Fragile-Anise

「んー、あれ、ルーク……?」

小さく鳴り響く音に目を覚ますと、部屋から出て行く人影が一瞬だけ視界に入った、気がした。何かが動いた気配に一気に現実に返って、あたりをゆるく見回してみる。此処はダアト下町の宿屋。だけど、そんなことは分かってる。もう少し意識を覚醒させて耳を澄ませば、辺りがすっかり静まり返っているのが分かる。今時計を手に取ったなら、その針は見事に深夜を示すことだろう。今更だけれど、巡礼者が帰ってしまったあとのダアトは本当に静かだ。

私の2つ右隣に眠っていたはずのティアのベッドと、それから2つ左隣に眠っていたルークのベッド、それから私の左側を陣取るはずのガイのベッドがよく見てみればもぬけの空だ。近場に話し声は聞こえないから、それぞれ随分遠くへ行ってしまったのだろうか。元々、ガイが夜中にひとりでよく外へ出て行くことは知っていた。だけどそれはいつももっと早い時間か、それともまだずっと夜が更ける頃のことだ。と言うことはたぶん、さっき私が見た人影はルークだったのだろう。

ルークはあんなに簡単に言っていたけれど、私はもう、自分を犠牲にするようなやり方で誰かが死んでしまうのは嫌だと、思う。イオン様みたいなやり方で世界を、私たちを、それからティアを助けようとして、まるで名誉を得るかのように死のうだなんて。

アリエッタは私に言った。「イオン様はアニスが殺した」って。反論は出来ないし、するつもりなんてない。私はあんなに大切にしていた人を殺してしまった。立場とか理由とか、そんなのはどうでもいい。仕方がなかったとか、パパとママを盾に取られていたからだとか、それも全部本当のことだけど。それでも私はイオン様を見殺しにした。罪が軽くなるわけじゃない。たぶん私はこのまま、自分を永遠に許せない。

だけど、だからこそ同じことを繰り返すなんてそんなのもっと許せない。やっぱりもう一度ルークを止められたらとも思うけど。ルークの決意はきっと固い。それでも、せめて最後にもう一度話が出来たら。そう思ってナタリアたちを起こさないように部屋を出ようとしたその時、私は後ろから、私を引き止めるよく慣れた声を聞いた。

「アニス。……止めておきなさい」
「大佐……でも」
「では、とりあえず外へ出ましょうか。騒いで彼女を起こしてはいけませんから」
「……うん」

私のベッドの右側にはナタリアが静かに眠っている。涙の跡が残っているのには、せめて見ないふりをしていよう。仲間を死なせてしまう悲しみをわざわざ残そうだなんて、ルークはなんて馬鹿なんだろう。そんなに、簡単な話じゃないことだって分かってはいるけど。

小声で私を外へ連れ出した大佐はティアたちの行き先が分かるのか、橋へ向かおうとした私を「そっちではありません」と反対側へ引き連れた。結局ダアト入り口付近の高台で立ち止まって、大佐は小さな溜め息を吐いている。いつもの、馬鹿みたいに軽い調子はどこにも無い。

「大佐っ!……なんで、追いかけさせてくれなかったんですか」
「2人で話したいこともあるでしょう。そっとしておいてあげなさい」
「でも……!」
「アニス。ティアとルークは私たちと会うずっと前から行動を共にしているんです。明日が最後だとすれば、話したいことはたくさんあるでしょう。……気持ちは分かりますが、呑み込んでください」
「……うん、分かっ……た」

悲しい。何が悲しいのかも分からなくて腹が立って。本当はこのまま意味も無く反抗してみたい気もするけれど、大佐の言うことも分かるんだ。ルークとティアは、確かレムデーカンの月の終わり。そう、ローテルロー橋が壊れてしまう少し前にバチカルのファブレ公爵家で出逢ったとんだと聞いた。少ししてからのルークは私も知っているけれど、最初の印象は念を押したいくらいに最悪だった。典型的な思い上がりのおぼっちゃまだったあの頃のルークは、人を思いやることをまるで知らなかったんだ。

