かみさまのみるゆめ

真白の衣装に身を包んで、アリエッタは引き連れた魔物たちを外に待たせたまま部屋へと入る。照明が付かずにただ薄ぼんやりと光が差し込むだけの簡素な部屋は、入れ替わり立ち代わりに六神将が出入る準備室のような役割を果たしていた。

たぶん、ここに来るのも最後になるんだろう。拙くおぼつかない思考で、それでも終わりを直感しながら彼女は静かに戸を引いた。少し軋んで開いたその先にちらつく、予想していたような、そうでもないような人影が途端に彼女の視界を占有する。

彼女の入室に気が付いたらしい彼は、仮面を付けず、ありのままの素顔を晒したままアリエッタをゆるりと振り向く。ひねくれたような笑みを湛えたそれは普段と少しだって変わらず、「やっぱり行く気なんだ」と嘲りを含めて呟いた。

「……死にたがりだよね、アンタも」
「シンクには関係ない……です」
「ふうん?ま、イオン様が消えた世界じゃ生きてたって仕方ないか」

「イオン様」を殊更に強調してみせるシンクにアリエッタは少し反抗的な視線を投げかけながら、部屋奥の引き出しから小さな星があしらわれたブレスレットを取り出す。何かの決意の表れのようにじっとそれを見つめたあとで、彼女は左腕にそっとそれを巻きつけた。

彼女にとって最後の日に身にまとう物ならたぶん、あれは生前に本物のイオンから譲り受けでもしたものなのだろう。そんな分かりたくもない理解をよりいっそう深めながら、シンクは一連の彼女の行為を物静かに見つめていた。

どうせ気付くことが無いのなら、このまま嘲笑ってやればいい。痛む、こんな心になんて気付かないふりをすればいい。心の中で彼はひとりごちる。どうせ自分は代用品。居場所などはじめからどこにもありはしないのだから、と。

「シンク……」
「何?」
「アリエッタは……」

ふいに、アリエッタがシンクの名を呼ぶ。予想していなかったのか驚いたように問いを返した彼は、壁際に背を預けたまま訝しげな表情を崩さない。一言発してしまってから思い詰めたように口ごもるアリエッタは、そのまま答えを返さずに、開きっぱなしの引き出しのさらに奥の方からもうひとつ、紙きれのようなものを取り出して微笑する。

彼女の間の取り方など今更だ。苛立ちを募らせるよりも諦めを覚えた方がずっと自分にとって健全であることは、シンクとてもう随分前に学んでいた。彼女が急がないと言うのなら、あえて問いただす必要はない。どうせこの部屋でのやり取りが彼女との最後のやり取りになるのだろう。そう思えば、あまり認めたくはないが、この時間を終わらせるのが惜しい気持ちも若干ながら浮かんでいた。

「あの、これ、覚えてる……?」
「……花?」

先ほど切った言葉を一度無かったことにして、今まで影に隠れてよく識別出来なかったそれをアリエッタが陽に照らす。一気に鮮明な形を取った厚紙に収められていたのは、白色と赤色の小さな花。一件何の変哲もない押し花が佇んでいるそれに、あろうことかシンクには覚えがあった。

「……アンタ、まだそれ持ってたんだ」
「シンクがくれた、だから持ってた……です」
「ボクが?何か関係あるの、そんなこと」

レプリカイオンに貰ったものなんてさ。そう言い掛けて、なけなしの良心が勝手にそれを阻んでしまう。元々アンタが追いかけたイオンなんて、どうせもう死んでるのに。続きもまとめて呑み込んで、シンクはアリエッタにきつい視線だけを投げかけた。

意味の無い戦いに赴いてわざわざ命を投げ出そうとするアリエッタは、彼にとっては酷く滑稽で残酷な存在なのだろう。それほど時は経っていないはずなのに、既に懐かしさを感じさせるその花はすっかりと乾き切って、少しでも触れれば簡単に壊れそうな、とても空虚な代物に変わっている。あの頃偽者とも知らずにただイオンを追いかけていたアリエッタは、無知ゆえにまだ生きる意味を失ってはいなかった。

