわけシャルティエはそんなことを考えながら、その苦笑に重々しさが少しばかり混じる。

――カチャン。

「……あら?お帰りかしらね」

ふいの物音に反応したアトワイトがそんなことを呟けば、すぐに錠の外れる音がして、部屋に光が差し込んだ。遠慮もせずにかつかつと鳴らされるこの靴の音は、聞き慣れたルーティのものだろう。

「お帰りなさい、ルーティ。何か収穫はあって?」
「んー、一応防寒出来そうなものは揃えてみたけど……チェルシーに合いそうな子供服だけどうしても見つからなかったのよね。あの子ったらそれでやたらと怒り出しちゃって。……まったく、そういうところが子供だって言うのよ」
「それで、チェルシーはどうしたんですか?」
「決まってるじゃない。戻るなりウッドロウのところへ一直線よ」
「そうですか、ははは……」

この日何度目かの苦笑をしつつ、シャルティエは己のマスターの帰りを待った。リオンはルーティとチェルシーと共に当番制の買出しへ向かっていたはずなのだが、こちらはまだ姿が見えない。

「そういえば、ルーティ。リオンは一緒じゃなかったの?」
「あいつ?ついさっきまで一緒だったわよ。もう少ししたら来るんじゃないの?かしましいのはごめんだ、なんて言ってさっさとどっかに行っちゃったわ」

アトワイトの問いかけへいかにも不服だとでも言う様子で語るルーティに、シャルティエは複雑な心境で吐息した。まだ此処に戻らないと言うことは、すなわち――。

「坊ちゃんらしいと言うか……とにかく、僕はまだこのままなんですね。まあ、良いんですけど……」
「別に、心配しなくてもそのうち迎えに来るでしょ。それじゃなくても出掛けから逐一あんたの心配してたくらいだしね、あいつ」

まったく、鬱陶しいったら。それじゃ、ちょっと荷物部屋に置いてくるわね。アトワイトももうちょっと待ってて。そう言って一室を出て行ったルーティを見計らって、二人は込み上げるようにくつくつと笑った。

「……本当、あなたのマスターは大した頑固者みたいね、シャルティエ?」
「そう言うルーティも負けてないんじゃないですか?結局あの荷物、全部引き受けて帰ってきちゃうんですから」

あら、それもそうかもしれないわ。抑えきれないままで笑うアトワイトに、シャルティエも笑みながら、うやむやに隠し通した真実を再確認する。

――ああ、本当に。本当に姉弟なんだなぁ、あの二人って。