あれからルークが変わっていったのは、常に傍を離れなかったティアの力も大きいんだろう。ルークが変わりたいと願ったことも大きいけれど、ティアのことになるとルークはすぐに血相を変える。本人はきっと気づいてないと思うけど、たぶん、仲間の誰よりもティアのことを想っているし、ティアもルークのことを想っていると思う。

アクゼリュスのことの後、アッシュと戦って倒れたルークを見ていようと独りユリアシティに残ったのもティアだった。ティアはルークの為に残ったことを否定するだろうけれど、あんな状況になってもまだルークのことを気に掛けていたことは皆が知ってる。皆がルークを置いて行ってしまったその中で、ティアはひとりルークに付いていた。離れてもルークを心配し続けたガイも同じ。正義感が強いだけではとても説明の付かない絆は、たぶんあるんだと思う。

「……ねぇ大佐、ルークとはじめて会った日のこと覚えてます?」
「んー?エンゲーブですか。いやぁ、あれは不愉快でしたね。世の中傲慢な貴族と言うのはごまんといますが、あれほどの人間は私でもなかなかお目にかかれませんから」
「昔のルークったらフラフラになってるイオン様を無理に歩かせたりしちゃってさ。ほんと最悪でしたよぉ」
「レプリカだと言うことも、また知ることの無い事実でしたがね」
「あれはレプリカ関係ないない。性格の問題だと思いますけどー?だって大佐まで呆れてたじゃん」
「……でも今は?」
「……うん。消えてほしくないと思っちゃったりなんかしてるんですよね。……散々言って、馬鹿みたいだけど」

嫌なこともたくさんあったけど、楽しいこともたくさんあった。今ではルークだってちゃんと私たちの仲間なのに。レプリカなんてどうでもいい。

大佐もそうでしょ?って聞いたら、大佐はいつもの含み笑いで誤魔化した。大佐は何かを提案するときや説明するとき、それから否定しようと思うときだけはっきりと物を言うから、わざわざ返事を濁すと言うことは、これは半分肯定のようなものなのだろう。

「あーあ、大佐ってほんっとひとでなしですよね。……ルークにあんなこと言って」
「言いたくなかったと言ったでしょう。言わずにいられるのならその方が良かったのですがね」
「嫌味だよ、いーやーみ。……分かってるもん、大佐が本当にルークに死ねって言いたいわけないことなんて」

大佐はいつも非情なまでに、何事においても確率で物を語る。だけど私にはどうしても、それが悪いこととは思えない。だって私たち教団が信じる預言はいつも100%の道を進むためのものだから。預言の通りに行動すれば今日の幸せは保たれる。少なくともみんなが知らない、いつか滅びる運命は知らずにいることが出来る。

何も考えなくても生きていける世界。未来を選択していく不安も何も無い。まやかしかもしれなくても、それでも確実な明日を手に入れることが出来るんだ。私たちと違って。ルークと違って。それから、イオン様と違って。

あの日を思い出して、涙がにじみそうになる。イオン様は自分が消える運命にあることを知っていた。レプリカだってきっとそれは同じこと。自分が消えると知っていながら誰かのことばかり心配して、本当、イオン様もルークも馬鹿みたい。

――馬鹿みたい、だと思う。

「どうしたんです、アニス。言いたいことがあるなら言ってみてはいかがですか?」
「……大佐、いっつもマジメに聞いてくれないじゃん」
「うーん、私も鬼ではないのですがね。内容によってはちゃんとお聞きしますよ」
「……それじゃあ、言う」
「どうぞ」

どうせ大佐には隠したって隠しきれるわけがない。耐え切れなくなって、促されるまま私は語る。思い出したくないような、それともずっと抱いていたいような、いつまでも大切なひとの思い出話。身体が弱いくせに好奇心ばっかり旺盛で、そして、おかしいくらいに優しいあの人の。