彼女の世界の中に見えるものなどおそらくそう多くはない。シンクの何より疎む、彼と同じ存在を彼女は太陽の光を浴びたがるかのように懸命に求め、影にありながらも光をただ願い続けた。それが叶わないと知らなかったのは、たぶん本人くらいのものなのだろう。

ヴァンにとって彼女はひどく従順な手駒に過ぎない。いや、ヴァンにとってはすべてが手駒以外の何物でもないのだろうか。野望に満ちた男を愛してしまったがゆえにその手を血に染めた女も、娘を奪われて絶望した男も、盲目的な友への思いから非道に明け暮れた研究者も、あるいは孤独を逃れるべく剣を振るうあの赤毛の被験者でさえも。

シンクは初めから自身に掛けられた期待の意図を知っていた。けれど必要とされるのなら、別に道具だって構いはしなかった。元々ゴミとして棄てられる運命なら、拾った命で偽善的な世界に復讐してみたかったのだ。それが結果的にヴァンに尽くす形になったとしても、革新のための歯車の一部になれるのならそれはそれで本望ではないだろうか、と。

「シンク」
「……聞いてるよ」
「アリエッタ、は……」

うん、と頷いて少し悲しそうに目を細めたアリエッタは、どうやら先ほど切った言葉の続きを再開しようとしているようだった。相変わらず言いよどんで、一言目のあとには当たり前のように数秒の間が空く。やがて決意したようにシンクと瞳を合わせたアリエッタは、別れの挨拶のような調子でその言葉を大切そうに空気へ溶かした。

「アリエッタはシンクのこと、好き……です」
「……何、言い出すのさ。この期に及んで冗談は――」
「冗談なんかじゃ、ない……!ほんと、だもん……」

予想だにしない一文を告げられて、さすがのシンクも平静を保てなくなってしまう。苛立ちと昂揚の間にあるような複雑な心境の中で、それでも暗く影を落とす「代用品」の一語。同じだから好きなのだと語るなら、これ以上に残酷な現実はどこにも無い。

「……そんなの、ボクがイオンと同じだからだろ?」
「ちがう!」
「じゃあ何だって言うんだよ。空っぽのボクに、アンタが何を――」
「シンク、は……!シンクは、お花、くれました。怪我、したら助けてくれた。シンクも怪我、してたのに……。アリエッタは知ってた……です。シンクは、とってもやさしいって」

「ちがうですか?」と、抗議めいた視線でアリエッタはシンクを見やる。ああ、一旦火がつけば強情なのだ、この女は。そんなことはこれだけ付き合いがあれば嫌でも分かることだと、シンクは心の中でひとりごちる。この女はバカだ。これから仇を討つために、何ら関係の無い人間へそんなことを言うなんて。

「残酷だ……アンタは。どこまでもね」
「え……?」
「アンタはボクを好きだと言った。それなのに、アンタはこれからイオンの仇を討って死ぬんだろ?無茶苦茶じゃないか。……これが残酷でないなら何と呼べばいい」

人を代用品から逸脱させておきながら、結局すぐに目の前から消えていくつもりなら、最初からそんな言葉は聞きたくなかった。シンクは思う。代わりでないと気付かされた途端にそれを認める人間が消えれば、ボクは今まで以上に空っぽでいるしかなくなるんだ。

「……もう、行きなよ」
「でも……」
「ボクも嫌いじゃないよ。……アンタのこと」
「シンク……」
「ま、せいぜい有益な敵討ちになればいいけどね」

たぶん、無理だろうけど。最後の言葉は呑み込んで、「ほら、早く」とシンクはアリエッタを急かす。彼女はきっと戻らない。残酷な幸福だけを残して今日、追い求めた幻の先で、今この瞬間すら無に返して朽ちるのだろう。

しばし不安げにシンクを見つめて、やがて諦めたようにアリエッタがこぼす「行ってきます」の声を、彼は静かに静かに受け入れる。

「……どうせボクもすぐそっちへ行くさ」

呟いたと同時に戸は閉まる。あがいたって変えられない運命があることなど生まれた時から知っていた。肯定を与えてそのまま消えるなら、居ようが居まいが同じこと。

結局空っぽしか残らない人間の居場所なんて、どこにもありはしないのだから。