Fragile-Tear

「どうして、ルークが……」

瘴気に満ちたダアトの小さな橋から、私は空を見上げている。出来得る限りに仲間たちを起こさないよう寝室をすり抜けて来たから、たぶん誰かが追ってくることは無いだろう。眠れない。張り詰めた空気のあの王宮で、キムラスカのインゴベルト陛下、マルクトのピオニー陛下、お祖父様もジェイド大佐さえ、アッシュに代わってルークをレプリカ達と心中させることが最善だと言った。

勿論、頭では分かってはいる。被験者であるアッシュにはレプリカ情報を抜き取られたことによる変調が無かったから、超振動も一切の劣化無しで使うことが出来る。ローレライの解放には彼の力が不可欠だし、ここで死なせるわけには行かないことだって事実。自分に生きる意味を求めたルークが死ぬことで必要とされることを見出せば、彼はきっとそれを受け入れるだろうことも、そう、私はきっと知っていた。

けれど、私は今揺れている。だって、どうしても認められそうにないのだ、彼の決めた行動の自己犠牲ぶりに。無鉄砲ぶりに。その選択の愚かさに。すべてに。

昔リグレット教官が私にくれた「石にかじりついてでも生きなさい」と、その言葉が先からささやかに思考を巡る。ルークの気持ちが分かることが何より痛い。分かっているのだ。兄さんと刺し違えてでも馬鹿な行いを止めようと自己犠牲を計画した私が口を出しても結局、慰めにも似た言葉にしかならないことだって。本当は止めることも憎むことも筋違いで、ルークが決めたことを尊重することこそ何よりなのだろうって。それなのに。

「いつから私は、こんなに弱くなったのかしら……」

月を探せば、よどんだ空から少し重々しい風が吹いた。頬に嫌な感触をもたらすこの瘴気は、今も着実に世界の人々を蝕んでいるのだろう。初まりはいつも小さなせせらぎなのだ。小さな子どもや老人が侵され、やがてその家族が侵され、兄さんの行動を待つまでもなくこの世界の被験者は消える。瘴気へ対処しなければ、すべてが終わってしまう日までのカウントダウンはもう何時始まるかも分からない。

今夜の空気は少し冷たい。底冷えは瘴気から起こっているものなのだろうか。今が春なのか夏なのか、それとも秋や冬であるのか、もし手元に時計やカレンダーが無ければ把握出来そうにないほど、このところは狂いきった天候が続いている。鈍色の雨や穢れた雪。美しい風景は今ではすべてが鈍く薄れ、泥沼のように陰った大地がすべてを覆うのみとなってしまった。

明日の朝、おそらくルークはすぐにでもレムの塔へと向かうと言い出すだろう。それがどれほど辛くても、私に引き止める権利など無い。みんなが引き止めてそれが駄目でも、私が止めてしまえば彼の決意は揺らぐかもしれない。驕りではないけれど、そんな気はずっとしていた。だから尚更止められない。人間ひとりの生き死にを簡単に左右するわけにはいかないから。何よりそんなこと、ルークに失礼だと思うから。

「ルーク……」

もし明日でルークと永遠に別れることになったなら、その時私は何を言おう。最期なんて考えてしまう自分に嫌気が差すけれど、ああ、幾度想えどなんて酷い。現実から逃げることが出来る時間さえ、たったこの一晩しか残されていないなんて。

ルークは私たちが中和の方法を知るさらに以前からこの無謀な方法を知っていた。当人などあの性格だから、一体どれだけ悩んだのだろう。彼は悩みすぎるから、声を掛けてもすくい上げられないくらい、すぐにどこまでも落ちていってしまう。価値なんてそこに存在しているだけで十分なのに。誰かがレプリカを嘲笑っても、少なくとも私にとって、彼の存在は価値あるものなのに。

ルークのことを思い返すと、タタル渓谷へ飛ばされた日のことから、いつも随分長いこと考えてしまう。あの頃ルークはまだ何の常識も知らないような我侭息子で、私も、ルーク自身も彼がレプリカであることなど知る由もなかった。私は彼に嫌悪ほどの感情を抱きはしなかったけれど、内心面倒さや複雑さを抱えていたことは事実だった。

