Fragile-Natalia

部屋を出て行こうとする物音に重ねて、小さく人の声がした。そのまま気付かないふりをしていたら、当の二人はどうやらそのまま出て行ってしまったようだ。起き上がって辺りを見回すと、この部屋には私ひとりしか残されていないことに気づかされる。眠れないのは私も同じだから、特に不思議というわけでもないけれど。

泣き疲れた末の深い眠りと、しばしの後に訪れる覚醒の狭間を先から何度も行き来して、到底よく休めているとは言いがたい。この状況で暢気に眠っていられる人間など、ルークを大切に思う者であればひとりだって居はしない。

大佐の声が聞こえていたから、さっき出て行ったのはおそらく大佐とアニスなのだろう。ガイは私が眠ろうとする頃にはもう此処を出て行っていたけれど、ティアとルークがいつここを出たか、私には分からない。二人とも眠る私たちを気遣ってそっと出て行ったのだろうけれど、それにしても全く気付かないことは珍しい。

一度目覚めると、またしばらく眠れはしない。ひとりですることなど何もないけれど、このまますんなりと意識を手放せるようなら苦労はしないのだ。誰も戻ってこなければ、私はこれから、ルークが果たすと決めた決意のその先を再び思い描くばかりなのだろう。

彼は――ルークは、アッシュの代わりに命を捧げてみせると言った。レプリカだから。自分が生き残るよりも、アッシュが生き残るべきだからと、まるで懸命に自らへと言い聞かせるようにして。けれど、レムの塔ではあんなことを言ったアッシュも、そんなことを望んでいるわけではないだろう。いや、それとも彼は本当にそう望んでいるのだろうか。

私の赤毛の幼なじみは二人とも、どちらか片方が存在することに安堵を覚えているように私には見える。けれど同時に、片方が存在することを怖がっているようにも見える。何せルークは劣っているから存在価値がないなどと滅多なことを考えているし、アッシュはルークにすべてを奪われたと思っているのだから。

「私にとってはどちらも大切ですのに……」

意識せずにいれば、すぐに溜め息が落ちてしまう。自分が消えるべきだと主張する争いだなんて、なんて稀有で悲しい争いだろう。普通は消えたくないが為に、役割を押し付けあって争うものなのではないだろうか。消えたくないのに消えたがる彼らを見ているのは、とても辛くて苦しいこと。けれど今となっては、私も止めてくださいなどと彼らに軽々しく言えるような立場ではなくなってしまった。

彼らの間にあるのはレプリカと被験者の関係だけではない、もっと深いわだかまりなのだ。アッシュにとって、ルークがレプリカであることはある意味体の良い争いの口実でしかないのだろう。実際のところ、彼は居場所を奪われた、ということに対して殊更腹を立てているのだから。

もしかすると以前の私なら、あなたが家を追われたのはルークのせいではないのだと、そうアッシュに諭したかもしれない。けれど、こんなことはルークを受け入れた今だからこそ言えること。実際はルークを傷だらけに非難していたかもしれないのだ。

結局のところ、彼らのどちらにだって非は無い。もちろん、技術を生み出したジェイドを恨むのも筋違い。悪用した人間を憎みはしても、被害者たちを糾弾することに意味はない。そんなことをすればただ悪戯に傷を増やすだけなのだと、今なら十分理解は出来る。

「アッシュ……」

彼は今何処に居るのだろう。天候の関係もあって、今日中にレムの塔へアルビオールを飛ばすのは無理だとノエルに言われているから、たぶん彼も今夜はどこかに留まっているはずだ。アルビオール3号機も基本機能は同じであるから、この天候での強行突破は兄と言えども不可能でしょう、と彼女は夕刻私たちに話してくれていた。

キュビ半島へは空を飛べなければ足を運ぶのは不可能だそうで、ティアやガイの話に寄れば港はおろか、ろくに接岸出来そうな場所はおそらく無いだろうとのこと。だからこそ明日を迎えるまでこうして落ち着かない時を消費しているのだけれど、ルークが決意を果たすそのときを何もせずに待ち続ける時間など、ただ絶望以外の何物でもありはしない。

目覚めてどのくらいの時間が経ったのかと思い、立ち上がって部屋隅に置いてある時計を確認する。先ほどから15分しか経っていない。朝に近づくことは決して幸福ではないと言うのに、今を続けるのもまた苦痛には違いない。周囲の人間が苦痛を感じるのは所詮自分可愛さの結果でしかないと知っているはずなのに。

ルークにとって今このときというのは、一体どれほどむごい仕打ちなのだろう。


一向に過ぎてくれない時間と手持ち無沙汰な我が身に耐えられなくなって、皆に倣って私も部屋を出る。宿の扉を閉めてから、意識して数回瞬いてみた。月は瘴気に霞んで、光はここに届かない。

ひとりではあまり遠くへ行く気分にもなれないから、宿を出て入り口に行くのでも、橋に行くのでもなく、商店街を何となく歩いた。真夜中のダアトはいっそ恐ろしささえ感じさせるほど静かで、まるで空気が音を押しつぶしてしまっているかのようだ。立ち止まれば、何一つとして音が聞こえない。