「イオン様のことが離れないんです」
「……同じレプリカだから、ですか」
「イオン様、自分には代わりがいるって言って死んでった。そんなこともう思ってないって言ったくせに!なのに言い訳みたいにごめんねアニス、僕は大丈夫って!死にたかったわけないのに。ずっと生きたかったはずなのに……」
「まあ、そうでしょうね。それもあなたを安心させるための精一杯だったのでしょう」
「……分かってる。分かってるよ。イオン様にそんなこと言わせたのが、私の、せいだってことも」

罪悪感を口にしても、大佐は否定をしなかった。否定しない代わりに、軽蔑もされなかった。みんなそうだ。こんなにみんなを苦しめた私のことを、誰も怒って見捨てたりはしてくれない。自分の罪は自分で背負っていかなくてはいけない。当然のことだって知ってるけど。

「私、私……同じようにルークに消えてほしくない。あんなの、悲しすぎるもん……」

イオン様の言葉どおりに、ルークは明日、消えようとしている。きっと、きっとあの人はこの先にある、別の未来を掴み取って欲しかったんだと思うのに。

結局、誰の願いごとも守れないまま時は過ぎる。時間は、残酷に過ぎてくばっかりだ。いつもいつも、あんなに楽しかった毎日なんて、振り返れば一瞬で終わってしまう。だけど。

「我ながら、酷な理論を完成させてしまったものです。いっそのこと……」
「……ううん。大佐、その先は待っただよ。……それは違う」
「何故ですか?」
「フォミクリーが生まれなかったらなんて言うのはルークに失礼だよ。ルークも人間だもん。……生きてるんだよ。イオン様も……ちゃんと生きてた」

私はイオン様やルークを生み出した、この技術に感謝はしない。だけど、憎んだりも絶対しない。もしも大佐がこの技術を生み出したことを後悔すれば、ルークやイオン様は本当の意味でただの人形になってしまう。発案者が生まれた命を後悔するべきじゃないんだと、思う。

大佐は随分神妙な感じの顔をして少し考え込んでいる。「そうですね」と大佐が珍しくつらそうな溜め息をついた後のタイミングで、私は疑問を投げかけた。

「ねぇ大佐。ルークが生き残る確率ってどのくらい?」
「大幅に良く見積もって0.1%……と言ったところですかね」
「そっか。きっとさ、止められないよね」
「ええ。……一度決めたら曲がらない頑固者ですから、ね」
「……じゃあさ、大佐」
「はい」

もしルークが生き残ってさ。そしたらルークはまた普通に生きていけるのかな。一度呼び止めた勢いでそれも最後まで聞いてみようとしたけれど、勇気が無くってやっぱりやめた。だってもし聞いてみたなら、大佐は包み隠さず全部話してくれるんだろう。聞きかけてはしまったけど、その時返ってくるかもしれない最悪の答えには、私じゃやっぱり耐えられない。

「やっぱなんでもないや」
「……そうですか」

ぼんやりと、反対の方向へ向かったティアとルークが気に掛かる。ティアはたぶん誰よりルークのことを知っているから、だからこそもう一度止めたりはしないだろう。教会の図書室に響く、ティアの必死な声は涙を堪えるように震えていた。

人々がどんなにルークを賛美しても、死ぬ決断をしたルークを憎むとあの時ティアは確かに言った。ルークは馬鹿だって。そんなこと、絶対に許さないからって。あの言葉も、不器用なティアなりの愛情表現には違いない。明日が最後でも変わらない。それも確かにあの二人なのかもしれないと思うけど。

どうにもならないと知りながら、私はまた余計なことを考えてしまう。感謝や懺悔や敬愛や、あの人に伝えられなかったいろいろな言葉を。消えていったひとに私が言えなかった言葉の数々を、ティアはまだ伝えることが出来るけど。

「アニス、今夜は冷えます。そろそろ戻りましょうか」
「言えない、んだろうな……」
「アニス?」
「ううん。……なんでもない」
「……ええ、そうですね」

橋の向こうから、人影は未だ戻らない。

どうか、どうか、もう誰も後悔しなければいいのに。誰も悲しまなければいいのに。

「大佐。もう少し……ここに居たほうがいいと思いますけど」
「何故です?」
「……ナタリア、起きてると思うから」
「なるほど。……そうですね。そうしましょうか」