髪をばっさりと切って見せたあの日、ルークは私に見ていてほしいと告げた。変わってみせるから、そのさまを私に見ていてほしいと。それから随分経った今、確かに彼は変わったと言える。昔のように無知な子どもではない。何かを背負って、罪を抱えてなお、前を向いて地に立つことの出来る青年に彼は立派になって見せた。

けれど同時に、自分の生まれた意味を問いかけるようにもなった。自分は理由が無ければ存在出来ないのではないかと、誰も糾弾するはずのない劣等感に苛まれて、それはきっと今この瞬間も。

最近彼と居ると浮かぶ、得体の知れない感情の正体に私は薄々気が付いている。ただ抑制しようとしているだけで、今の私は、たぶんルークのことを。

「……誰?」

ふと慣れた気配がして、気配の主へと形式的に問い掛けてみる。今のルークはとても優しい空気を纏っているから、近付いてきても警戒することなくすぐに受け入れることが出来る。

私の声に、少し笑って姿を見せたのはやっぱりルーク。こんな真夜中に出歩くなんて、彼もまた眠れないのだろうか。誰も自分から命を落としたいはずがない。私だって、本当は無理やりにでも止めてしまいたいけれど。

「どうしたの、こんな時間に」
「何でかな……ここに来ればティアに会えそうな気がして」
「……私に?」
「うん。迷惑かな?」
「ううん。そんなことないけど……」

理由を率直に尋ねてみれば、ルークは驚いたことに私に会いたかったのだと言う。階段を上りきって私の隣に立った彼を見て、また胸が苦しくなった。明日消えてしまうかもしれない彼に掛ける言葉が見当たらなくて、少し溜め息を吐いて押し黙る。私は今悲しいのだろうか。腹立たしいのだろうか。どちらも違って、咎めて楽になりたいのだろうか、それともルークを慰めたいのだろうか。自分の気持ちが見えないままで、そんな私がとてつもなく無力に思える。

いや、実際とても無力なのだろう。嘆いても怒っても咎めても慰めても、それは全部私の自己満足でしかない。世界のために消えるからと微笑うその彼が、いつも恐怖にふるえていることを私は知っているはずなのに。

ルークは――とても怖がりだ。でも、それは恥じるような恐怖じゃない。けれど彼の中で、アクゼリュスはいつまでも過去になってくれはしない。

「……ねぇ、ルーク。ここで、ずっと考えていたの」
「何を?って、聞いてもいいかな」
「ええ。……そうね。私があなたと出逢った日から、今日までのことを、ずっと」
「……始まりか。懐かしいな。もうどのくらい経ったんだろう」

伝えれば、ルークはまた少しにこりと笑って橋の縁へと身を乗り出してみせた。タタル渓谷に飛ばされたあの日から、私たちの途方もない旅は始まった。今でもふと考えることがある。もしも私がファブレ家へ行ったのがあの日あの時間でなければ、ルークは今頃どうなっていたのだろうかと。もしかすると死なずに済んで、無知ながらも幸せな一生を送ることが出来たのではないか、と。

「ティア」
「え、なに?」
「どうせあのまま屋敷に居たら俺、アッシュに殺されてたと思う」
「え……」
「負い目に思ってるんだろ、今でも」
「あ、あの、私、もしかして口に出して……」
「いいや。……けど、やっぱ気にしてたんだな。そのこと」

慌てる私へ静かに笑ったルークの言葉に、ようやく鎌をかけられていたことを知る。もちろん、こんなことで怒りが湧きはしないけれど。

思う。これほどに悲しい終わり方を選ぶことになるのなら、あの時出逢わなければ彼はアクゼリュスで罪を背負うことも、自分がレプリカだと知ることも無かったのではないだろうかと。もしそれでアッシュや兄さんに命を狙われたとして、そのとき彼が無力であったとしても、何一つ苦しまないうちに命を終えられたのではないだろうかと。たとえその最期が他者の怨恨や使役であったとしても、今よりずっと苦痛の無い死を迎えられたと思うのに。