自分が存在しているのか否かまで問いたくなるような静寂など初めてだ。世界には大小に関わらず、常に何かしらの音が響いていて、音が尽きることは無い。そんな絶対の認識ごと壊れてしまいそうな風景は、畏怖と少しの神聖さを私に感じさせる。

瘴気の存在する世界が神聖であるなどと、本来なら言語道断の感情だ。このままではいずれすべてが絶えてしまうことを知っていながら、穢れた世界を神聖だと思う。

このまま運命に押し流されて消えてしまうことも仕方がないと思わされてしまいそうな。そう、それほどこの風景は異端で、苦しいのにひどく美しいのだ。

「……ナタリア」
「っ!」

すっかりこの街の空気に取り込まれてしまっていると、突然音のないはずの風景が震えた。驚いて私は勢いのまま振り向く。

「そう驚かなくてもいいんじゃないか。瘴気だらけの街中……それもこんな真夜中に出歩いてる奴なんて、たぶん俺達くらいのもんさ」
「ガイ、でしたの……」

私の名を呼んだ声の正体を知ると、そこから急激に現実に引き戻される感覚に襲われた。ぼんやりと虚脱感の中を彷徨っていたまとまりの無い自分がひとつになって、先ほどの感覚が恐ろしく思えるほどにほっと暖かいものが心を満たす。

私は、逃げたいのだろうか。私などよりずっと傷付いている人たちがいることを知りながら。自分が死ぬわけでもない、私ごときが逃げるなど、ただずるいだけのことだと知りながら。それでも?

「悪い。放っといた方がいいかとも思ったんだが、心ここにあらずって感じだったんでな。声掛けさせてもらった」
「お気になさらず。……むしろ感謝しますわ」
「他の皆は宿にいるのか?」
「いいえ、私が外へ出る時には誰も残っていませんでした。ジェイドとアニスが出て行くところは聞いていましたが、ルークとティアはいつ出て行ったのかも……」
「そうか。まあ、そう簡単には割り切れないよな。……馬鹿だよ、あいつは」

ガイはそう呟いて、ひどく真剣な面持ちのまま腰に携えた剣を見つめている。思えばアッシュ、それから7年前、彼がルークに代わってからも、彼らといつも共に居たのは私よりガイの方だった。

もちろん私も共に過ごしはしたけれど、幼い頃には王女として学ばなければならないことが数多くあった。それが落ち着いた頃になっても、7年前空っぽになって帰ってきたルークに対しては彼がレプリカである事実など知らず、私はただ変わってしまった彼に戸惑うばかりで、まともに接することが出来ていなかったのが実際のところだ。

ガイはたぶん、アッシュに今も複雑な思いを持っているのだろう。私を慮ってそれを口にすることは無いけれど、ベルケンドでの一件を見る限り、グランコクマで彼が口にした憎悪は完全に消えたわけではないのだろうと思う。

悲しくはあるけれど、どうすることも私には出来ない。だって、アッシュとルークは別人なのだ。ファブレ公爵夫妻がルークを息子であると認めている限り、正確にはルークもガイの仇の息子には違いない。けれど別人として接する限り、それだけでは割り切れないものがあることだって分かる。

「ねえ、ガイ。……ルークはどうしてあの答えを選んだのだと、あなたは思いますか?」

わざとらしく、意味深に言い含めた私の言葉をガイは真っ直ぐ受け止めて「そうだな」としばしの沈黙を空虚に落とす。生きる意味を欲しがっていたルークが何を見て明日に死を望もうとしたのか、どうしても私には分からなかったのだ。

大切な人や大切なものを守るため。それなら答えは簡単なのだろう。いや、もしかすると広義にはそう取って差し支えないのかもしれないし、本人に問うてさえ、こんな言い回しをするかもしれない。でも、ルークの中に抱かれているものが、私にはもう少し別の何かのような気がしてならないのだ。

「俺達のため……ってのがナタリアの求める答えじゃないんだとすれば」
「……ええ」

自然と呟かれたガイの言葉には、どこか私の知りたがるルークのそれに様子が似ていた。少し物憂げな顔で、まるで何かの終わりを悟ったかのような、悲しく抜け落ちていくこの感情の名前は――。

「……諦め、だな」

思考に声が重なった瞬間、ぱちん、と、何かが弾けるような心地がして、世界がいっそう静かになった。諦観。ガイの口にしたそれは、ああなるほど、言われてみればその通りだ。

投げやりに投げ出そうとしている命の価値を、理由付けしてもっともらしく低級なものだと語ってみせる彼は――そう、例えるなら大人の詭弁を覚えた子ども、そのもののような。

「自暴自棄と分かっていても、俺達はあいつを止めてはやれない。……それは分かるだろう」
「……ええ、分かっています」
「何があっても自分の意志を曲げたりしない。……結局、俺には最後まであいつを見ていてやることしか出来ないのさ」

無力すぎて泣けてくるけどな。そう冗談めかして語った彼の瞳は言葉に反して笑みを少しもたたえずに、自責にも似た痛みで溢れているようだった。

さあ、そろそろ宿へ帰ろうか。続けて言ったガイの言葉に付き従って、私はちらりと紫雲の空を振り返る。この空が晴れる頃、大切なものがまたひとつ消える。

その時見える青空は、きっと私に幸せを運ばない。