「私があなたと出逢わなければ、こんなことには……」
「んな寂しいこと言うなって。ティアには感謝してるよ。何度も言っただろ」
「でも、元々私はあなたを巻き込んで……!」
「……よく覚えてる。今でも」
「え……?」
「俺が髪を切った日、ティアは俺を見ているって言ってくれた。……あの言葉にどれほど救われたか」

そう語りだすルークは至極真面目な顔をして、いま私は返す言葉も無く、随分大人びたその横顔をただ静かに見つめているだけだ。少し目を細めて彼が見上げた空は今も濃い紫に包まれて、打つ手無しの状況をまざまざと認識させられる。

どうして簡単に諦めてしまえるのだろう。どうして、どうして私に感謝など出来るのだろう。私がルークを巻き込んで始まった旅の終着点がこんな絶望的な現実だと知ったなら、私を恨んだって構いはしないのに。

「……あの頃俺、何も知らなかったけどさ。それでも、あの家に何となく居場所がない感じはしてた。母上は俺が本当の息子じゃないって知ってても普通に接してくれたけど、それ以外は皆、今考えれば冷たい視線ばっかだった」
「ルーク……」
「ティアは公爵家の跡取りの代用品じゃない、ただの俺を見てくれただろ。あのままあの場所に居ても、結局俺はただの代わりだった。どっか虚しいまんま、何となく死んじまってたかもしんない」
「でも、それはあなたが変わったから言えることで……」
「うん。知らないって幸せだよな。……でもたまにぞっとする。もしあのままあの家で暮らして、師匠かアッシュが何も知らない俺をある日突然殺しにやって来て、俺はレプリカだったと教えられたら?何の為に生きて、死んだことになるのか分からない。……なにも、残らないんだ」

人形は人形として存在して朽ちる。当たり前のこと。けれど、その人形が意志を持てばそれはすぐに残酷な現実に変わる。本人はそれを知らず、周りだけが知っている。幸福なのか不幸なのか、私には答えが出せそうにない。

「……私、最初はあなたの言葉を聞いても、人は変わることなんて出来ないって思った」
「ははっ、そりゃそうだよな。俺、最悪だったから……」
「違うの。確かにそれもあるけど、あの時のあなたの言葉は本物だったわ。でも、私は……変われずに道を逸らしてしまった兄さんを知っているから」
「……ティア」
「また裏切られるのがいやだった。……怖かったのかもしれないわね。信用しなければ傷つくこともないもの。だから、私はあなたを信じないことで逃げようとしたの」

でも、あなたは私に人が変わっていける事実を見せてくれた。私に無かった感情を教えられてしまったことは、どう捉えようか今になってもまだ分からないけれど。

「ほんとに止めないんだな。俺が消えようとすること」
「あなたは……!だってあなたは、私が止めたら怒るでしょう。だから、止めないわ。だけど認めたわけじゃない。……それを忘れないで」
「……ああ。ありがとう」

ああ、きりきりと胸が痛い。誰かの死に感傷を抱かないと決めたあの頃から、痛みや悲しみはすべてかなぐり捨てて来たはずなのに。情を持つことは死に繋がる。分かっているはずなのに、世界にとってあまりに合理的に過ぎるこの結論を、私はどうしたって受け入れられない。

最後だと分かっているのに、伝えたいことが言葉になって出て来ない。多大な感謝と少しの叱咤。それから二人で居る時の説明しようのない幸福感の真実も、何もかも。

「……今夜は冷えるわ。眠れそう?」
「ああ、大丈夫。……ありがとう」
「そんなこと……」
「ティアは先に戻ってくれないか。俺、もう少しここに居るから」
「……戻らないつもりなの?」
「いや、少ししたらちゃんと戻る。だから少しひとりにしてほしい」
「……ええ。分かった、わ……」

相変わらず苦しげに微笑むルークを置いて、私はひとり宿へと戻る。ああ、結局何も言えないままで。

「ばか、ね……」

眠ればすぐに朝が来る。張り裂けそうな心と裏腹に、この瞳には涙一粒落ちてくれはしない。

明日、ルークは消える。歪み散り行く世界のために。